第14話 悪魔のアクソロティ
意識の覚醒とともに感じたのは硬くて滑らかな床の冷たさ。次に感じたのは静寂の中に漂う洗練された視線。
重い瞼を開いて顔を上げると真っ白な世界が広がり、正面には一切の乱れなく左右何重にも列を成し、直立不動で並び立つ白衣の者たち。左右に目を向けると年齢や老若男女問わず多くの人々が困惑している姿。
ふと右手が握られる感覚があり顔を向けるとイズが気持ち良さそうに眠っていた。
「イズ、起きて? なんか変なの」
エリウェルは優しくイズの肩を揺らすと瞼がうっすらと開いた。
「なんだ? もう夕飯か?」
「さっきお昼ご飯食べたばかりでしょ? そうじゃなくて私たち知らない場所にいるの。もしかしたらさっき会った白衣の男の人に連れ去られちゃったのかも」
イズはゆっくりと上体を起こし、寝ぼけ眼で周囲を確認する。それに倣ってエリウェルも再度周囲を確認すると一つ気づいたことがあった。
「もしかして……ここにいる人たちみんな街の人?」
よく観察するとホテルのフロントマン、レストランのウエイトレス、おもちゃ屋の店員など、ティンバードールに来てから見た顔がいくつもある。そしてみんな仕事途中でこの場所にやって来た姿をしている。まるで職場から一瞬にして転移したかのように。
そしてそれはエリウェルたちも同じこと。おもちゃ屋を出て知らない男からおもちゃを貰い、気がついたらこの場所にいた。
そうなると考えられるのは特定の地域の人たちをごっそりと転移させた。しかもルシアの姿が見当たらないことからある程度人の選定をしている。
転移した数のほどは目算で千人以上はいそうだが、一体何を目的にこれほどの人数を転移させたのだろうか。良からぬことを画策していることは間違いないのだろうが。
「あれ? ルシアは? もしかしてここにいないのか?」
そう言ってイズは周囲を見渡す。改めてルシアがいないことに恐怖を感じた。どう考えてもこの大規模転移は力のある魔術師の仕業だ。しかも意識が途切れる前、ヴィオニッチという名前を聴いた気がする。
マリーンたちから事前にヴィオニッチはティンバードールを襲撃すると聞いていたし、それが今なのかもしれない。そしてわざわざこんな場所に監禁されているということは人体実験されるのかもしれない。
体が震え始めて思考できなくなるのを感じたエリウェルは恐怖に溺れそうになりながらイズを見つめる。するとイズは優しい顔で手を握ってきた。
「俺がついてるよ、エリウェル。どんな困難でも俺が必ずエリウェルを守るから」
イズはいつも弱虫な自分に勇気をくれる。心がポカポカと温かくなる言葉をくれる。
「いつもありがとね……イズ」
そう言ってイズと一緒に立ち上がった。
「とりあえず前のほうに行ってみようぜ。何か情報収集できるかも」
「うん。そうだね」
イズに手を引かれながら人混みを抜けて最前列まで向かうと相変わらず直立不動で並び立つ白衣の者たちがいるだけ。目が覚めたときと何も変わったところはない。
気持ち悪いけれどこの人たちに声をかけるしかないのだろうか。そう思っていると突然チャイムが鳴った。
不気味に鳴り響くチャイム。その音を身構えながら黙って聞き、チャイムが鳴り終わったところで出現したのは大きな扉。その扉が開くと同時に列を成していた白衣の者たちが中央の道を開け、中からおもちゃ屋の前で会った白衣の男がポケットに手を突っ込みながら歩いて来た。
そして住民たちの前で立ち止まると丸眼鏡のブリッジを中指でくいっと持ち上げて口角を上げる。
「はいは~い。皆さんが全員目覚めるまで五分二十七秒かかりましたよ~」
男のふざけた発言。けれどあまりに不気味すぎる状況に誰も口を開かない。一人の勇敢な男の子を除いては。
「ええ!? もしかして俺って最後の方に目覚めた!?」
天然か張り合っているのか。イズは驚愕しながら自分を指さしている。
「んっん〜ん。そうだね~。最後の方っていうより少年が最後だね~。でも気にしないで。場の雰囲気を和ませるために言っただけだからさ~」
「そうなんだ! ならよかったよ……ってそう言えば誰だお前!? 名を名乗れ! お前が俺たちをこんなつまらない場所に連れて来たんだろ!?」
つまらないって失礼だな~、とぼやいた男はこほんと一つ咳払いをしてから笑みを浮かべた。
「私の名前は八貴族のヴォイニッチ。ディアタナから来たマレージョ。そう答えたほうが伝わる人も多いかな~?」
周囲から悲鳴が上がる。超常の災害を経験した大人はみんなマレージョに恐怖を抱く。エリウェルはその恐怖を直接経験したわけではないが、母エリスと、師レテルと一緒に旅をする中で出会った様々な国の大人たちはみんなマレージョに恐怖していた。
戦う術を持つエリウェルですら怖いのに、戦うことも逃げることも助けを呼ぶこともできない人々はどれほど恐怖しているのだろうか。
恐怖に身構える猶予すらなく、大好きな人と語り合う猶予すらなく、突然真っ白な世界に連れて来られて目の前にはマレージョがいる。
怖くて怖くてしょうがないはずだ。叫んで泣いてしまうのは当たり前だ。そんな人々の恐怖する様を見ても心が痛まないものもいる。
「んっん〜ん。そうだよね〜。怖いよね〜。でも今日はみんなにお願いがあって集まってもらっただけなんだ〜。お願い聞いてもらったらすぐお家に帰してあげるから静粛にお話し聞いてね〜」
白々しい。恐怖で他者を支配しておきながら理解があるような言い振り。自分が優位にいるからこそできる見下し方だ。
「実は私、『悪魔のアクソロティ』というモノを試作したんですけど、まだ実証実験できてないんです〜。なのでみなさんの体でデータを取らせていただきたいんですよね〜」
周囲がざわつく。声なき声で人々が拒否をする。けれどヴォイニッチはそれを無視して話を続ける。
「だからご協力お願いします〜。マレージョに変身できて、訓練無しに魔術も使えるようになる優れものですよ〜」
そんなアクソロティ聞いたこともない。けれどもし本当にそんなことが可能なら人類の存亡に致命的なほど大きな影響を及ぼす。
メルトリア人とマレージョが十年以上も戦争を継続しているのは要の門を通る際に様々な制限があり、互いに本気で攻め込めないからだ。
マレージョと全面戦争するにはメルトリアはまだまだ魔術師の数が不足しており、要の門が戦争の均衡を保っているけれど、世界を自由に行き来できるようになったらメルトリアはきっと滅亡する。今、説明のあった悪魔のアクソロティとはそんな危険な代物だ。
「はいはい! 質問いいですか!?」
「いいですよ〜。何ですか〜少年?」
「それって魔術の才能が無い人でも魔術使えますか!? 魔術の才能が無い人でもマレージョに変身できますか!?」
「いい質問ですね〜少年。実はこの悪魔のアクソロティは魔術を行使する際に必要な全ての工程を行ってくれる優れものなのです。その秘密は人体の構造や遺伝子すら改編する高い技術がアクソロティに詰め込まれているからなんですよ〜。人体構造を変えるのだから得意不得意なんか関係ない。誰でも等しく平等に強くなれる~」
「マジかー!? マジすげー! ちなみにマレージョになったらお尻に毒針生えますか!?」
「生える種類もあるよ〜!」
「おおー!! 本当かよー!? 俺、ツノも生やしてー!!」
「いいねいいね〜! 積極的でいいね〜少年! 今日は変身するマレージョを自由に選んでもらおうと思って色々種類用意したよ〜! その数なんと二十種類以上! 悪魔のアクソロティを作るのにかなりの時間と労力使ったからさ〜。是非、私の自慢の逸品を使用して欲しいね〜」
「でもでも! そんなに時間と労力使った自慢の逸品ならお高いんでしょ〜?」
「いえいえ〜! なんと今回に限り〜! この場にいるみなさん全員に無料でプレゼントします〜!」
「ひゃー! お得過ぎー!」
イズとヴォイニッチは何故か茶番を繰り広げたあと笑い合っている。そんな二人を無視して後方に控えていた白衣の者たちは門の中からワゴンを持ってきて何かを運び出している。ワゴンの中に目を凝らすと丸型の注射器がケースに収められていた。それが何かはもう予想がつく。
イズと会話を終えたヴォイニッチは丸眼鏡のブリッジを中指でクイっと持ち上げて笑みを浮かべる。
「それじゃ~悪魔のアクソロティ投与したい人集まれ~」
集まるわけがない。どんな副作用があるかもわからない悪魔のアクソロティなんて。マレージョに変態して元に戻れる保証もない。そんな危険な代物。
そう思うのだが千人以上も集まると先の事なんか顧みず、危険な代物だと想像できても手にしようとする者たちは少なからずいるようだ。
今、六人の若者や中年の男性が集まって来た。
「ほ、本当にマレージョになれる……んですか?」
恐る恐る確認する若者。ヴォイニッチはニコっと笑う。
「はい~。本当ですよ~。お試しあれ~」
ヴォイニッチは注射器を手渡す。若者は受け取ったがすぐには投与せず、強張った顔で注射器を睨む。危険な代物だとわかっているのだ。恐怖を覚えて投与するのに躊躇している。
そうだ。打つな。危険だとわかっているんだから。恐怖を覚える自分の本能に従って。そうエリウェルは思う。――けれど若者は欲望に負けた。
覚悟を決めたように叫び声を上げると勢いよく注射器を腕に突き刺し、悪魔のアクソロティを投与した。
呼吸を荒げる若者。周囲が固唾を飲んで見守る。けれど何も起きない。
「な、なにも起きねえじゃねーか……」
そう薄ら笑った若者。その直後、腕が黒く染まって隆起した。
「え……あ、おい! なんだこれ!? おいこれ――」
「――投与から十三秒弱。想定通りだね~」
若者は全身が黒く染まり、細身の体は一瞬で筋肉が隆起した。身長は三メートルほどに伸び、鋭利な爪や牙が生えた。瞳は昆虫のように複眼へと変化し、赤く染まる。そして背中からコウモリのような翼が生えたところで赤黒いオーラを放出した。
「おお……。おお……! おお!! すごい……すごいよこれ!! 全身に力がみなぎってくる! これなら俺なんでもできるぞ! これなら俺……俺を馬鹿にした奴ら全員ぶっ殺せる!!」
咆哮を上げる若者は勢いよく右腕を振る。するとかぎ爪から放たれた赤黒いオーラが真空の刃となって人々の頭上を飛び、その後を追うように強烈な風が吹いた。
若者は間違いなく――マレージョに変態した。
まずい。非常にまずい。悪魔のアクソロティなんて危険な代物。一部の変わり者しか手にしないと思っていた。けれどこんな力を見せられたら心が揺れるかもしれない。
己の人生に不満を持つ者、破滅的思考のある者、猟奇的思考のある者、承認欲求の強い者、道楽的な者。そんな者たちの前に力をぶら下げたら飛びつく者が必ず現れる。
これは戦争以前の問題だ。こんなものが世界中に広まって、民衆が簡単に強大な力を手に入れたら間違いなく秩序が乱れる。メルトリアが無秩序の地獄と化す。
このことを早くレテルやルシアに知らせなければ。そう思うエリウェルの瞳にはヴォイニッチに群がる三十名以上の人々が映る。そしてなんとその中にイズの姿もある。
「だ、駄目だよイズ! そんなもの使っちゃ駄目!」
そう叫んでイズの元に駆け寄るも遅かった。既にイズは悪魔のアクソロティを投与してしまった。その間にも人々は注射器を手にして悪魔のアクソロティを投与していく。
そしてあちこちで雄たけびが上がり、マレージョへと変態していく。先ほどヴォイニッチが言っていたとおり悪魔のアクソロティには種類があるようで複数の動物をかけ合わせたような姿に変わっていく。
そんな中、イズは一人だけ人間の姿のまま雄たけびを上げている。それを不快に思ったのか一人のマレージョが大きな拳をイズ目掛けて振り下ろした。
大きな衝突音が周囲に広がり、衝突で発生した衝撃波が周囲に伝播して体が痺れる。
「さっきからうるさいんだよ、ガキ! 死ね!」
心配する――必要もなかった。イズはマレージョの拳を片手で防ぐともう片方の手で拳を作る。そして腰を入れながらマレージョの体にげんこつをお見舞いした。
「お前もうるさいだろ!!」
倍以上はあるマレージョの肉体をいとも簡単に殴り飛ばしたイズは不満げな表情をヴォイニッチに向けた。
「おい! おいおいおい!! 嘘つき! 俺、全然変身しないじゃん! せっかく毒針しっぽが手に入ると思ったのに!」
怒るべき点は決してそこではない。けれどイズは真面目に怒っているようだ。だからとても口を挟みずらい。
「あれあれ~? おかしいな……。そんなはずないんだけど……。少年ちゃんと投与した?」
能天気な顔していたヴォイニッチが初めて困惑した表情を見せた。
「した! したしたした! 超した! いくら注射しても全然マレージョに変身しないからもう三十本以上も注射したぞ!」
そう怒るイズの足元には確かに空の注射器が山積みになっている。他のことに気を取られて全然足元を見ていなかった。
「イ、イズ!? 駄目だよそんなに投与しちゃ! 人体にどんな悪影響があるかわからないんだよ!? 体調は大丈夫!? 気持ち悪くなったりお腹痛くなったりしてない!?」
「ええ!? 注射しすぎるとお腹痛くなったりすんの!? 用法用量を守って正しくお使いくださいってこと!? 嫌だー! なんとかしてエリウェルー! 俺死んじゃうかもー!」
「落ち着いてイズ! 今、体の中調べるから!」
大騒ぎするイズをなだめながら触診して人体構造を検査する。以前聞いた話だと原因はわからないがイズは魔術を使えない特殊体質らしい。だからそれが影響を及ぼし、悪魔のアクソロティの作用を阻害しているのだと考えたエリウェル。検査の結果その考えは正しかった。
多分、これは特殊な状況でしかわからないことだ。普通に検査しただけだと何故イズが魔術を使えないのかわからない。例え熟練した魔導士だろうと。
肉体や遺伝子まで瞬時に改編する悪魔のアクソロティを異常なまでに投与した影響だろう。血管を巡って全身に大量の悪魔のアクソロティの残骸が広がり、造影剤の役割を果たしたこの短い時間にだけ確認できるイズの体の秘密。
エリウェルはイズの体内から悪魔のアクソロティが全て残らず消失したことを確認した後、ゆっくり手を離す。
「なにかわかった……って顔してるね? それ私にも教えてくれないかな~? 今後の悪魔のアクソロティ研究開発に役立ちそうだからさ~。ねえ~創造の聖天大魔導士エリス・ブラックベルの娘エリウェルお嬢さ~ん?」
「知ってた……んですね」
「もちろんさ~。徹底した下調べは研究の基本。それにバランドーアから話聞いてるよ~。エリスの娘は立派な魔術師に成長してるって。今の解析術も繊細かつ迅速で見事だった。――邪魔になりそうだから排除したほうがいいのかな~?」
そう言ってヴォイニッチは丸眼鏡のブリッジを中指でクイっと持ち上げると緑色のオーラを激しく放出した。エリウェルは身構えながら一歩後退する。けれどそれを追うようにヴォイニッチの手が伸びてくる。
「セカンドチルドレンを解剖するのは初めてだな~。これは楽しみだ~」
「い、いや……」
「大丈夫。怖くないよ~。眠らせてから解剖するから~」
まずい。恐怖で体が思うように動かない。感情が凍り付いていくのを感じるエリウェル。間もなくヴォイニッチの魔の手が迫る――。
「――お前が寝とけ!」
目の前に現れたイズの背中。次の瞬間、ヴォイニッチの肉体は頭上高く打ち上げられた。




