8 夢見のシマエナガ(1)
女神の泉に沈んていくリンゴを見つめながら、美しい水音に耳を澄ませる。小鳥の声が響き、獣の足音も優しい。女神の泉の真ん中に建てられた女神像はボロボロに朽ちてしまっている。頭の上は欠けて平らになっていてそこには小さな鳥の巣が出てきているほどに。
「女神アリス様。私は聖女として何をすれば……?」
リンゴを齧って、それからボソッとつぶやいた。聖女の力はみるみるうちに増大している。私の中の魔力が強くなっているのをひしひしと感じる。たとえば、動物の怪我はあの透明な魔法石なしでも治癒できるくらいになっていたし、ポーションの作成もいつもより早くできる。
「都市に戻って人々に奉仕をすべきかしら? けれど、あの場所に戻れば最悪の場合投獄されてしまうだろう。私は時期王妃様に不敬をはたらいたのだから」
『おや、シスターミュゲ。女神の泉へどんなようかな』
そこにいたのはあの透明な角を持つ宝石鹿だった。今日は雄鹿一頭で家族は近くにいない。
「こんにちは。女神様からの啓示でりんごを泉の中へ」
『そうか。啓示があったか。この森に聖女が来るのは何百年ぶりだろうか』
「そうなの? 聖女は森に?」
『あぁ。元々、聖女はこの森に住む乙女に与えられる不思議な女神様の力だった。数百年前、聖女に恋をした王族の青年が彼女を王妃に迎えた。それからというもの、この森に聖女がやってくることはなかったな。シスターミュゲ、君は何か知っているのかい?』
「私は、聖女の力を授かるのは王族か公爵家の人間だけだと聞かされていたわ。聖女様になれるのは王族の血を継ぐもののみって。公爵家のほとんどは王族の遠縁だから……」
『面白い話だ。聖女の祝福は血によって受け継がれる呪いのそれと近いものだ。森を出た聖女の血は広く王都に広がった。その血は聖女の血、それを引き継ぐ乙女であれば誰しもが祝福を授かる可能性を秘めているというわけか。聖女として身を捧げることが王都の乙女たちにとって幸せか? 我には疑問だな』
雄鹿は私のバッグからリンゴをひとつ齧って取ると前足と口で器用に割って頬張った。彼の話が本当であれば、私は王族でも公爵家でもないのに聖女に……? この森に住んでいるからだろうか。けれど、祝福が呪いと同じであれば私は?
『今日は早く帰りなさい。じきに強い雨が降る』
雄鹿は空を見上げた。私もつられて空を見上げると少しばかり雲が被り始めている。
「ありがとう」
『ジニだ。我の名前を覚えておけ』
「ありがとう、ジニ。またいつか」
『あぁ、シスターミュゲ。リンゴをありがとう』
ジニと別れた後、私は急いで教会へと向かった。彼の預言は正しく、まだ夕方だというのに森は真っ暗になり雷鳴と雨の香りがし始めていた。
教会に戻ったら薪を急いで家の中にしまって、それから畑の収穫前のものは全て収穫して保管庫に入れてしまわないと。彼のいうように強い雨になるのなら流されてしまうかもしれない。
——ピピッ、ピピピピピ
突然の鳴き声にびっくりして私は立ち止まった。私の足元で白くて小さなふわふわが飛び上がる。あやうく踏んでしまいそうになって私は尻餅をついた。
「ご、ごめんなさいっ。怪我はない?」
急いで小鳥の無事を確認しようと起き上がると、白い小鳥はなんだかまんまるで可愛らしい顔をしていた。見たことがない風貌に恐る恐る手を差し伸べる。
「ピピピッ、ピピッ」
小鳥はぴょん。と私の掌に乗っかるとふわふわした体を埋めて小さな黒い目をこちらに向ける。あまりの可愛らしさにとろけそうになりながら、小鳥の巣を探してみるが見当たらない。
「あなた、飛べないの?」
「ピッピッ!」
そうだと言わんばかりに小さな羽をばたつかせる小鳥。鳥にしては丸すぎる見た目にキュンとしつつもまだ飛べない雛を触ってしまったことに私は強い罪悪感を覚えた。親鳥は私が許可なく触ってしまったことでこの子を育てなくなってしまうかもしれない。
——じゃあここに置いていく?
その時、一際大きな雷鳴が轟き小鳥はキュウキュウと怯えたように鳴いた。私の手のひらに必死に体を押し付け雷鳴から逃れようとしている。
飛べないこの子をこの場所に置いていったら雨に流されて死んでしまうだろう。見殺しにすることはできない。
「わかったわ。私と一緒に教会へ行きましょう。明日、あなたの親鳥を探してあげるからね。少し急ぐわよ」
「ピッピッ〜! ピッ」
小鳥の返事をきいてから私は小走りで教会へと向かう。
雨が降るちょっと前に教会にたどり着いた私は薪を教会の中に入れ、それから収穫前の野菜をすごい速さで倉庫に収納した。終わる頃にはポツポツと雨が降り始めていてなんとか間に合ったのだ。
「また変なの拾ってきたにゃ」
「ピッピッ!」
不満そうに小鳥は鳴くと小さな羽を広げた。ミーシャは猫ではあるものの女神の眷属だからなのか小鳥には興味を示さなかった。私はミーシャが小鳥を食べちゃうんじゃないかと心配していたが一旦彼の冷静さに感謝する。
「ミーシャ。この子は魔法生物?」
「そうだね。夢見のシマエナガの雛」
「夢見のシマエナガ?」
「そ、図鑑に載ってると思うぜ。見てみろよ。けどそいつお腹減ったってさ」
「そういえば、私この子とおしゃべりできないのよ」
「聖女でも動物の方が未熟だと話せないんだぜ」
「ミーシャはどうしてこの子の気持ちがわかるの?」
「いや話はできんな。でも顔見てみろって。腹減っている顔してるだろ」
ミーシャに言われてシマエナガの顔を覗き込んでみると、目をしょんぼりさせ小さな羽でお腹を押さえている。あまりの可愛さに吹き出したあと私すぐに粉にする前の小麦をひっぱりだして食べさせてやった。