4 初めての手助け
教会の朝はいつもより早い。
以前は二人で分担していた作業を一人で行わなければならないからだ。けれど、どうしても朝はこのまま眠たくなってしまう。
私はむにむにと手を握ると柔らかくてもふもふした感触、ミーちゃんの手をにぎにぎしながら眠っている。ミーちゃんの手はに人間の男性ほどの大きさがあるため私にとってはとても良い握り心地で、ミーちゃんは私の体温が心地よいらしく気持ちよさそうに寝息を立てていた。
暖かくていい匂いがする。だから眠っていたくなってしまうのだ。
「おはよう、ミーちゃん」
「むにゃにゃ」
不満げなミーちゃんに毛布をかけて私はベッドからするりと抜け出した。昨日準備しておいたパンの生地をオーブンに入れて、それから野菜を切っておこう。朝ごはんの下準備が終わったらパンが焼きあがるまでの間は教会の掃除と女神像にお祈りをしないと。
バタバタとした朝の仕事を終えて、朝食に着く頃にはミーちゃんも起きてきた。シスターが亡くなってからミーちゃんは少しばかり元気がない。シスターがいた頃は私たちよりも早く起きていたのに最近は眠っていることが多くなった。
「ミーちゃん、ごはんよ」
ミーちゃんのご飯を準備して、それから焼けたパンと野菜を煮込んだだけのスープを食べる。質素だけれど、これで十分だ。さぁ、食べたらシスターとしてやる仕事がたくさんあるのだから!
森の教会でシスターをするというのは意外と大変な仕事である。人間の村や町の境界では主に人々と女神様に奉仕することが仕事だが、ここでは森に奉仕することが主な仕事である。
例えば、教会の裏庭にある畑に迷い込んできたキリキリ小鼠を親元に帰してあげるとかスノーラビットの巣穴に降りかかった枯れ葉を退けてやるとかだ。それから、最も重要な仕事は食物連鎖の波に飲まれてしまった亡骸をしっかりと葬ってやるということである。
「貴方の旅が良いものでありますように」
シスターが旅立ったあの洞穴へ、私は小さな葉っぱの船を流した。女神様の元へと命が向かっていく。広い森の中、私ができることに限りはあるけれどシスターのようにできる限りやってみるのだ。
「ミーちゃん、今日はもう教会に戻りましょうか」
「むにゃ」
「あぁ、そうだ。聖水がもう足りないから女神の泉に行かなくちゃ」
一度教会に戻ってからバケツを持って女神の泉に向かう。泉の水を飲みにきていた鹿たちに挨拶をして、それからバケツ一杯分の水を汲んだ。一頭の子鹿がよろよろと私の脇に擦り寄ってくるとバケツの水をカプカプと飲み始めた。
「足が悪いのかしら、お水が飲めなかったの? たくさん飲んでね」
私はバケツを子鹿が飲みやすいように地面に置いて少し離れて見守る。女神の泉は水面まで少し距離があるから足の悪い子鹿では水面まで顔が届かないだろう。
子鹿を心配そうに見つめる雄鹿と雌鹿。雄鹿のツノは美しい透明な宝石のようにキラキラと輝いている。
彼らは『宝石鹿』と呼ばれる魔法生物でその名の通り雄鹿の持つ宝石のような角は不思議な魔法石の原石である。
「大丈夫よ、貴方たちはこの子の両親?」
私はバケツを地面に置いて夫婦の鹿たちに手招きをした。警戒をしていた雌鹿がゆっくりと私に歩み寄り、まるで検査をするみたいに足から手の指先まで鼻で匂いを嗅いだ。真っ黒の瞳にじっと見つめられて、私が見つめ返せば雌鹿はクイッとお辞儀でもするように頭を下げると可愛い子鹿を甘噛みした。
それから私を見上げる。
「はじめまして、私はこの森の新しいシスターよ。シスター・ミュゲ」
そっと雌鹿の鼻先に触れると彼女はゆっくりと瞬きをしてそれから甘噛みをした。くすぐったいような感覚に私は微笑み、それからしゃがみ込んで子鹿にも挨拶をする。まだ反転模様のある可愛い子鹿は夢中で水を飲んでいた。
一方で、宝石の角をもつ雄鹿は警戒したようにじっと私の方を見つめている。宝石鹿の角はその色によってさまざまな魔法石に加工することができる。赤なら火の魔法石、青なら水の魔法石……、透明な魔法石は治癒魔法だ。
だから、彼らは遥か昔に人間の狩りの対象になってしまった。数は激減し今やこの世界中でもその数は少ない。それを思い出して今自分が経験していることはとんでもないことなのではないかと思い始めた。
「何か、困ったことがあったら教会に相談しにおいでね」
子鹿が水を満足に飲み終わったあと、私は鹿の家族に別れを告げた。それからもう一度泉の水を組み直して教会へと戻る。
聖水をある場所へと戻し、それから今日一日森であったことを女神像のまで報告をする。自分が送り出した動物たちのこと、森で起きたちょっとしたトラブルや可愛らしい魔法生物たちのこと。珍しい魔法植物や野菜を見つけたこと、全部全部お祈りしてやっと私の一日の仕事が終わる。
『宝石鹿:たまに女神の泉で出会う魔法生物。美しい宝石のような角は百年に一度生え変わるみたい。彼らはその角を誰にも見つからない場所に隠し魔法の根源のような巣穴を作っているらしいわ。雄鹿は警戒心が強く雌鹿は人懐っこい』
シスターの図鑑を確認し、私は胸の中がぽっと暖かくなった。彼女も同じような体験をしていたんだ。きっと、この分厚い図鑑と同じくらいの動物たちとの出会いがあるのね、ひとりぼっちだとしても寂しくないわ。
暖炉に火を焚べて、それからお湯を沸かし古いティーポットを使ってハーブティーを淹れる。裏庭で育てた爽やかなハーブが暖かさと共に鼻を抜けて疲れを癒してくれる。夕食はまだ残っていたベーコンとパンを食べようかと考えていたら、ミーちゃんが「ぎゃお」と警戒するような声を上げた。
「ミーちゃん、どうかしたの?」
ミーちゃんはドアを爪でガリガリと引っ掻いて開けるように催促した。私はティーカップを置いて、急いでドアを開けてみる。飛び出したミーちゃんを追いかけていくと教会の前にあの宝石鹿の家族の姿があった。
ミーちゃんを見た鹿たちは一瞬、身を固めたが私を見つけるとフンフンと足を踏み鳴らして何かをアピールしているようだった。
「こんにちは」
「遊ぼうよ!」と言わんばかりにぴょんぴょんと跳ね回る子鹿に困惑するミーちゃん、雌鹿と雄鹿は私の方へとゆっくり歩いてくる。雌鹿がゆっくりと私の手に頬擦りをし、私は彼女の許可を得るように匂いを嗅がせてからそっと彼女の頭を撫でた。
するとビリビリと伝わる魔力、心の中に直接響いてくるような声が聞こえた。
『ありがとう、新しいシスター。私の子供は生まれつき足が悪かったの。あの女神の泉に足を治すために通っていたのだけれど、あの子の足の力では踏ん張ることができずに水を飲むことができなかった。けれど、貴女がきてくれた、貴女はせっかくバケツに汲んだ水を飲んでしまったあの子を責めなかった。あの子はやっと女神の泉の水を飲んで女神様の加護を授かることができた。元気に駆け回るあの子を見ることができた。ありがとうシスターミュゲ。ありがとう。ありがとう』
「お礼を言いにここまで? 私もみんなが元気になって嬉しいわ」
『えぇ、すぐにお礼が言えなくてごめんなさい。これを貴女にと思って持ってきたのよ。貴方。シスターミュゲにお渡しして』
雌鹿の声のあと、後ろにいた雄鹿がゆっくりと私の方へと進んでくる。ゾッとするような強者の気配と魔力。美しい透明の宝石の角は夕日を乱反射して私は目を細めた。
『シスターミュゲ。良い名だな。妻と子が世話になった。これは我が角のかけら。優しい君にふさわしい魔力を秘めているカケラ』
雄鹿は咥えていた小さな宝石を私の手の上に乗せた。女性の手で握り込めるほどの大きさ、宝石にしては大きく石にしては小さいそれは歪な形で彼の角と同じ透明な宝石だった。
お礼を言いながら彼の角を見ると先端が少し欠けていて、手の中にある宝石が彼の角の一部だったことを私は理解した。
「ありがとう」
『息子を助けてくれた礼だ。シスター、困ったことがあれば我ら宝石鹿の一族を頼るといい。きっと心優しき君には皆が協力してくれるだろう。あぁ、優しき君よ。またいつか森のどこかで』
鹿の家族が森の奥へと消えていくと、じわじわと手の中の宝石が暖かくなっていく。治癒魔法の力がこもったこの原石をもしも怪我をした魔法生物を見つけたら少し使ってみようか。素敵な出会いに感謝して私はもう一度女神様の前で祈りを捧げた。
「ナーオ、ナーオ!」
ミーちゃんが不満げに鳴き、私は夕食の準備を思い出した。今日も教会のお仕事は終わり、また明日に向かって準備をするのだ。