02
新しい朝が来た。それは杞憂を孕む風景、繰り返し訪れる暗うつな憧れ。
カーテンを開くと私の室内は鈍色の光と閉塞感で満たされる。目覚めたばかりの世界には、雨が降っていた。鉄のように重たい雨が窓を打ち付ける中、当てにならない天気予報への苛立ちが募る。
一枚の硝子を通じて雨音が響く。並木道に行き交う人影は無く、道のおもては黒ずんだ落ち葉に覆われている。樹皮を剥き出しにした木々は磔刑に掛けられた罪人のようだ。
色が視える。色彩を欠落した虚脱の色が。
窓を開け放つと雨に湿った空気が流れ込んでくる。その冷たさに思考が研ぎ澄まされてゆき、夢のような意識が欠けた現実感を補ってゆく。肺に溜まった空気を押し出して不安定な気分を入れ替えると窓を閉め、そのままリビングへと下りてゆく。
朝食を食べる前か、朝食を食べた後か。歯を磨くタイミングについて我が家は後者の傾向にある。それは私でも例外ではないし、そうでないと調子が狂ってしまうのだ。それとこれは経験則になるが、寝坊とはあまり関係ないらしい。
足音だけが反響する階段を下りてからリビングに入ると、いつも通り朝食が用意されているのが目に入った。バターの塗られたトースト、果物が入ったヨーグルト、生温いカフェオレ。私の食欲とあまり関係のないそのメニューを私は結構気に入っていた。食べられるか食べられないか。それ以上に朝を邪魔しない感じが私は好きだった。
朝というものが私にもたらす閉塞感は尋常なものではない。一日を無事に終えることは簡単なようで難しい。そんな一日を疲れるものだと分かっているなら予め私は疲れていて、逆おうとも思わない。無理をして楽をしようなど足掻くことは徒労。少しだけ楽をしようと考えれば考えるほど意識のある熱は冷めてゆき、頽廃的な思考だけが残される。
朝食を用意してくれたお母さんはもう居ない。転勤になって何処かへ行ってしまった父はともかくとして、こうも早くからお母さんが居なくなる理由を私は知らない。もしかしなくても隠し事をされているのだと思う。それについて冷めた予感はしないけれど、どこかで嘘を吐かれているという不信感が拭い切れないでいる。
別に嘘を吐くことが悪いとは言わない。高校生ながらにも私だって嘘を吐くことは必要だと思う。優しい嘘とか、心ない嘘とか、そう言った後付けの方法論的な意味なんて特に問わない。自分を欺くようにして生きるから、同じその世界を欺くようにして自身を保とうとしているだけの極めて原始的な衝動。
私よりも長く生きているお母さんだからその行為の内には私以上の嘘が含まれているのだろう。だからと言って卑下するものではない。それがお母さんというものなのだから。不信感というものはそういった母の行動と私の行動を架け橋する、謂わば他人行儀の帰結だった。
今日は嫌な朝だ。朝から温度が足りない。雨は好きだ。今を落ち着いて生きる余裕が無い。
そう言えば今日はいつもより二分ほど早く起きてしまったのかもしれない。或いは階段を降りるとき右足から始めてしまったのかもしれない。よく考えればトーストを囓る前にカフェオレを飲んでしまったような、そんな気さえする。
幸先が悪い。酸素が足りない。序でに言えば頭もいたい。
何にせよ大切なことを間違えたことに変わりはない。何事も無ければいいと思いつつ、気が付けばスプーンを落としていた。何となく拾い上げたところでヨーグルトを食べている途中だったと思い出し、いつの間にか点けていた天気予報は手のひらを返したように今日は一日中雨が続くと言っている。この人、私をバカにしているんじゃないだろうか。
強引な引力で意識を食事へと戻し、私の時間への邪魔になる前に平らげると適当に片付けてから学校への準備を整えに行く。洗面所の鏡に写った私の顔は、相変わらず酷かった。
今を過ごすということは、気が遠くなるほど退屈なことだと思う。
例えば、だ。私がどれほど授業が早く終わるように祈っても、いつまで経ったところで終わるものではない。鳴り響くチャイムによって今か今かと待ち侘びたその瞬間が訪れようとも、そのとき私はいったい何を望んでいたのかも分からないまま、昼休みへと投げ込まれる。どうにかして昼休みを私の自由に過ごしたところで、それが何になるかと聞かれれば、私には何にもならないとしか答えられない。
ただ午後にも授業はあるものだし、それを受けることについてまた気が遠くなるだけの時間が過ぎてゆく。
鐘が鳴れば、やっとの思いで放課後が訪れる。こんな風に学校が終わったとして、それが何になるだろう。私は家に帰らなければなくなるけど、その果てしない道のりをどうすればいい。
このときまでに私がどれほど草臥れているかは想像に難くない。それでも本当に帰ることができるとも分からない道を歩き続けている間に、その日の苦悩を忘れてゆく。
やがて私は何もかもを忘れてしまう。今日はこんなことが楽しかったと思い出す力もない。もしかするととっくに忘れてしまっていたのかもしれないが、とにかくそのようにして全てを忘れ、私が最早私ではなくなったとき、私は私の家の戸を叩くことだけを夢に視ている。
灰色の空を見上げれば私の傘を打つ雨音がよく聴こえた。制服を着たからといって変わった様子はなく、街並みは降りしきる雨の所為で白く霞んでいる。その白の中に溶け込んでいるのは人の往来か、或いは雨音か。誰しもいつかこの世界とは、人生とは何か途方もない夢の続きだと考えるときが来ると聞くけど、今ならその理由が少しだけ分かるような気もした。
私に芽生えたそんなありふれた感傷を否定するように、近くの踏切でカンカンとサイレンが鳴り始める。朝の、特にこの時間帯では通学通勤のピークと言うだけあって何本もの満員列車が通り過ぎていった。
踏切が開くのを待つ間、特に何をするわけでもなく、ぼんやりと雨を観察する。それか気を紛らわせるようにして周囲を探っていた。
踏切が開くのを待っているのはもちろん私だけではなく、会社員とか、これからパートに向かうだろうおばさんなど色々な人種に、私と同じ高校の制服を着ている人が居る。
だけどお互いに知らない顔であるから関わるようなことにはならない。誰もが同じように雨が降る様子を見ていたり、本を読んでいたり、音楽を聴いていたりする。彼らは彼らなりに今の時間を楽しむ術を心得ているのかもしれない。
これまでで八本の電車が走り抜けて行ったが、踏切は未だ上がりそうにない。この時期には珍しい天気であるから電車の運行も思うようにならないのだろう。
それでも慣れたもので何となくあと三本は待つことになるという予感があった。それは他の人も同じようで、踏切のサイレンが悲しそうに響く中、誰もこちらの世界へ戻ってこようとしていない。
みながみな自分の世界に夢中だった。それは踏切を挟んで向こう側の人々も同じことらしい。一人々々が当てもない空想の世界へと旅立っていた。まるでこの世界の方が現実の代用品だとでもいうようにして。
後ろめたいことがあるわけでもないのに顔を背け、他人になろうとする。その光景がどうにも虚しく、彼らと目が合うのを避けようとして線路沿いを眺めていると、ふと先ほどまで目に入らなかったものが見えることに気が付いた。
踏切を越えて直ぐに左へと曲がった少し先にある一軒の寂れた喫茶店。その入り口の軒下にはいつの間にか水色の傘が咲いていて、それを差している人物は私の視線に気付くこともなくずっと音楽プレーヤーを弄っている。
音楽プレーヤーと言っても今流行りのデジタルではなく、今ではすっかり見なくなったカセットテープの型である。どこか具合が悪いのか、息を吹きかけたり叩いたりして調子を良くしようとしている持ち主は、いつ頃からそうなったのかも覚えていない、私の友人だった。
私たちは待ち合わせていたかのように出会い、学校までの道を共にする。ああして待っていてくれることがあるのは単なる彼女の気紛れで、私もそうと分かっている。私が一人ではなくなる、珍しいけど特別でもない朝。明けたばかりの空は灰色の雨雲に包まれていた。
ようやく覚醒し始めた意識にはそれすらも新鮮で、深く息を吸うと雨の匂いが肺を満たした。
未だ朝だから啖呵の飛び交わない商店街は静かで、人影も少ない。だからこの微睡むような気配が朝という時間帯か雨という天候の性質によるものか、いまいち判別することができなかった。足跡だけが寄り添うように、私たちの背後へと続いている。
「だからね、私は久方ぶりに本気で勉強をしたわけだよ。何というか、本気だよ。
今日の私は凄いよ。もう満点なんて余裕っていうか……今のはかなり調子に乗った。
しかし理枝ちゃん、相変わらず元気が無いね」
前を向きながら彼女はくるくると傘を回している。そうする傍ら、彼女は私の表情を待っているのか飾り気のない視線を送ってくる。悪意が足りない分、私はそれに応え辛い。
「えっ……と。そんな顔してる?」
「してなかったらそもそも訊かないんだけど。なに? 絶対に違うけど恋の悩み?」
「言い方が一々腹立つなあ。強いて言うなら、少し、誰かに見られてるような気がして。
考え過ぎかもしれないけどそれが何だか不安なの」
私がそう言うと、彼女は訝しげに後ろを見やってからしばらく前を向いていた。何となく今は気まずいのだろう。私だってどう答えたものかと思う。突拍子もない質問に突拍子もない返し。
彼女はこれからどうしようかと気を悩ませているし、私もどう言い訳をしようかと頭を抱えている。しかし普段なら重たい筈の沈黙も、今日は雨に掻き消されて時間だけが過ぎていった。
「……はあ。気のせいじゃないの。
だいたい誰が、どんな必要があって理枝ちゃんのことを見つめているのさ。
あっ……ストーカー?」
「止めてよ、そんな人聞きの悪い……。
それにもしもそうなら狙われているの私じゃないかも知れないよ?
佳夜かも知れないよ?」
「それはない。ところでその、視線って今も感じるの?」
「ううん、よく分からない。しなくなったような気もするし、パッと消えたのか、
或いは初めからそんなもの無かったのかもしれないし……」
「なんだ。結論出てるじゃないですか。良かったね」
「でも佳夜、本当にストーカーだったらどうしよう。怖いよ」
「もう諦めるしかないんじゃない。気配を消せるなんて、きっとプロだよ。
何のかは分からないけど。
それに襲われたところで私たちか弱い女の子だから無理、勝てないって」
「それもそうかな。ありがとうね。何かあったら佳夜さん楯にして逃げるよ」
「やってみな……ってちょっと待って。それダメ、それ反則。わき、脇はヤメテ……」
そんな他愛のない戯れを繰り返して、どちらともなくクスクスと笑い合う。それは私にとって特別なものでは無いけれど、当たり前の時間では無かった。
だからこうして生きている今が何よりも尊いものだとか、大切な思い出になるのだという綺麗事に現を抜かそうとは思わない。然れど過ぎ去ってゆく日々と安寧に甘んじて絵空事に骨を埋めようとも思わない。ただ楽しそうに笑っている彼女を見ていると、楽しければ私も笑えるのかなと思うことがある。
同じ風にすれば同じ風にことが進むわけではないと分かっていても、そんな幻想だけは抱かずに居られないのだ。
「だからパスタにサラダのドレッシングをかけるのは邪道だ——ってどうしたの?」
「うん? なんでもないよ」
「……そう。だからね、
サラダパスタって言うのは冷やし中華を冷やしラーメンだって騙るようなものだと思うの」
「それはなんか違くない?」
そう言うと彼女は会話を再開させて、私はそんな彼女を穏やかに見守っている。
私という存在、彼女という存在。雨がいつか止むという事実さえ忘れて今は一日を通り過ぎてゆく。
それからどうやって時が経ったのかはよく覚えていない。餞の鐘の音、休み時間という空白、授業を通して学ぶ己というものの供養。学校を、一日を下らないと切り捨てるのはあまりにも容易い。それはある意味において限りなく正解に近い。
果たしてその正解を見誤らないための努力を向上心と呼ぶならば、或いは今日を逸脱して生きてゆく心算なんて無いのかもしれない。
私は雨が好きだ。私が嫌いな空白を埋めてなお世界へと浸透してゆくあの音が大好きだ。けれどもその雨音の向こうに、同情するように響く嗤い声はどんな音よりも耳触りで、また吐き気がした。