境界線上の裏と表 4
ふははは、勝った。これで帰りにゲーセンでストレス発散のイベントはキャンセ――
「あっ、待ちなさいよ」
情けない体幹の俺は「ぐぇっ!」とあっけなく後ろへ倒され、地面で仰向けになる。
後頭部の殴打は免れるが、視線の先に広がる暗がりには危機感を覚えた。
「……な、あっ」
短い悲鳴を上げて、両手が布地を遮るべく抑え込む――が、もう遅い。
しかしこの際、いっそ話題をすり替えたほうが早く帰れるだろう。
「ほぅ、白か」
「ほぅ、じゃないーっ!」
「ぐへぇッ!」
競泳でしごき抜かれた足が、容赦なく腹部に叩き込まれた。しかし先に虚弱体質を明かしたのが効いたのだろう。微妙そうな顔だ。ここで怒っては少々、勿体ない気がする。
「つーかいい加減もう、おうちに帰りなさいよおまえ……」
「えぇ、もちろん帰るつもりだけど?」
「あ、そう。じゃ、そういうことで」
妙に偉そうな口調と表情が何とも度し難い。絶対こいつ、変な性癖だ。間違いない。
それから踵を返し、向かうはやっぱりゲーセン。さすがにこのまま帰るのも癪だ!
「――で。なんで競泳専攻の甘利つぐみ殿は、ゲーセンまでついてくるかね」
身をひるがえして聞けば、ぶん殴りたいほどにわざとらしく「てへっ」と舌を出して笑ってみせた。クソうぜぇ……と思ったのも束の間。こいつの非常識は加速した。
「あなたのこと、好きになっちゃったっ」
思わず俺は言葉を失い、顔を引きつらせる。二重の意味で、だ。
「い、いやだなぁ、そんなわけないっ。嫌いよ! 今のところこの世で二番目に嫌い!」
どうやら俺が真に受けたと思ったらしい。顔を赤らめて髪を指先でくるくると巻くクソ女は事情など知らずに悪態をつく。反応する余裕はない。嘘であろうと告白は告白。つまり、
「ッ、クソが。冗談でもそ……うぶ、おげぇええっ」
盛大に吐き散らすこととなり、周囲から聞こえはじめる悲鳴の数々。
近くを通った女子の黒ソックスにゲロが跳ねたらしく、あれこれ罵倒が飛んできた。
「う、わっ! し、信じらんないんですけどーッ!? クリーニングしたばか――」
「ま、まあまあ。気持ちはわかるけどほら。まずホロプリントの色を変えて――」
「何よ、あんたあれの彼女っ!? そんなこと言われなくてもわかって――」
「か、彼女ぉ!? だ、だだだだ誰があんな軟弱者の――」
次第に気配が遠のいていき、不特定多数のささやき声と視線が残された。
「世の中、意外と薄情者ばっかりよね……やになっちゃう、もう」
差し出されたのは新品のタオル。先ほど多くもらって、使わなかった分だろう。
だがそれよりも気に入らないのが、声の主が不愉快だということで。
「おまえ……」
「なによ、その顔。あ、まだ気分悪いの? ならほら、ちょっとこっち。顔上げて」
「は? なに……んぐ、むぐぅ」
ぴちゃり。平然とゲロ溜りへ踏み出した彼女に、口元を丁寧に拭き取られる。
一度拭いた部分を二度と使わないこなれ具合は、自分で始末するよりもどこか心地良ささえ感じてしまうものがあったが、それも彼女の顔を目にした途端、我に返る。
「はぁい、よく我慢出来ましたね~。いい子いい――」
「もう終わっただろ! は・な・せッ!」
「ああっ、もう……」
何故だか無駄に頭を撫でてこようとする手を咄嗟に押しのける。
赤らんだ笑みを浮かべる彼女に、妙な悪寒のようなものを感じたのだ。
「気安いんだよ」
露骨な態度で応じると、不満そうな紫の瞳――その上目遣いが俺を見つめる。
それからムスッと頬をほんの僅かに膨らませ、端的に指摘した。
「ありがとうでしょ?」
「あ・り・が・と・うっ!」
「うん。よろしい」
嫌味たっぷりの声を受けて姿勢を正し、嘘みたいな笑みを口端に描く。わけがわからない。
「にしても吐きそうなくらい嫌とは言うけど。実際に吐かれると傷つくわね……」
「傷つく心なんてあったのか、おまえに」
「ポコくんとメロちゃん未満みたいな言い方やめてくれる?」
やがて奉仕ロボが数体、ホバー駆動で走ってきた。彼らはゲロに大量の粉末をかけて即座に凝固し、ささっと体内へ回収。それから……汚れてしまった靴を綺麗に拭ってもいた。
「――はんッ」
苛立ちを胸に抱え、ゲームセンター〝BUNDAI〟へと足を向ける。
文大と聞けば奈那子のことを思い出してしまうが、ネオ千葉だけでなく全国規模で展開するV‐Sports関連を仕切る企業の一つなのだからもう仕方がない。
「あっ、ちょっと待ちなさい! ポコくんメロちゃん、ありがとうねっ!」
「アイヨー」
「ホイナー」
ピロピロピロピロ、と。電子音を響かせながら彼らは東へゴーイングしていった。
「ねぇ、聞いてもいい。あなたがゲームをするの、親がゲーマーだから?」
「……別に。これしかできないだけだ。と言ってもアマチュアなんだけどな、まだ」
半ば呆れ果てつつ、入口からすぐの位置にある階段から二階へ向かう。
フロア全体にこれでもかと敷き詰められた筐体が自然と目についた。
「うーん、何というかただのリクライニングシートみたいね……」
「安全に配慮した結果だろ。起動後なんて、プレイ時間によってはベッドでトイレだぞ」
返答に「ふぅん」と相槌を打ち、周囲に関心を向ける姿を横目に置く――その瞬間だった。
「……は?」
俺にとっては信じられない光景。いや、とある組み合わせが目に入る。
「え、なに? どうしたむぐぅむっ!?」
咄嗟に口を手で塞ぐ。そのまま起動済み筐体の影へ連れ込み、身を隠した。
「少しだけ大人しくしぁ痛てぇっ」
当たり前のように。あぐっ、と噛まれた。しかも、ひねった方を。
「顔と髪を触るのはやめて特に顔みゅぅ……」
「黙ったら離すからちょっと静かにしてくれっ! ……よろしいか?」
声をひそめ、喉を鳴らす彼女を落ち着かせる。というか触られて困るような過度の厚化粧は詐欺罪だろうに。もちろん整形なんぞ即処分である。何がナチュラルメイクだクソ食らえ。
「ぁン、どうした。ついに都合のいい女の幻でも見えるようになったかよォ?」
「僕のデータにないエチ女がいたような気がしたんですけど……気のせいのようです」
「ハハッ! お前の偏見まみれでスカスカのゴミデータなんて、須方剣山以下だろッ!」
「聞き捨てなりませんね。彼はゴミ以下の息をして排泄するだけの物体ですよ」
ゲーセン内の休憩所ベンチから聞こえる笑い声は、店内中に響いていた。
さしもの甘利つぐみも気まずそうな視線を向けてくる。
「あなた、いじめられてるの? かわいそう……ぎゅってしてあげようか?」
「いらんお世話だし、あんなの俺に勝負で勝てない僻みだっ!」
「えー、と。強がり負け惜しみ粋がり虚勢意地っ張り?」
「全部ちがう! いいから静かにしとけ!」
店内の時計を鋭く見やれば、時刻は十八時二〇分。まぁ、別段とこれに不自然はない。
しかし今日に限り――サビーヌ杯抽選応募の最終締め切り、四〇分前を示しているのだ。
不安が胸をよぎる。甘利つぐみへ触れる手に脂汗が滲むのがわかる。
「――にしても傑作だよなァ」
ふぁさぁ~っ、と。腹立たしく柳色の長髪を揺らす同学年の男が笑みを重ねる。
下品な顔つき。特徴的過ぎる揉上。もはや醜悪としか言いたくない。
「ま、それはね。正直なところ、僕もここまで上手くいくとは思いませんでしたよ」
くくく、と。似合ってもいない丸眼鏡を押し上げて応じる、茶髪亀頭ヘアーな男。
あれもVスポ専攻であり、同じ獅子堂学院に通っている男だった。
「だがよォ、これで」
「はい。須方剣山のサビーヌ杯欠場は決まったも同然でしょう」
「――――は?」
……いや、ありえない。そんなはずはない。俺は、確実に応募完了メールをこの目で見た。
問題があるとすれば通知が代表者だけに届く仕様で、俺が代表者でないことにある。
サビーヌ杯とは天才美少女中学生プロゲーマーが主催するタッグマッチで、一人だけで出場するなど不可能。しかし抽選応募をした相方があそこの、丸眼鏡をした亀頭なのがよくない。
「サビーヌ杯? なんだか知らないけど出られないの? 大丈夫なの、それ」
傍できょとんとした声に訊ねられ、ようやくすべきことを自覚する。
「おまえは出てくるなよ、ややこしくなるから」
「え? あ、うん。いってらっしゃい」
「ん。あぁ、いってきます」
「よ、よっぽど動揺してるみたいね……」
呆れたような声に見送られながら筐体の影から出ていく。
「おい、おまえら。今の話はどういうことだ?」
「ぁン?」
「はぁ、やはりこの手の話は口にするものではないですね。こうやってボロが出てしまう」
割って入られた二人が見せる反応は二者二様だった。睨みを利かせる、鬱陶しい長髪なクソ揉上――鷺森正義。溜息混じりに丸眼鏡を押し上げる、クソ亀――宝恵和富。
「まったくその通りだな。お得意のデータにちゃんと記録しておけよ、クソ亀がッ!」
吐き捨てながら休憩所へ向かい、俺は奴らと真っ向から対峙する。
「チッ、聞いていやがったか。まァ、今更どうとでもならない話だがなァ」
鷺森が気だるそうに立ち上がり、長く毛深い揉上を逆立てながら威圧してきた。
「ですが、聞いていたのなら聞き返すという行為は如何なものでしょうか。常識的に考えてもそんな間抜けな問いかけをするのはただの馬鹿、と僕のデータにもありますがね」
宝恵も散々煽り散らしてくるが、こちらが状況を把握し切れていないのは事実。
けれど応募時の状況を瞬時に整理してみせれば、おおよその見当はつく。
「言いたいこと言ってくれるじゃねぇの、万年包茎な宝恵先生よぉ」
「これは言い返せないなァ! 宝の持ち、腐れインポ野郎には。ハハハハハッ!!」
「ぼ、僕は黒ギャルでしか勃たないだけッ! いい加減にっ、データに入れたまえ!」
絶滅した存在に恋焦がれるなんて、非生産的にも程があるというものだ。
宝恵が鼻息を荒げて取り乱すところへ、俺は追及をはじめていく。
「思うに。わざわざおまえが俺と組もうと言い出したのも、代表者になって応募完了メールを俺に見せるためだったってことだろ? あれが偽物だったなら辻褄は合うよな? 思い返してみれば見せられたメールの送り主まで確認した覚えがねぇ。んで肝心なのは、俺の〝おまえと組むのは不本意だった〟って言質を取ったとこだろ。ちがうかよ?」
偽装メールが使われたのは間違いないだろう。だが応募直後ものを公式でないと疑う発想は流石に難しい。無論それは言い訳。会話の流れも含めて誘導され、確認を怠った俺が悪い。
「ハハッ、お見事正解正解。いやァ、賢いねェ。カッチョイイねェ、さす剣さす剣!」
「その通り。君に話を持ち掛ける前に、僕はカス森君と組んでいたというわけですよ」
「そーいうことだなァ? 物の試しで重複応募をしてみてよォ、応募完了表示が一度出た後に遅れて重複が指摘されるとを知ったオレは思いついたわけ。文章を丸写しし、お前が応募した直後のコイツに代わりのメールを送るという策をなァッ!」
「僕らは私的な仲ではないですし、お互いが組まないことを望んでいる。嘆いたところでCPから罰則がない時点で合法というわけです。まぁ……少々、意外でしたが」
確かに一度そんなことを言われて生まれた空白の時間が存在している。その隙に画面を切り替え、鷺森からのメールを表示。視線を誘導し、最低限の確認だけをさせたのだろう。
「それより、いいのかァ? もう締め切りまで三〇分切るんだぜェ。こんな時間まで応募すら済ませてないバカは、間抜けのお友達にもいないだろうがねェ?」
「応募には相方と有線接続が必須! 君の惚れ惚れする運動能力ではこのゲーセンからすらも出ることができないかも知れないのでしょうけど……くくくっ」
「それはそう! ハハハハハッ!!」
「そんなに俺と戦って負けるのが怖いかよ、鷺森」
「ぅおいおいっ! 言われてくれるのかァ? オレたちはなァ、お前さえいなければ問題なく勝ち上がれる予定のつもりなんだよォ! お前さえいなければなァッ!!」
「小賢しいんだよ、おまえ」
「ハハハハハッ! 賢くて何が悪い、勝負に勝つのはいつもオレでありたい!」
大仰な態度で鷺森が笑う。しかし、今の俺では何を吼えても負け犬だった。
「……クソ揉上が」
「勝手にオギャってろッ、お前如きこのカッチョイイ揉上だけで倒せるんだからなァ!」
「ぷ、くくくっ。そ、それは僕のデータも下方修正しないといけませんねぇ!」
そう言い残し、余裕たっぷりな表情を浮かべて去っていった。