妄想と設計
作り物の話、フィクションを書くということは、ある意味で、妄想そのものです。
まるで存在しない話を勝手に頭の中で作るわけです。
だから、ぼーっとしたときや寝る前の妄想とかが、話のネタになりやすい。
真面目に、どんな話にしよう、と考えてもダメなんです。
妄想力が重要。
ある程度設定ができているなら、ぼんやりとその世界をシミュレーションしてみる。
そんな妄想が話を生みます。
ただ、たいていの妄想ってヤマもオチも無いわけですよね。
それを、ちゃんとしたお話に変えるのは、結構大変です。
あー、なんとなくいろんな人がいろんなことをしてる。
それを垂れ流して書いてみよう。
……だと、全然物語になりません。
いや、別に妄想日記を書くならそれはそれで良いんですけどね。
ちゃんと、けりのつく物語。
ちゃんと、広げた風呂敷をたたむ物語。
全体として調和の取れた「波形」を持つ物語。
という意味だと、妄想そのものは小説にはなりません。
妄想から一歩踏み込んだ、物語の設計が必要になります。
そのためにプロットとか書いたりするわけですが、と言っても、プロットそのものは設計書のフォーマットに過ぎません。
プロットさえ書けば物語ができるわけじゃない。
設計することと設計図を描くことは全く別物なんです。
設計そのものは、もうそれこそ、ひたすらいろんな要素の組み合わせを頭の中で試していくしかない。
たまたま一発目でしっくり来る設計ができるかもしれませんが、たいていは、ダメです。
ああ、そういうオチはないよなあ、みたいな。
そんなのをいろいろと考えているうちに、しっくりくるものがひらめきます。
それを大急ぎで設計図=プロットに落とすわけです。
頭で浮かんだだけのものはすぐに逃げちゃいますから。
若いころはそんなことしなくても大丈夫だったんですけどね。
すぐに書き留めないと逃げちゃいます。
この、妄想から設計へ、というプロセスに、王道はなさそうな気がします。
とにかく、ひらめき勝負。
頭の中でどれだけたくさんの要素の組み合わせを同時に考えられるか、ってところにかかってる気がします。
なので、出来ないときはいくらやっても出来ません。
妄想はいくらでもたまってるのに、物語としての設計に進めない。
まあ、そんなもんですよね。
物語としての「波形」が思い浮かばないがために日の目を見ない妄想ネタがたまります。
そんなのも忘れないようにメモっておかなきゃなんですけど。
たぶん、後で見返して、たまったネタにうんざりしそうなので書いてないです。
つづく?