魔王、降臨。村人、全員ひれ伏す(物理)
──風が、止まった。
それまでざわめいていた村の広場。
笑い声、罵声、冷ややかな視線が交差していたその場所から、音がすっと消える。
ミリアは、膝をついたまま、顔を上げられなかった。
涙はもう出なかった。悔しさも、怒りも、どこかに置いてきたようだった。
目の前の土の感触だけが、妙に冷たくて、痛かった。
(ああ、また、こうなるんだ)
(どの世界でも、私は……こうして、捨てられるんだ)
そのときだった。
──音もなく、世界が軋んだ。
空が、揺れる。
重い空気が、ぐわりと押し寄せてきた。
まるで、大気そのものが意思を持って、膝を折らせに来たような。
誰かの“圧”が、空間すべてを支配する。
「……な、んだ……?」
村人のひとりが、息を呑んだ。
そして、誰かが指さした。
「あ、あれ……丘の上……っ、ひと……?!」
そこに立っていたのは、銀の髪の男。
風に揺れるマントの裾は、空間を裂くように動く。
紫電が空に走り、彼の足元から魔力の光が地に流れ落ちる。
「……魔王……」
誰かが呟いた。
その瞬間、全員が凍りついた。
──本物だ、と。
──あの魔王が、ここにいる。
──しかも、彼女のすぐそばに──
「……誰が、俺の妻に触れた?」
声は静かだった。
けれど、耳に届いた瞬間、鼓膜が震えるような音圧があった。
魔王アーヴィン。
城の最上層に座し、千年を超えて恐れられてきた、存在。
その男が、膝をついたままのミリアを見下ろす村人たちを、一人ひとり睨んだ。
「頭が高いな」
──ズン、と空気が沈んだ。
まるで、空そのものが落ちてきたかのように。
「彼女に“使えない”と言ったな。……貴様が何を成し遂げた?」
「“むっちりしてる”?……その目は、腐っているのか?」
「彼女は、魔王城の最奥まで到達した。“己の足”で、だ」
「涙をこらえて、立ち続けた。傷だらけで、血を流しながら、倒れずに。……その勇気に、貴様らは唾を吐いた?」
怒号はなかった。
淡々と、ただし圧倒的に、言葉が刃になって振り下ろされていく。
「その口、捨ててしまえ」
──次の瞬間。
村の地面が弾けた。
バアァン! と音が鳴り、光の柱が数十本、地から天へと逆巻いた。
魔王の魔力による、極大警告。
「ぎゃあああああ!!」
「た、助け──っうわっ!? ひいいいいい!!」
村人たちは次々と吹き飛ばされ、地に叩きつけられた。
誰も死んではいない。けれど、動けない。
背中に魔力が刻まれ、筋肉が震え、骨が軋む。
──二度と、この女を侮辱するな。
それが、体に焼きついた。
アーヴィンは、ゆっくりとミリアのもとへ歩いた。
地に伏した人間たちの呻きも、誰一人、彼を止められない。
銀髪が揺れるたび、重く、温かい魔力の奔流が辺りに降る。
そして──
「……ミリア」
しゃがみこみ、彼女の頬にそっと触れた。
彼女の瞳は、震えていた。
「な……んで……っ、来たの……?」
涙が溢れる。
声がかすれる。
「……だって、君が泣いたから」
「その時点で、全世界が敵になる理由としては、十分だった」
そっと、抱きしめられる。
「君を守るのは、俺の役目だ。最初から、それだけは決めていた」
「っ……う、うあ……っ……!」
ミリアの顔が、彼の胸に沈む。
震えながら、嗚咽がこぼれる。
「なんで、わたしなんかを……」
「君だからだよ」
「俺は、“誰でもいい”とは一度も言ったことがない」
「君でないと、意味がない」
優しく、額に口づけを落とした。
──彼女を否定したすべての世界に代わって。
──たったひとり、彼女の存在を肯定するために。
魔王は、立っていた。
誰よりも強く。
誰よりも、やさしく。
──次回、第八話『この世界で、君は生きていていい』