第1章:破棄された誓い
エリノア・ヴァンセルは、鏡の前に立ち、深いため息をついた。彼女の部屋は、ルミエール公国の首都アルテシアにあるヴァンセル家の屋敷の一角に位置し、豪奢な装飾と柔らかな陽光に満ちていた。だが、その美しさも今は彼女の心を慰めるには至らなかった。鏡に映るのは、長い銀髪と青灰色の瞳を持つ細身の令嬢。貴族らしい気品に溢れ、誰もが認める美貌の持ち主だ。しかし、彼女の胸元は――少なくとも世間の基準では――「物足りない」と評されることが多かった。
「エリノア様、お支度はいかがでしょうか?」
メイドのクラリスが控えめに扉を叩き、部屋に入ってきた。クラリスはエリノアの幼馴染でもあり、彼女の最も信頼する侍女だった。今日、エリノアは婚約者であるローランド・デュモント男爵と会う予定だった。ローランドは若くして財を成し、貴族社会でも注目される存在だ。だが、エリノアの胸中には不穏な影がちらついていた。
「クラリス、ローランド様が最近よそよそしい気がするの。私の気のせいかしら?」
エリノアの声はわずかに震えていた。クラリスは一瞬言葉に詰まり、目を逸らした。
「そんなことはございませんよ、エリノア様。ローランド様は忙しい方ですから、きっとそのせいです。」
その答えは優しかったが、エリノアにはどこか空虚に響いた。
午後、ローランドがヴァンセル家を訪れた。彼は黒髪に鋭い緑の瞳を持つ端正な男で、豪華な刺繍の入った外套を羽織っていた。だが、その表情は冷たく、エリノアを迎える笑顔はどこにもなかった。応接間に通され、二人が向かい合った瞬間、ローランドが口を開いた。
「エリノア、単刀直入に言う。僕たちは婚約を解消しようと思う。」
その言葉は、まるで氷の刃のようにエリノアの胸を貫いた。彼女は一瞬言葉を失い、ただ彼を見つめた。
「どうして……? 何か私が至らないことがあったなら教えてください、ローランド様。」
彼女の声は必死だった。だが、ローランドは目を細め、嘲るような笑みを浮かべた。
「至らないこと? そうだね、確かに一つある。君のその貧相な体型だよ。貴族の妻としてふさわしいのは、もっと豊満な女性だ。僕にはそれがふさわしい。」
エリノアは息を呑んだ。彼の言葉はあまりにも残酷で、彼女の心を切り裂いた。ローランドはさらに続けた。
「実はもう新しい婚約者がいるんだ。イザベル・フォンタン嬢だ。彼女は君とは違って、男の目を引く魅力がある。今日で終わりだよ、エリノア。」
その瞬間、エリノアの視界が揺れた。イザベル・フォンタン――確かに彼女は豊満な胸と派手な美貌で知られ、社交界でも評判の女性だった。だが、エリノアにとってそれは関係ないはずだった。ローランドとの婚約は、両家の利害が一致した政治的な結びつきでもあり、愛情がなくとも成立するものだと信じていた。なのに、彼はこんな理由で……。
「ローランド様、あなたは――」
エリノアが何か言いかけたとき、ローランドは立ち上がり、彼女を一瞥した。
「もういいよ。これ以上君と話す時間は無駄だ。さようなら、エリノア。」
彼は踵を返し、応接間を出て行った。扉が閉まる音が、エリノアの耳に重く響いた。
その夜、エリノアは自室で一人泣いた。クラリスが何度も慰めようとしたが、彼女の涙は止まらなかった。
「私が、胸が小さいから……? そんな理由で捨てられるなんて……。」
彼女は自分の体を抱きしめ、屈辱と悲しみに震えた。ヴァンセル家は名門とはいえ、近年は財政難に苦しんでおり、ローランドとの縁談は家を救う希望でもあった。それが失われた今、エリノアは家族にも申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
翌日、婚約破棄の噂は瞬く間に貴族社会に広まった。ローランドはイザベルとの婚約を華々しく発表し、二人が舞踏会で仲睦まじく踊る姿が人々の話題となった。一方、エリノアは屋敷に引きこもり、外出を控えた。彼女を嘲笑う声が聞こえてくるようで、外の世界が怖かった。
そんなある日、ヴァンセル家に一通の手紙が届いた。封蝋にはルミエール公国の王家の紋章が押されており、エリノアの父、ギルバート・ヴァンセルが驚きの声を上げた。
「エリノア、王宮からの使者が来るそうだ。お前が王子の茶会に招かれたらしい。」
エリノアは目を丸くした。ルミエール公国の王子、ヴィンセント・ルグラン――彼は国一番の貴人であり、その美貌と知恵で知られていた。だが、なぜ彼がエリノアを?
数日後、王宮からの馬車がヴァンセル家の前に停まった。エリノアは緊張しながら乗り込み、クラリスに見送られて王宮へと向かった。馬車の窓から見える風景は、アルテシアの街並みを抜け、やがて壮麗な王宮の門へと続いていた。彼女の心は不安と期待で揺れていた。
王宮に到着すると、エリノアは豪華な庭園に案内された。そこには、黄金色の髪と深い青の瞳を持つ青年が立っていた。ヴィンセント王子だ。彼はエリノアを見ると、穏やかな笑みを浮かべた。
「エリノア・ヴァンセル嬢、ようこそ。君に会えて嬉しいよ。」
その声は柔らかく、エリノアの凍えた心を溶かすようだった。
「殿下、私のような者をなぜ……?」
エリノアが戸惑いながら尋ねると、ヴィンセントは彼女に近づき、優しく言った。
「君の噂を聞いたんだ。ローランド・デュモントが愚かにも君を捨てたってね。でも、僕には彼の価値観が理解できない。君の気品と知性は、僕が見ても素晴らしいものだ。」
エリノアは言葉を失った。王子の言葉は、彼女がこれまで否定されてきた全てを肯定するようだった。
茶会が進む中、ヴィンセントはエリノアに様々な話を聞かせた。彼は国の未来や民の暮らしについて熱く語り、その瞳には真剣な光が宿っていた。エリノアは次第に彼に惹かれていく自分を感じた。そして、茶会の終わり際、ヴィンセントが突然こう言った。
「エリノア、もし君が望むなら、僕のそばにいてほしい。君のような女性が、僕には必要だ。」
それは、事実上の求婚だった。エリノアの心は高鳴り、涙が溢れそうになった。
一方その頃、ローランドはイザベルとの婚約を祝う舞踏会で得意げに振る舞っていた。しかし、彼の耳に届いた噂――エリノアが王子の寵愛を受けたという話――は、彼の顔から笑みを消した。
「何? エリノアが王子と? まさか……。」
彼の声は震え、イザベルでさえその動揺に気づいた。ローランドの胸に、初めて後悔の念が芽生えていた。




