5 聖女レーシア
夕食を終えて、教会の扉に鍵をかけた後簡単に掃き掃除をして明日の朝の支度をする。煮沸消毒した瓶の中に切った野菜たちと酢と砂糖を入れる。ピクルスは床下の涼しい収納に入れて明日の朝やお昼のお弁当に入れたらと想像をするだけで楽しみだ。
酢の匂いが苦手なのかミーちゃんは不機嫌そうに尻尾を揺らしている。
「ミーちゃん、ベッドに入る前にブラッシングしましょうか」
ミーちゃんは「ブラッシング」と聞くとすぐに上機嫌になってこちらへ寄ってくる。ふわふわの馬の尻尾の毛を使ったであろうブラシを手に取って優しくミーちゃんをブラッシングしていく。ミーちゃんは子馬ほどの大きさのあるマジカルボブキャットで、かなり梳かしごたえがある。
とは言ってもミーちゃんの毛は抜けないのでブラッシングで落ちるのは森の中でついた小さな虫とか木の葉くず、それから砂などだ。
「次はお腹ね」
ミーちゃんは豹柄のお腹がよく見えるようにへそ天になると気持ちよさそうに体を伸ばした。「むにゅー」と漏れる声が本当に気持ち良さそうで私まで楽しくなってくる。ふわふわでもふもふの毛を撫でながら優しく毛流れを整えてお掃除する。最後は大きな肉球を濡らした布巾で優しく拭いてあげるのだ。ぷにぷにで可愛らしい肉球を丁寧に拭いてやるとミーちゃんは大きなあくびをした。
「さ、私は明日のパンを準備したらベッドに行くわね」
「んにゃ」
ミーちゃんはブンブンと尻尾を振ると先にベッドに飛び乗ると私が寝る分の隙間を器用に開けて丸くなった。
***
夢の中、私は女神の森を歩いている。けれど、感覚がない。足元に感じる土の感覚とか、鼻の中に入ってくる森の匂い、視線のはしっこで動く何かとか。景色は森の中なのに、なんだかおかしな気分だった。
私はただ体の動かせる方向に歩き続ける。次第に、足がゆっくりゆっくりと止まった。そこは森の中にある遺跡のような場所でボロボロになった女神像と石でできた椅子、蔦の絡まった石のアーチ。
「よく、やってくれていますね。レーシア」
優しく穏やかな声。
私はきょろきょろと周りを見たが誰もいなかった。
「ふふふ、こっちよ。ほら、貴女の目の前」
そう言われて、瞬きをすれば目の前にはうっすらと光を放つ女性がいた。白いフードのついた服を見に纏い、森の中だというのに裸足のまま。優しい眼差しにはどこか母親に似たような安心できるようなそんな印象だ。
「レーシア。レーシア。私の可愛い子供。ポリンネを送り出してくれてありがとう」
「ポリンネ?」
「晩年のあの子はシスター・ヴァイオレット。美しいスミレの花のような子だったわ」
「シスター……あの、貴女は?」
「ふふふ、私は貴女は悲しみと裏切りを乗り越えてよくやっているわ。けれど、この世界はまた新たな悲しみに包まれようとしている。レーシア、新たな聖女よ。この国を救いなさい。その太陽のような瞳で真実を照らしなさい」
「聖女……?」
「もう時間よ。ミーシャが起きる頃だわ。ねぇ、たまには大好きなリンゴが食べたいの。もしもリンゴを手に入れたら女神の泉に投げ入れてちょうだい。ねぇ、愛しい我が子レーシア。優しい慈愛の子、大丈夫。直にわかるはずよ。ふふふ、またいつか」
「貴女は……」
私が言いかけると彼女はふっと光になって消えてしまった。
——女神アリス様……?
ぐわん。ぐわん。視界が揺れると私は森の中から一気に真っ暗な世界へと連れていかれ、次第に体の感覚が戻ってくる。むにっと頬を優しく叩く何かに瞼をひらけば、そこには私の頬に肉球を押し当てて不満げな顔をするミーちゃんの姿があった。
「お、おはようミーちゃん」
目を擦り、先ほどの夢をうっすらと思い出しながらも夢だったことに少し残念な気持ちになった。本当に女神アリス様に会えたならあのお優しい彼女に会えたならどんなに幸せだろうか。
「まったく、どいつもこいつもお寝坊で困るぜぇ。おい女。飯だ飯」
「だれっ?」
突然聞こえた声は粗暴で、それから何だか偉そうな若い男の声。ヴォルフのものとは違う。侵入者かもしれないと私はベッド脇にあった一番分厚い本を手に取る。
「おいおい、侵入者なんかいないぜ」
「貴方でしょう? 出てきなさい!」
「まったく、そんな本じゃ俺は倒せないし。これだから新米聖女様は困ったもんだぜ全く。若い頃のポリンネそっくりだにゃ。あっ……」
「まさか……」
私はおすまし顔で座っているミーちゃんを見つめた。
「ミーちゃん?」
「あぁ、そうだよ。俺はミーシャ。女神アリス様の眷属さ。そもそも、俺は雌猫じゃないしそのミーちゃんって呼び方はやめてくれよ新米。ミーシャでいい」
「貴方、お話できたの?」
「はっ。なんて察しが悪いお嬢さんなんだ。アンタは昨夜女神アリス様から啓示を受けただろう。彼女はアンタに聖女の力を授けたんだ。聖女の力を手にしたから俺の声が聞こえるようになった。俺は女神アリス様の眷属だからな。まぁ、そんなことはどうでもいいから朝食にしようぜぇ。そうだ今日はせっかく言葉が通じたんだからベーコンたっぷりにしてくれよ。俺はベーコンが大好きなんだから」
私は混乱しつつもあの夢が夢ではなく現実だったことに驚き、それから嬉しくなった。それと同時に「聖女は公爵家か王族に与えられるもの」だと知っていたため不思議にも感じる。どうして、聖女の力が私に? 女神様は何も教えてくださらなかった。
「ミーシャ? 今まで無礼があったならごめんなさい」
「謝らなくていいぞ。ベーコンをたっぷり入れてくれたらな」
「でも猫ちゃんにベーコンは塩分が」
「俺は魔法生物だ。それに女神様の眷属として十分な寿命をもらってるんだ。いいからさっさとしてくれよ。あぁ、お腹減った」
「わ、わかったわ」
私はミーシャのためにご飯をたっぷりと用意し、美味しそうに食べる彼を確認してから朝の掃除へと向かう。ドアを開けて一歩森へと出ると、私は驚いて声が出てしまう。
昨夜までは「ただの森」であった女神の森は魔力に溢れどこかイキイキとしている。私の体にも感じる生命の魔力が心地よく暖かくそして自分の中に宿っている魔力と共鳴しているのを感じた。
——聖女の力
夢の中の女神アリス様も、いきなり話し出したミーシャも私の妄想でも嘘でもない真実だったのだ。