01
六〇二二号室に入ってまず気付くのは、そのおびただしい薬品臭であろう。ぶよぶよした肉塊から染み出るような悍ましい匂いは、冷たく、なめらかに空気へ浸透してゆく。
思わず染み渡って来た臭気に、看護師の格好をした女は微かに目眩を覚えた。そんな女の様子とは逆さに、後ろで控えていた痩せた馬のような大男は、匂いに慣れているのか女に構わず六〇二二号室の辺りをそろそろと見回していた。
六〇二二号室を収容している第六病棟はいわゆる閉鎖病棟であり、K病院の本館からやや離れたところに暗然と佇んでいる。外観こそ厚い雲の立ち込めたように陰気な時代を偲ばせる第六病棟であるが、その古色蒼然としたなりとは違って病室は小綺麗にまとめられていた。
薄白い電灯が照らす病室では翳りのない天井と壁がぼんやりと浮かび上がっている。ちり一欠片の影すら落ちていない病室は簡素なつくりをしているが、あまりにも整然とし過ぎている様子を見ると、却って患者の精神に悪いもののように思える。
だが裏を返せばそういった病室に患者を入院させるということは患者の精神の正しきに何らの期待も寄せていないという事情に他ならず。二人はそれを忘れずにいるが、彼らが求めているのは患者の正しき容態ともう一つ、正しき精神の具合であった。
何故そうしたことができるかと言うに、六〇二二号室の患者は少々特別なのである。
錆びれたパイプの寝台の上に幼い少女が眠っている。
そうとだけ言われれば何ら異常があるようにも聴こえないが、彼女の肌の要所々々には薬液の浸み込んだ包帯が巻かれており、なるほどこの病室に立ち込めている匂いはこの包帯が原因なのだろう。
六〇二二号室の患者とはつまり彼女のことである。一種異様な光景の中でさえも行儀よく、平和そうに眠る少女の幼さのなんと素直なことか。安らかな寝姿の向こうに透き通って視える淋しさを男——鮎川はただ憐れに思う。それは同情と呼べるほど美しいものではなく、今にも壊れてしまいそうな存在に対する虚しい予感であった。
ひわやかな腕を持ち上げると包帯の下に白い肌が覗く。少女を起こす前に脈拍や血圧を測って内海に記録させると、鮎川は少女の頭を覆うように巻かれた包帯を取り外しに掛かった。浅い呼吸を繰り返す頭をそっと持ち上げ、厚い包帯を外せば少女の目元が露わになる。
「……起きろ。ほら、起きてくれ……」
そう言って肩を優しく揺すり続けると少女の目が薄っすらと開いた。
その中に顕れた深い空の底のような瞳を見て、彼は人知れず安堵する。やはり自分は間違っていなかったという確信が今まで緊張していた精神の疲労を解したのだ。しかしその中に含まれていた迷いまではどうにも解れず、記憶の深い部分が未だ不安そうにくすぶっている。
そのような後ろめたさのためか、自らの方を向いている少女の深い瞳が彼には何より恐ろしいものと思われた。
この諸実存を乗り越えて紡がれたものを見るとひどく渇いた感じがする。
——彼女の瞳には何が映っている? 私か。いや、そもそも何処を視ている?——
そこまで考えると少女の瞳は不意に果てしなく遠いもののように思われて、鮎川の好奇心や現実感というものはその深奥へと吸い込まれるように失われて行ったのだ。
「あのう、鮎川主任?」
「……あ、ああ。なんだ」
「なんと言いますか……夢みたいですね」
「この子が起きたことが、か」
「はい。今まで何をしても目覚める気配さえ見せなかったのに」
「……そうだな。いや……だがこれで学説の真理は証明された。喜ばしいことだ」
「ああ……えっと、そういった意味では」
「内海。聞け。そういうものでしかないんだよ、私のようなものにとってはな。まあ……そういうものでしかないからか……これでも敬意は払っている心算だぜ。
私は今まで様々な研究に従事し、数多の奇怪な実験に携わってきたが……これほど画期的で貴重なものなど過去のどこにも転がっていやしない。一つ……研究者冥利に尽きるというものだ」
「……それは、ごもっともですが……」
そこまで言い掛けたが内海と呼ばれた女はそれ以上言葉を紡ぐことを止めた。何となく今はよした方がいいと察したのだ。
少女から視線を逸らさないまま、鮎川は何か真剣に考えている。
彼がいま何を思っているのか彼女には分からない。しかし自分が少女について思うところがあるように、彼もまた少女について思うところがあるのだろう。それがどのようなものであれど今の彼を邪魔する道理など無く。ただ静かな時が流れた。
少女は鮎川の腕に抱かれたまま、変わらずに彼を見上げていた。
透き通った硝子細工のような瞳は虚ろに彼の像を結んでいるが、月明かりが水底を穿てど水面には瑕跡を作らぬように、その上に揺れるものは何も無く。ぼんやりとした無関心が渦巻いている。
彼はこの少女が人間であるのか人形であるのか分からなくなってきた。
いや生きているとは分かるのだが、大きく非現実的な感覚が鮎川を打ちのめしたのだ。現実的——人間であるという少女に、非現実的——人形である少女が対置されたのだ。それらは互いに独立であり、対極であったが、同時に等価値で、双方は延直線上の事物であった。
視界という平面世界で少女だけが鋭利な刃物で切り取られ、何の実在性も無くぐるぐると廻り続けていた。その他のあらゆる現実は次第に希薄になり、滑らかに脱落してゆく。
この果てしもない空間の中を漂っている少女は誰なのだろう。
歳のほどは十四といったところか。蒼い瞳を縁取る睫毛は長く、痩せた頬は病的に白い。艶やかな黒髪は替えたばかりのシーツの上を静かに流れ、少女の何とも形容できない奇妙なあどけなさをどことなく神秘的に仕立て上げている。
それはただ貧相であっただけの素描を無邪気であるに留まらず、気品が高いようにも筆を走らせて……。
鮎川はその霊妙な美しさに機械的に見入っていたが、ふと少女の体重が思っていたよりもずっと軽いことに気付くと、いきなりに巨大な現実感が戻ってきた。
そのときに押し寄せた途方もない不安はやがて混乱のまま収束し、まもなく彼の背中をとてつもなく恐ろしい予感が貫いていった。
この予感は一陣の風として草原を思わせる無数の針の先端を揺らし、その全てが己へと向けられるように得体の知れない罪悪感を彼のうちに喚起する。
このたまらない罪悪感は盲目のうちに膨れ上がり、ギラギラとした恐怖感を煽った。
鮎川の意識は緊張状態になり、病室の中に偽りの影が落ちる音を聴く。
彼は生命と動きが喪失した感覚を研ぎ澄ませて己の影を人工的に照らし上げる暴力の光線を病室の外に求めたが、遠いとも近いとも偽らざる背後の不気味な視線に振り返ると、ポカンとした表情で内海が突っ立っていた。
そこで鮎川は始めて己が興奮していたことに気が付いた。すると年甲斐もない恥ずかしさを感じ、先ほどまで彼の精神を高揚させていた熱はすうと冷めていった。
ゴホンと咳払いをして気分を紛らわせると、鮎川は少女の目が覚めたことを彼女の親に報告するよう内海に指示を出し退室させた。それから先ほどのあれは何だったのだろうとふと思い悩んだが追求する気も起きず、それ以上気に掛けることもなかった。
鮎川は徐に立ち上がると現実の感触を確かめるように種々の機械を点検し始めた。どれにも異常は無く、厳密な整合性を持って動作している。その事実は温度も陰影もなく鮎川の意識をちりちりとざわつかせた。
鮎川は最近の心労が祟ったのかと考えたが、どうにも落ち着かず、何の意味もなく腕時計を弄ったり周囲をそわそわと歩いたりした。しかしこのような努力にも関わらず彼の精神は一向に落ち着かない。
今日はもう休むべきかと結論付けると、鮎川は彼女を申し訳なく思いながら早いところ病室から出て行こうとした。
だが彼は足を止めた。およそ感情の色が欠落した少女の無機質な瞳の端に真珠のような涙が滲んでいるのが視えたのだ。それがぷっくりと膨れ上がって零れ落ちたかと思うと、彼女は小さな唇を震わせて何ごとかを呟き始めた。
——……天使が泣いている……。助けて、助けて……。やつの声が聞こえる……痛い……右腕が痛い……。電飾が切れた……やつが来る、やつが来る……。暗い海の底から、僕を殺しにやってくる……。……溶ける……溶けてしまう……全部……全部……あたたかい……——
囁くように紡がれる内容は不明瞭だが、彼が聴いた言葉はこのようなものだった。
意識からばらばらに遊離した言葉をうわごとのように繰り返す様子を見て、鮎川は少女の意識が何らかの夢遊状態にあるのだと見当を付けた。それは思いがけないことであったが、彼には心当たりがあるようで、幾らか思慮を巡らせる。
やがて一つの学説に思い当たると、どうやらこの手の解放治療にはやはり難があるようだと、仕方なしに肩を竦ませた。
鮎川が一人思考に耽っているうちに意識を失ったのか、夢の続きへと船を漕ぎ出したのか。少女はいつの間にか再び穏やかな眠りへと帰ってしまっていた。涙ももう止まっている。
彼女が何を視ていたのかは分からないが、恐らく尋常でない体験があったのだろう。少女の眠っている容態は初めのように平和のままであったが、その唇の端が苦痛によって僅かに歪んでいるのが彼には分かった。それは彼にとってさながら金属的な恐怖の象徴であった。
そのような彼女の態度に後ろ髪を引かれ、このまま帰ってしまうのが何だか偲びないことのように思えてきた鮎川はもうしばらく病室に残ることにした。そのときに吐いたため息は何となく他人が吐いたもののように思えた。
小さな病室の外では木立の間を縫って吹き過ぎる北の風の唸り声が素朴な曲調のポリフォニーを奏でている。その旋律は深まりゆく夜の恐ろしさを代弁するように厳かで、苦々しく、虚しい余韻を残す。斯く寄る辺もない幽冥の静けさに混じる滑らかな虫の音を聴きながら、さてどうしたものかと鮎川は想う。
少女の目が覚めたと聞いて鮎川がほっとしなかったわけはないが、実のところ微妙な気分であった。
彼のうちに内在し、潜んでいた例えようもない不安が不思議に変容し、このまま眠り続けていればという絶望を生んだのだ。それを肯定しては何も解決しないし、彼がこの実験を重ねてきた意味も無い。
しかしその絶望に背いたところで、彼の前にはより増長した罪悪感が横たわっていたのである。到底その罪悪感を分かち合う相手など居らず、彼は一人になった。
もしかすると今という切迫した不幸にこそ彼が求めているものがあるのかもしれない。それでも今はこうして夜が明けて行くのを待ちながら冷たい夜風が窓をたたく病室を、少女が目を覚ます前触れさえ見せなかった昨日を、少しだけ懐かしく感じたのである。
こちらの作品は以前この場で掲載させていただいていた『キミが笑えるように』の改訂版となります。ただ内容などが大きく作り変えられているので、全くの別物といって差し支えがありません。