いちめんの青
暦の上ではとうの昔に秋だというのに、日中は強烈な日差しがじりじりと肌を焼く長月。
けれどそれも昨日の暴風雨の後には、無謀な雨が涼を運んできたのか冷えた朝を迎えた。
薄ら寒い朝。
クローゼットの奥に一枚だけ忘れたように置かれていた、春の終わりの衣替えでしまい忘れていたカーティガンを引っ張り出して袖を通す。綿の柔らかい温もりが冷え切った体を温めて、ほっと息をついた。
昨日は本当に散々だった。
ことの初めはどんな理由だったのかも正確に思い出せない。
そんな些細なことで人は簡単に仲を違える。
それが積もり積もって、時折、嵐のように吹きすさぶ。
だんだんと荒れ狂う空と重なるように荒れ狂う教室の怒声。
誰が正しいのかなんて本当のところ分からない。
規則は守ろうよといったこの口を閉じておいておけばよかったのか。
「ほんと、お前って人の輪を乱すよな。折角いい雰囲気だったのに」
「規則なんてばれなきゃいいんだよ。誰だってしてることだろ?」
「まじつまらん。あーあ、やる気なくすわー、誰かのせいで!」
それは秋の終わりにある学校最大のイベント、文化祭のクラスの出し物を決めているときだった。
担任に無理やり押しつけられた学級委員長という肩書は、羽目を外しまくるクラスをまとめるには不十分なものだ。
普段から制御がききづらいクラスの連中だというのに、文化祭なんていうイベント事でいつも以上に浮かれまくっている奴らをどうやって俺一人でまとめることができるんだろう。
そもそも文化祭では、文化祭クラス代表が責任をもってクラスを纏め上げてイベントを乗り切るはずだった。ただ、そいつが妙に日和見主義で、今日のHRもみんなの意見を聞いているようで聞いていない、誰かがきっと手助けをしてくれて自分の責任を問わないようにしてくれるだろうとあからさまにする奴だった。
それでもそいつが上に立ってんだから、委員長だからという理由で俺がしゃしゃり出る必要はない、どちらかといえば俺は委員長だから文化祭を運営する生徒会に出向扱いでクラスの出し物にはほとんどかかわっていないから、自分がかかわらないクラスの出し物に口を出すだなんてことはしないでおこうと思っていた。
そう思っていたはずだったんだが。
「クラスみんなが一丸となってやってるんだって証を作ろうと思う!」
「焼き鳥屋をするんだから、本物の店みたいに俺らの模擬店のT-シャツ作ろうぜ!!」
「大丈夫、運営委員会の先生には話通したから」
教室の一角からそんな声が上がった。
ちょっと待て。
文化祭は基本制服で、もし出し物によって服装を違えるなら届け出が必要だったがそれはすでに締め切りを過ぎている。
それに運営委員会の先生に話を通したとはいってるが、昨日の生徒会会議の時に運営委員会からはそんな話は上がっていなかった。
ということは。
こいつらの日頃から鑑みて、今日の思い付きだけでしゃべっていて、まず間違いなく運営側に話は通っていないだろう。
ため息が出る。
ただでさえ、このクラスは運営と生徒会からよくはみられていない。
出し物を決めるのも書類提出の機嫌を切れた後だったし、もちろん衛生面での申請書類はさらに遅い。
運営側からかなり突っつかれていたはずの運営委員はのらりくらりとして運営側からの心証は最悪だ。
もちろん運営から生徒会に書類を上げてもらうのもそれに見合って遅れていく。そうなれば生徒会での下っ端扱いの俺に話がくるわけで。
風当たりが最近きついのは否めない。
そのせいだろうか。
口をはさむまいと思っていたのにぽろりとすべってしまったのは。
「―――――期限が過ぎてる。今更遅い」
俺の言葉が聞こえたのか、中心になって騒いでいた奴がいきなり叫んだ。
「ふざけんな。俺はちゃんと先生に確認したんだ!」
そうだそうだと他の奴らも騒ぎ出す。
だんだんと大きくなる怒声を収集しようと「どの先生にだ」と確認すると「運営の先生だよ!」とわざとらしく嗤う。
そんなわけあるか。
運営の先生に話を通して了解が取られた特別処置なら、生徒会に必ず連絡が来る。
それが昨日の夕方の時点でないのに、というか、問題クラスなだけあって、運営も生徒会も注意しているというのに、話が上がらないイコールこの話はないということになる。
俺はさらに大きなため息をつく。
「どちらにしても、かなり前に服装の変更依頼の受け付けは終わっている。ただでさえクラスの出し物を決めるのが遅かったことで運営側はよく思っていないのに、これ以上特別処置が与えられるとは思えないし、他のクラスにも示しがつかない」
「なんだよ、お前、クラスの味方なのか敵なのか? それとも進学で生徒会に媚をうってるのか? うぜぇ」
「! なんだそれ。勝手に話をつくるなよ!!」
「いい子ぶりやがって、そんなに媚びうるのがいいのかよ! お前がうぜぇんだよ!!」
それからは怒涛のごとく俺に対する不満が爆発した。
きっとそれは文化祭のことだけではなくて、日頃の学級委員としての態度とかが原因かもしれない。
だが、正しいことを正しい、間違っていることを間違っているということのどこが駄目なのか。
今ここで間違いを正しておかないと、あとからとんでもなく跳ね返ってくる他のクラスからの不満が理解できないのか。
学級委員長である俺がクラスの暴走を止めなくて、誰が一体止めるのか。
教室を見渡しても、怒声を上げている奴以外は俺と目が合ったとしても反らしてしまう。
クラスで一番仲の良い奴に目を向けると、われ関せずとばかり携帯電話を弄っていてクラスの喧騒には無関心だ。
―――――寒い。心の底が。
誰一人理解者のいない教室。
理不尽な糾弾は俺の心を凍てつかせる。
「やってらんねー。っと、おめーのせいでよ」
「解散だ、解散」
「折角盛り上がってたのに、興ざめじゃん。ほんと空気読めない奴って最悪だわー」
HR解散後、教室を出ていこうとするやつは俺の横をわざと通って文句を言う。
そして誰もいなくなった教室は、先ほどまでの喧騒とは打って変わった静けさが不気味に満ちていた。
俺は、間違っていない。
わかりきった答えを、申請する前に皆に伝えただけだ。
それなのに、どうして誰一人それがわからないんだろう。
思い付きだけではどうにもならないことが、なぜわからない。
ぎりりと歯の軋む音で俺ははっと気が付いた。
帰ろう、家に。
あいつらはきっと今日のことを恨んではいるだろうけれど、一日過ぎたら文化祭の準備に追われるだろうから、今日のことを覚えていても気にはしないだろう。
そう自分を勇気づけて、俺は教室のドアを閉めた。
憂鬱だ。
朝の冷めた空気は、一晩寝て忘れたかった出来事をさまざまと思い出させた。
のろのろと支度をして、蔑まれた教室に戻る準備を整える。
一歩、家の外にでると、ひんやりとした空気は肌に心地よかった。
だが、心の中をも冷たくさせる。
がちゃんと自転車にまたがって、足に力を込める。
すっと動き始めた自転車のように、スムーズになにもかも運ばないものだなと自嘲する。
平坦な道、朝の出勤に合わせて忙しなく通り過ぎる人々に気を付けながら自転車を漕ぐ。
角を曲がり、今度は登校する小学生の列にぶつかった。
学校に向かうというのに楽しそうに笑いあっている声が、同じ学校に向かっている俺にはきつかった。
小学生の列が過ぎると、見えてくるのは学校まで一直線に伸びた坂道だ。
ぐっとペダルを踏む足に力を込める。
急な上り坂、慣れた道とはいえ毎日体力を使い切って登りきる。
力を込める一漕ぎごとに、何かが白くなっていく。
一漕ぎ、不愉快なあいつらの言葉が。
一漕ぎ、無関心だった親友の姿が。
がちゃがちゃと金属がぶつかる音と踏み込むペダルの軋む音が、だんだんと俺の心をしめていく。
――――なんだ、なんて馬鹿らしい。
こんなに簡単なことだった。
一漕ぎごとに抜け落ちていく不愉快な感情は。
一漕ぎごとに何も考えられなくなる感覚は。
上り坂もあと少し。
あと数回、漕げばたどり着くだろう。
上り坂の先にある場所まで。
がちゃりと最後の力が入れる。
目の前に広がるのは
いちめんの澄み渡った青い空。