第24話 初めての友のために
刺されるような激しい痛み。体の奥底まで響く重く鈍い痛み。体を焼き焦がしたような鋭い痛み。感電したような痺れる痛み。肉体に受けたどの痛みも久しぶりだ。
久しぶりすぎて忘れてしまっていた。肉体に与えられた痛みによる怒り。心に積もる憎しみ。そしてそれらを許可なく一方的に与えてきた者たちへの殺意という喜び。
全てのリソースを回復に費やしたせいで意識が飛び、あまり魔力も残っていない。けれどそれは些末なことだ。命を奪うという喜ばしい感情を思い出せたのだから。これから何度もしつこく付きまとって必ず奴らを殺す。
そう考えながら機能を停止させていた肉体の感覚にリソースを戻し、ヴェルフェゴールは瞼を開けた。
その視界に映るのは穏やかな日差しと楽しげに笑い合う人間たちの姿。目線を少し外すと海面が遠くに見え、雲は近くに見えた。どうやらここは飛空艇のデッキの上らしい。
ルシアの聖天大魔術に吹き飛ばされてすぐ外界の情報はシャットアウトしたためここがどこかはっきりしない。けれど巨大なプール施設で半裸の人間たちが贅沢な食事をしている状況から豪華飛空艇の空の旅を楽しんでいるのだろう。
いい気なものだ。こんな奴ら殺す気も起きないけれど、と考えて立ち上がろうとしたヴェルフェゴールはようやく周囲の不自然さに気がついた。
飛空艇は優雅に空の海を航行している。けれどその飛空艇に乗る旅客たちの体が硬直している。硬直というのは正確ではない。まるで時間が止まったかのように人間が不可思議に静止している。
目を凝らすと人間たちの表層に薄い純白の膜が張られている。すぐに魔術だと気づいたと同時にルシアの魔術ではないとも気づいた。では誰の魔術か。そう考えたヴェルフェゴールの目の端に二人の影が映った。
「ファイーナ……皇女?」
ハートと星型のサングラスをかけ、花柄のシャツを着て、色彩豊かな飲み物が入ったグラスに刺さる奇妙な形のストローに口をつけるファイーナは一段上のデッキの縁に腰かけ、宙に足を投げ出していた。
あまりに人間かぶれし過ぎて見間違いかと思ったが、隣にいる巨漢を目にして確信した。
「バロンもいたのか。ってことはファイーナ皇女で間違いないみたいだね。一瞬見間違いかと思ったよ」
「ほう。なぜ俺をバロンだと確信したのだ。俺とファイーナ姫様は人間の文化を知るため人間に変装し、人間社会に溶け込んでいる最中なのだ。――いや待て。俺か? 俺の存在が凄すぎるばかりに変装がばれてしまうのか? それとも姫様の従者として俺の外見がディアタナで知れ渡っているのか?」
花柄のシャツとパンツを履くバロンはまんざらでもなさそうな顔で顎を撫でている。
「人間社会に溶け込むとか言いながらバカンスを愉しんでいるとしか思えないけど? ――まあそれはいいとして。変装とか関係なく八貴族の中でもバロンは有名だからね。魔術の才能が無く、不出来で、親から家督を継がせてもらえず、どこにも居場所が無い、図体のでかさが取り柄の哀れな男。それがバロンだってね」
バロンは何か言いたげだったがファイーナに服を掴まれて口を閉ざした。それを見たヴェルフェゴールは薄ら笑う。
「そもそもファイーナ皇女の周りはそういった連中ばかりだろ? 家督を継げなかった出来損ないの貴族、才能が無く夢破れた青年、家も身寄りもない浮浪者、貴族に売られた奴隷、親のいない孤児、牢屋に投獄された犯罪者。弱者ばかりを囲い入れた結果、皇女自ら前線に立つしかなくなった。――けどまあ。そもそも皇女自身も弱者を囲っていい気になってる節があるからね。弱者からしたら命の恩人だ。随分とちやほやされるんじゃないのかな?」
怒りに震えるバロン。けれどファイーナに服を掴まれ必死に我慢している様子だ。
「ふーん。躾はできているみたいだね。まあ僕にはどうでもいいけど。それより僕はやらなくちゃいけないことがある」
そう話すとサングラスを取ったファイーナは飲み物と一緒に隣に置き、ようやく口を開いた。
「言いたいことが終わったのなら早くディアタナに帰ってくれ。とても不愉快だ」
「ディアタナに帰る? まさか。僕はこれから人間と殺し合いをするんだ。聖天大魔導士を殺すにはまだ体力が戻ってないけど。でもセカンドチルドレンなら殺せる。そもそも僕が敗北する原因を作った元凶はあの黒髪のガキだ。だから少なくとも今日あのガキは殺す」
「黒髪のガキ……?」
ファイーナの目の色が変わった気がした。けれど気にする必要はないと考え、ヴェルフェゴールは笑みを浮かべる。
「ああそうだ。黒髪のガキ。確か名前はイズって言ってたっけ。あのガキのせいで僕の調子が狂ったんだ。だから殺す」
「力を制限した状態とは言え全力を出して負けたのなら次やっても負ける。誇り高き貴族なら潔く負けを認めて一度ディアタナに帰りなさい」
「うるさいんだよ、皇女。僕はあなたの配下じゃない。僕に命令できるのはハルマトラン様だけだ。――てかあなたこそそんな姿になってまで人間世界で何やってるんだよ。どうせ人間と仲良くしたいとか能天気なこと考えてるんだろうけど、このまま人間世界に居られるのは正直迷惑だ。皇帝の娘だから手は出せないけど、あなたを苦しめるやり方はいくらでもあるんだ。例えば従者を殺す、とかね」
ファイーナの目線がバロンに向く。バロンは小さく頭を下げた後、姿勢を正して声を上げる。
「礼節を欠き、皇女に対し不敬なもの言いである! 跪き、首を垂れて謝罪せよ!」
「頭湧いてるのかい? 皇帝の御前ならいざ知らず、僕たち三人しかいないこの場所でそんな礼節わきまえるはずないだろ!」
「もう一度言う! 跪き、首を垂れて謝罪せよ!」
「ふざけるのもいい加減にしなよ! 僕がこんな奴のために――」
「――跪け!!」
ファイーナの一喝。それに合わせて降り注ぐ凄まじい重力がヴェルフェゴールを圧し潰した。デッキに叩きつけられ、這いつくばった体制から身動きが取れない。
「こ、この――!」
ヴェルフェゴールは唸りながらファイーナとの力の差を痛感した。
大きな魔力を保有する者は異世界に渡る際、ディアタナで魔力制限を科してレベルを下げ、帰還するまで元のレベルに戻れないようにする。これは保有する質量が大きすぎると時空の入口で量子間がぶつかり、異世界へと渡れないからだ。さらに魔力の保有量が大きすぎるほど制限も大きくなる。
だからファイーナの魔力制限はヴェルフェゴール以上だ。成人女性が幼年期まで退行してしまうほどに。そのはずなのに、たった一つの呪言でヴェルフェゴールの肉体を強制的に押しつぶした。これは純粋な力の差に他ならない。
その事実に奥歯を噛み締めるヴェルフェゴールは必死に顔を上げてファイーナを睨みつけようとしたとき、突然体が軽くなった。そして自分の意思とは関係なく肉体が宙を浮き、ファイーナと同じ目線の高さまで登ってきた。
次に背中が引き寄せられる感覚があり、後ろに目を向けた。後ろには漆黒の歪。ディアタナへの門を強制的に開けたようだ。
「ヴェルフェゴール。あなたは私が人間世界に居られては迷惑だと言ったな。その言葉そっくりそのまま返そう。私もあなたに居られては迷惑だ。生まれて初めてできた人間の友をあなたに奪われるわけにはいかない。――帰れ、ディアタナに」
正面に目を向けると手を掲げるファイーナの姿があった。その隣にはにやけずらで手を振るバロン。ヴェルフェゴールは動かせぬ体を必死に動かそうとしながら拳を握った。
「おのれ! おのれおのれおのれおのれおのれ! おのれー!!」
今日、自分の身に降りかかった災難全てを罵倒するヴェルフェゴール。その視界は次第に闇へと飲まれていった。