終章 彼女とのそれから
彼女は変わらないものを望んだのだろう。
俺自身、本当は気づいていた。
3学期の途中から彼女の様子がおかしいことを。
そわそわと落ち着きなく過ごしたり、ぼんやりと遠くを見つめていたかと思うと、不意に悲しい顔を見せることがあったから。
それは彼女と過ごす時間が一番長かった俺だけが知っている。
何故なら彼女はいつも笑顔だったから。
誰に話かけられると先程まで見せていた表情を隠し、笑顔を見せていた。
誰もが安心する笑顔。
誰もが好きになる笑顔。
最初に出会った頃から変わらないその笑顔。
だけど俺はその笑顔が悲しかった。
でも、最後までそのことに気づかない振りをした。
彼女がそれを望んでいたから。
「大野くんって、苦労性だよね」
「いきなりなんだよ、早河」
忘れた課題を早河から写させてもらいながら俺は言った。
「色々気づいてるのに知らない振りをしてる」
「買いかぶり過ぎだよ。俺は何にも知らない」
隣の席で早河は、春には見事な花を咲かせ、今はその葉を赤や黄色と色付き始めた桜の木を見ていた。
「だから、大野くんといると落ち着くのかな」
「めんどくさがりなだけさ」
課題に目を落としたまま俺は言い、彼女は窓の外を見たままかすかに笑う。
その瞬間がすごく愛おしく感じた。
夏休みに俺は久しぶりに恵と雅治を誘い遊びに行くことにした。
「相沢と出かけるのって久しぶりだな」
「そうだね。展示会用の作品描くのに忙しくて出かけるの自体久しぶりだよ」
「雅治や俺も部活で土日も忙しかったしな」
少し遠出をして海まで来た俺たちはひと泳ぎした後に、浜辺で休憩しながら空白の時間を埋めるように話した。
それぞれのクラスのこと、恵の絵のこと、俺たちの部活のこと、そして。
「由紀ちゃん、どうしてるのかな」
「相沢は早河さんと連絡とってないのか」
恵は雅治の言葉に肩にかけたバスタオルをそっと握り締めた。
「うん、連絡先を聞きそびれちゃってさ。由紀ちゃん、携帯持ってないし」
「あんなに仲良かったのに、何で?ケンカでもしてたのか」
「うん」と答える恵の声はとても弱々しかった。
「そっか」と返した雅治の声も同じように弱々しかった。
俺はその会話を横目に、澄んだ夏の空に舞う桜の花びらを見た気がした。
「俺たちはさ、たとえ早河が遠くに行っても…」
帰り道、不意に口を開いた俺に前を歩いていた恵と雅治は振り返った。
「…何があってもさ、友達、だよな」
俺の言葉に恵と雅治は少し沈黙した後にうなづいた。
「大野くんにお願いしたいことがあるの」
早河の転校を聞いた日、最初に出会った桜の木の前で俺と早河はあの時の同じように立っていた。
「俺に?恵じゃなくて良いのか?」
「うん。大野くんにしか頼めないから」
蕾の膨らみが春の訪れを予感させていた。
彼女はもうこの桜を見ることがないのかと俺はぼんやり考えていた。
「私、恵ちゃんも高橋くんも傷つけちゃったから」
「俺も早河の転校をいきなり聞いて傷ついてるけど」
「ごめんね」
彼女の長い黒髪が柔らかく揺れる。
「これでも怒ってるんだよ。何で言ってくれなかったのかってさ。そんなに信用なかったか」
「違うよ。そうじゃ、ないんだ」
こうして話していると、彼女がもう明日からは居ないと言うのが嘘のように感じる。
「…気持ちは少しわかる気がする。いつもと同じで居たかったんだよな、ずっと」
「やっぱり大野くんは苦労性だね」
クスクスと笑う彼女の笑顔はいつもと同じだけど、やっぱりどこか寂しげに見えた。
泣いているとも。
「で、お願いって。早河には色々借りがあるから、特別にタダで聞いてやるよ」
「ありがとう。あのね―」
シャワーで落としたのにべたつく髪が熱気を帯びた風に揺れる。
生温かいのに水に濡れた後だと、どこか心地いい。
「なら、みんなで早河に手紙でも書くか」
俺の言葉に恵と雅治は目を見開いた。
「たけちゃん、由紀ちゃんの連絡先知ってるの!?」
「健、お前…」
急く気持ちを抑えるように話す二人に目線を合わし、俺は笑っていた。
「早河に頼まれた」
―あのね、私は二人をとても傷つけたから。転校した後でも友達でいてくれるか、すごく怖くて何も言えなかった
「二人を傷つけてしまったから、転校した後も友達でいてくれるかわからないから怖いって」
―今まで当たり前だったものが変わってしまうから。でも、二人ともちろん大野くんともずっと友達でいたいんだ、だから
「もし」
―もし、転校しても二人が、大野くんが友達でいてくれるなら
「お前らが転校しても友達でいてくれるなら、連絡をくれって」
ヒグラシの声が夕暮れを告げる。
「私の方こそ、由紀ちゃんに謝りたい」
恵は少し瞳に涙を浮かべていた。
ずっと後悔していたのだろう。
彼女を責めたこと。
「俺もなかったことじゃなく、それを踏まえた上で早河さんと友達でいたい」
雅治は夕暮れの空を見上げる。
告白をなかったことにしたから、どこか微妙に違和感を感じていたのだろう。
彼女とは友達でいることも好きだったから。
本当は俺だって二人のように後悔していた。
もっと彼女の話を聞いてあげれば良かったと。
ずっと何かを不安に感じていた彼女に気づいていながら、気づかない振りをしていた。
俺も変わらないものを守りたかったから。
でも、彼女と同じだからこそ俺は聞いてやるべきだったんだと思う。
彼女の抱えているものを。
それでも彼女、早河が俺を頼ってくれた時嬉しかった。
後日、俺たちは再び集まって早河への手紙を書いた。
それぞれの想いを便箋に綴り。
一枚の封筒にそれを収め、ポストへと投函したら恵も雅治もどこか安堵した表情を見せた。
そして、たぶん俺も。
数日後、彼女から桜の柄の可愛い封筒が届く。
見慣れた彼女の字を見ながら、彼女の笑顔を思い出す。
もし、彼女の笑顔にもう一歩踏み込めたら本当の彼女の笑顔が見れたのだろうか。
彼女といつかまた会えるその日までに、俺は自分自身に残された想いともう少しだけ向き合うことにした。
恵や雅治が向き合ったように。
桜が咲く季節には、俺は彼女を思い出すだろう。
あの笑顔と共に。
桜の幻影はこれで完結です。
この物語は「桜の詩」という物語の外伝にあたります。
そちらの物語もこちらに掲載していこうと思いますので、興味がある方がいらしたら、そちらの方も是非読んで頂けたらと思います。
ここまで読んで頂き、ありがとうございました。