第2話 それぞれの夜
マザーケトはいつも通り夜の静寂を破り、食べることも喋ることも騒ぐことも同時にこなす器用な三人に感嘆しながら、食欲旺盛な悪戯っ子たちの空になった器にスープを装った。
「イズ、シンク、ヤエ。あなたたち三人と食卓を囲むようになってから賑やかな日が続きました。明日からはこの食卓も寂しくなりますね」
婚約者エルマーの話題に触れ過ぎてご立腹のヤエとそれをなだめようとするシンクの掛け合いが止まる。二人は互いに顔を見合わせた後、シンクは笑みを浮かべた。
「俺とイズはこれが日常だったからね。寂しい食卓なんて考えられねーな。ヤエ姉とマザーケトだけのときは静かな食卓だったの?」
「子供の頃のヤエ姉はあんたたちと違って少しセンチメンタルだったの」
マザーケトが営む孤児院にイズとシンクを受け入れたのは二歳の頃だ。二人は親の顔は覚えていないし、親がいないことに不安や悲しみを口にしたことはない。
一方、ヤエは七歳の頃、孤児院に受け入れた。だから親の顔も悲しみもしっかりと覚えており、受け入れ当初は物静かな子どもだった。けれどヤエは二人が孤児として預けられてすぐ、現在のお転婆な性格に変わった。
兄妹ができたことへの喜びか、家族ができたことへの喜びか、そのどちらもだろうか。イズ、シンクにとってヤエという存在はまさに実の姉と変わりないし、ヤエにとって二人は実の弟と変わりない。
ヤエは二人が悪戯をして謝罪に行くときは必ずついて行き、一緒に頭を下げた。二人が今よりもっと小さい頃は悪戯して怒られ、泣くこともあったが、そのときは真っ先に慰めた。
嬉しいことがあったときは我が身のように喜び、悲しいことがあったときは一緒に涙を流す。
泣き笑い苦楽を共にした六年間だからこそ、本当の家族以上に家族だった六年間だからこそ、別れの日が訪れるのはとても辛い。
明日はイズとシンクがラミアーヌ島から旅立つ日である。
「そういやヤエ姉。勇者冒険譚って荷物に入れてくれた?」
トマトとニンニクのスパゲティを頬張るイズ。ヤエは呆れ顔を見せている。
「ばっちりよ。ていうか自分の冒険なんだから自分で準備しなさいよね」
生活する上で必要な物を手配し、二人の荷物を揃えて準備したのはヤエだ。最初こそ二人に準備させるつもりだったが、旅立ちの日が近づいても一向に何もしない二人に気が揉めて、結局全て手伝うことにしたようだ。
そんなヤエは最低限の生活必需品のみ準備したが、赤い表紙に勇者が描かれた本『勇者冒険譚』だけは唯一荷物としてバックパックの中にしまっていた。
島を出た冒険者が世界中を旅して様々な問題を解決しながら仲間を集め、最後は世界を支配する魔王を倒して勇者となる物語の本。
それはイズとシンクが外界に旅立って勇者になるという夢を持つきっかけでもあり、ヤエにとっては二人と離れ離れになる一因となった忌まわしき本だ。
けれどこの本はラミアーヌ島に預けられたイズが持たされていた肉親とのつながり。二人が外界に興味を持ってから何度も捨ててしまおうと思ったようだが、結局、ヤエは捨てることはなかった。
そんなヤエの葛藤などイズは知らない。
「はーい。ありがとヤエ姉」
「いつも返事だけは良いんだから、まったく」
そう言ってヤエは頬を膨らませた。
◆
食事を終えたイズとシンクは湯あみした後、歯磨きを済ませて自室に戻った。
いよいよ明日は念願叶った旅立ちの日。二人はラミアーヌ島を離れ、当てもなく自由奔放に世界各地を巡る放浪の旅が幕を開ける。
けれど旅立ちの前日。イズは今一つ気分が盛り上がらない。
「なあシンク。今日のヤエ姉ずっと変だったよな。夕食では笑ってたけどずっと寂しそうだった。今夜は一緒に寝ようって言ってたのに急に約束破るし」
小型船舶の運転教本と東方のオウロピア大陸までの海図を床に並べて読みふけるシンクは顔を上げた。
「そうだな。けど変だってことならマザーケトもそうだぜ。八歳の俺たちに突然、船を操縦して冒険に出ろなんてさ。普段はちょっと危険なことしようものなら凄く心配するのに」
「それは俺たちを冒険者と認めたからじゃね?」
「ポジティブすぎるぜ、イズ」
ほくそ笑むシンクは教本と海図を折り畳んでバックパックに詰め込み、寝転がった。
「それによ。ラミアーヌ島と違って外界じゃお金が沢山必要らしーぜ。俺たちあんまりお金貰ってないけど食べ物とかどうやって買うんだろうな。そのこと島の誰も気にしてねーしさ」
「食べ物なんて海でも山でも採れるだろ。お金だって働くと貰えるし。これから冒険者になろうって俺たちが島の皆に甘やかされてどうすんだよ」
シンクの笑い声が部屋に響いた。
「そうだよな。悪いイズ。冒険前で俺ちょっとビビっちまったのかも!」
飛ぶように上体を起こしたシンクは机で作業するイズの手元を覗き込んできた。
イズは四種類ある無数の粒を層にしながら詰め込んでクラフト紙で円球状に覆った大玉を作っている。それが何か最初は理解していないようだったが、漂ってくる火薬の匂いでシンクは気づいたようだ。
「もしかして……花火玉作ってんのか?」
イズは白い歯を見せてニヤリと笑った。シンクは呆れながらも笑みを返してきた。
「やっぱりお前には敵わねーよ、イズ」
「おう! 明日ド派手に打ち上げてやろうぜ!」
シンクと拳を突き合わせて笑う。その拳が離れる瞬間、離れの部屋で言い争う声が聴こえた。
声の主はヤエのようだが何かあったのだろうか。シンクと顔を見合わせいつもの悪戯顔に豹変する。
「「よし! こっそり見に行ってみるか!」」
息ピッタリの掛け合いをしたイズとシンクは音を立てず忍び足で自室を後にした。
◆
島中が寝静まった頃、寝室で書き物をしていたマザーケトは寝る前に水を飲もうとキッチンに向かう。すると小窓から差す月明りに照らされながら薄暗い部屋の椅子に座って机に伏しているヤエの姿があった。
マザーケトはヤエの隣の椅子を引いてゆっくり腰かけた。
「まだ眠っていなかったの? 明日はあの子たちを見送る日。夜更かしは体に毒です。体調を崩して見送りが出来なかったらあなたもあの子たちもお互いに悲しいですよ?」
ヤエはマザーケトの言葉に顔を上げることはせず、ただうつむきながら一点だけを見つめている。今にも泣き出しそうな悲痛な表情で。
「今からでも遅くありません、マザーケト。あの子たちの特例を解いてください。あの子たちは今日も悪戯をしたんですよ。とても外界でやっていけるとは思えません」
「それはできません。私はあの子たちの能力や性格を熟考したうえで、外界で適用できる人間だと判断したのです。信用してください」
「でも今日悪戯された四人はいつも以上に怒っていました。再考の余地はあると思います。――そうだ。早朝、四人に協力いただいて直談判させていただきます。そうしたらマザーケトも再考していただけますよね?」
弱々しくか細い声を出していたヤエは、まるで天啓を得たような表情を浮かべてマザーケトを直視した。その表情は笑っているような、悲しんでいるような、何とも言えない複雑な感情が混じり合っていて、目を背けたくなるほどいたたまれない。
どんなに悪戯をされてもラミアーヌ島民全員、二人のことを大切に想っている。だから好き好んで島を追い出してやろうと考える者などいるはずがない。けれどこの選択は二人が生きるうえでどうしても必要な判断だ。
だからマザーケトは首を横に振った。どんなに辛く悲しくてもしっかりと前を向かなければならないとヤエに示すために。
「ヤエ。人の気持ちに寄り添えるあなたなら理解しているはずでしょう。私も夕食後、四人のお宅を訪ねましたが誰も怒ってなどいませんでしたよ。むしろこの悪戯がなくなるのかと思うと寂しいと。ヤエ、寂しい気持ちは十分にわかります。しかし――」
「――やめてください! やめて……ください……。そんな言葉聞きたくありません。そんな言葉より……あの子たちを隠し通す方法を……考えてください……」
ヤエの肩が小刻みに震えている。どれだけ我がままを言っても、どれだけ懇願しても、この決定が覆らないことくらいヤエも理解している。
「ラミアーヌ島の存在がアクソロティ協会に知られるのはもう時間の問題です。そしてあの子たちの正体が露見してしまえば、二人は連れ去られてしまうのですよ?」
「だからなんなんですか⁉︎」
普段マザーケトにはあまり乱暴な姿を見せないヤエだが、今夜は感情が高まり、くたびれた木製のテーブルを思い切り叩いた。
そんな珍しい行動にも動じないマザーケトの瞳には深い悲しみと怒りの感情が混沌と渦巻くヤエの顔が映っている。
次に何を言わんとするのか理解している。マザーケトは直面できない現実に抗おうともがくヤエの苦しみを少しでも受け止めようと、穏やかな気持ちで言葉が続くのを待った。
「外界に行けばあの子たちはきっと不幸になります! マザーケトが誰よりも一番よく知ってるでしょ⁉ 危険すぎます!」
「勿論承知しています。きっと外界には残酷で悲しい運命が待ち構えているでしょう。――ですが、夢を描いて未来へと進もうとしているあの子たちの道を閉ざすようなことをしたくないのです。それはヤエ、あなたも同じ気持ちなのではありませんか?」
「それは……でも! 外界が安全なところになってからでもいいじゃないですか! きっといつか誰かが安全で平和な世界にしてくれます! それまであの子たちを全ての脅威から匿って、ここに閉じこもってみんなで平和に暮らして、それから外界に出たっていいじゃないですか!」
「いつかとはいつですか? いつまでその名も知らぬ誰かを待てばよいのでしょう。その誰かが安全な世界にしてくれる保証はあるのでしょうか。――そう、あの子たちに問われたとき、ヤエは納得させる答えを出せますか? あの子たちの人生をずっと縛り付ける権利が、私たちにありますか?」
「じゃあどうすればいいんですか⁉ あなたたち神の子供達計画によって産まれたセカンドチルドレンは幸せになれない存在なんだって伝えればいいんですか⁉」
「言いたいことはわかります。ですが何を言っても世界の在り方が変わるわけではありません。そして、あの子たちの歩みたい道を閉ざしていい理由にもなりません」
「でも、二人が島を出た先には、悲しい未来しか待ってないのに……」
幸福や不幸の巡り合わせが人間の意志を超越するのは他の力が介在するからだ。それでもなお、二人の旅立ちを後押ししている以上、島民たちを説得しても誰一人、味方しない。
それでも吐き出さなければ壊れてしまいそうな気持ちを理解しているマザーケトは、ヤエの背中をさすりながら微笑む。
「ヤエ。人は区画された不自由の中で自由に生きます。しかし、その区画は人によって適度が違う。例えるならばこの島は鳥かごです。ヤエはこの島はどうですか。居心地が良いですか?」
「はい……」
「そうですか。ならばヤエはこの鳥かごに適しているのでしょう。ですがあの子たちは違う。あの子たちをこの鳥かごで飼うにはかごが小さすぎます。外界を、この島以外の世界でないとあの子たちを飼うことができないのです。日に日に成長して大きくなる体に鳥かごの檻が食い込み、身動きも取れず、いずれ死んでしまうでしょう。それほどまでにあの子たちの器は大きい」
どんなに辛くても必ず別れはやってくる。それを教えるためにもマザーケトはさらに話を続ける。
「もしあの子たちを本当に愛しているのであれば、この小さすぎる鳥かごから巣立たせるのが本当の愛なのではありませんか? どんなに過酷な世界でも、鳥はいつか巣立って広い世界へと羽ばたいていくものです」
顔を上げたヤエの顔がマザーケトの瞳に映る。ヤエの目は真っ赤で涙が止めどなく流れている。
「わかりました。……でも! 私はどうしたらよいのでしょうか? 私は悲しくて心が張り裂けそうなんです。もうこれ以上……離ればなれになるのは耐えられません!」
もう隠す気などない。本音全てを吐き出して、崩れ落ちてしまいそうな心を必死でぶつけるヤエにマザーケトは優しい顔つきで見つめる。
「大切な人がそばにいないのはとても悲しいことです。しかし、体が離ればなれになったからと言って、心が離ればなれになるわけではありません。ヤエ、人は目には見えなくとも心と心で繋がっているのです。人の想いは千里を超えます。あなたたちはどんなに遠く離れても、絆で繋がっているのです。ですが……人はそう簡単に割り切れるものでもありませんね。今はただ泣きなさい。気の済むまで」
マザーケトはむせび泣く小さな体を優しく包み込んだ。