大地に立て 2
脇目も振らず更衣室へ続く通路を戻り、後は退場するだけの精算区間に辿り着く。
通路の窓からはしゃぐ姿がいくつも見えた。ふと足が止まる。
帰路につく人々が邪魔そうに次々と追い越していく。
帰ろう……そう思って、しかし足は前に進まなかった。すると、
〝それが、本当のこと?〟――誰かが言う。
知ったことかよ! あの目だ、あの目なんだよっ! おまえだって見てただろ、覚えているだろッ!? あいつら……あいつらぁ、あの日の父さんと母さんと同じ目をしてたッ!
〝しょうがないよ。あれが世界、これが現実〟
しょうがないッ!? あぁ、そうさッ! その通りさッ、しょうがないさッ! だから俺は今こうしているんだろ! 今までこうしてきたんだろッ!? それが本当のことなんだよッ、嘘偽りのない俺の……俺自身の生きてきた道だろ? ずっと一人で……独りっきりでッ!
〝他人は何にもならないただの敵で、倒すべき競争相手だものね〟
当たり前だろッ! 敵だ、敵なんだ! 俺に味方なんていない。いないんだよ!
〝作ろうとしたことなんて、一度だってないくせに〟
聞いてきたようなことを言うなッ、それにどうせ……どうせ理解なんてされないッ!
〝強がってみせれば、強くなれるって。本気でそう思うわけなんだ〟
うるさいッ。誰の手も届かないところで得意げになって、全部わかったような気になってるおまえになんて言われたくはない! 子供の言うことが聞ける俺であるものかよッ!
〝不幸にも大人で、しかもそれをやれているつもり? めでたいなぁ〟
変わるしかなかった! 変わらないことがどうしてできるッ、誰にできるッ!
〝変われていると、そう思っているのはきっと世界で自分だけだよ〟
あぁ、そうさッ! 俺の世界にはずっと……ずっとはじめから俺しかいないッ!
〝いかにも思春期が喋る台詞だ。言ってて恥ずかしくないの?〟
恥ずかしがる必要がどこにあるッ、誰も見てなんかいやしないのにッ、何の恥がッ!
〝けど伝えない気持ちをわかって欲しいと思う心は身勝手で、子供だ〟
――ッ。それは……それはそうだろッ!? 言葉や行動なしじゃ伝わらないんだよ! ただ思うだけで都合良く察してくれるのを待つだけなら人に口なんて、心なんていらないっ!
〝あえて言葉にするけど。自分のことを理解して欲しいくせ、他人のことはまるで理解しようとしないのは、誰からも愛されない人間のわかりやすい特徴だ〟
そうなんだろうなァッ! でも俺はッ、今までほんとの意味で誰とも目が合ったことなんてないッ!
俺だって見ようとしたさ! でもこっちが見たからって、相手に見てもらえるわけじゃないッ!
なら俺はひとりでやるさッ、やってきたさッ! ……なのにッ!
〝はははっ。顔色を窺ってただけでしょ? 都合のいい言葉に置き換えて吠えるなよ。だから否定したいってのは別にいいけどさ、それは正しさの証明にはならないよ〟
仕方がなかった! 理由があった! 自分の気持ちとか……考えとか。そ、そういうものの正しさを信じられなければ、もう自分以外を否定することでしかッ! 正しさはッ!
〝……どうして自覚があって認められないんだろうね。まぁー、いいかぁ。どうせ独りきりの世界。死ぬまでそうやって、隣の青い世界を眺めてればいいと思うよ〟
最初からそのつもりだ! 今更……今更、言われたくはないッ!
〝ならほら、帰っちゃえよ。自分の場所に。足を止めないで、さぁ早く!〟
急かされるがままに足を動かそうとする。けれど、足は一歩も前へ進みはしない。
でも、俺は悪くない。俺のせいじゃない……っ! 悪いのは全部っ、全部!
〝ほんとグダグダと言い訳ばかり。特技はゴミみたいな自己正当化と被害者面だねぇ〟
い、言えば何か変わるのかッ!? 保証なんてない! どうせ傷つくだけだッ!
〝そんなこと知らないよ。そういうの、まずは言葉にしてから考えなって。本当は自分だってわかってるんじゃないの? わからないはずがないよね、泳ぎの練習を続けたんだから!〟
見透かしたような物言いに、ふと浮かび上がった微笑のまやかしを振り払った。
静寂が肌を刺す。ただうつむき、待つことしかできない。
〝それが答え。信じたんだ、信じたいんだ……違う? 違わないよね〟
否定もできず、思い出す。先日なにげなく口にした〝歳だけとった大人〟という言葉を。
幼少期の気持ちをずっと抱えて蓋をして、何も変わらず見てくれだけは少し大人びて。
辛いことを何でもないように強がり、大きくなった気になっていた。けど現実の俺は小さいままだった。こいつが言いたいのはそういうこと。わかってる、わかっているんだ……。
俺が今までしてきたことは背伸びのようで、実際はただ膝を抱えてうずくまっていただけに過ぎない。目を背けて逃げていただけに過ぎない。普通に考えればそれも当然のことだ。
中身が何一つ変わっていないのに、いきなり大人になんてなれるはずないのだから。
〝別に悪いことじゃないよ、逃げることも。けど逃げた先にあった運命を、出会いを否定するような遺伝子こそ全てに劣るということをわかるんだよ〟――誰かが言う。
相手をいくら否定しても、断ち切ることなんてできやしないんだよな……きっと。
するとそいつはいきなり踏ん反り返ったような態度になり、口端を吊り上げながら誰か――いや、きっと俺自身が〝やっとか〟とでも言いたげな顔で改まり、咳払いをする。
〝こういう時はあれだね。ナデシコちゃんの真似でもひとつ――〟
やめてくれ、いくら好きでも面と向かってやられるとちょっと……気持ち悪い。
〝えぇーっ、ひっどいー。ぷんぷん! ハートぶち抜いちゃうぞっ! ――どうよ?〟
心の弱さが見せる幻と俺は同時に苦笑を浮かべ、やがてそいつは融けて消えた。
視界が広がり、自然と意識は後ろへと向く。行くべき先は――決まっていた。
*
(――ばかばかばかばか、ばか須方。もう、知らないったら知らないっ!)
プールに一人取り残された私は、自棄気味に五〇メートルプールを往復し続けていた。
(でもやり過ぎちゃったよなぁ、私……)
打算はあったし、市営プールへ来た以上は予想していたこと。彼の心情を察しているつもりでいればなおさらで、胸が少し……痛む。仕方ない、と言うのは身勝手だとわかっている。
私は、私にとって都合のいい彼を求めていただけ。優しくされたいだけの心の弱い人間が、他人に優しく振る舞うのと同じこと。そういう卑しさが私の根にはあるから。
(でもやっぱり、遺伝子は正直なんだなぁ……笑える。笑っちゃうよ)
自分が彼にしたことと、母が私にしてきたこと。そこにどれほどの違いがあるのか。
比べるまでもない。同じに等しい。私利私欲のため、ただ身勝手に心を傷つけただけだ。
(けどああいうのもいるってわかったら、仮面を被って生きるのも嫌になるなぁ……)
世界で定められた共通条例。高校卒業までに処女・童貞を捨てられない者は、処分される。
その絶対的な掟には一つ補足があり、初体験同士で結婚をする義務があるというもの。
従ってこの世全ての女には、幼児期からの貞操帯着用がこれまた義務だ。とはいえ今も私が着用する貞操帯も見た目はハイテクな絆創膏みたいなもので、生活に支障はない。
鍵は両親が分割で管理し、結婚とともに貞操帯を新調。鍵の所有権が夫へと移り、夫もまた生まれてはじめての貞操帯を妻から授かるのが現代の常識だった。
指輪交換と貞操帯交換は結婚式における両親の泣きどころの一つだそうで、私も親戚の式で見たことがあった。指輪だけじゃ愛も貞操も誓えない時代があったことがはじまりらしい。
だから最悪、生きてさえいれば普通は結婚できる。もちろん、好きかどうかは別として。
(もしかしたら、好きになれたかもなのになぁ……どうして出逢ったんだろ、私たち)
ふと泳ぐことさえ億劫に感じて、脱力気味に陸へあがる。
ゴーグルもキャップも外して軽く頭を振り、ため息を一つ吐いた。
(あーぁ……ほんとに死んじゃおっかなぁ。けどなぁ、あの女と同じなんてなぁ)
と――視線を上げた瞬間、そんな虚無感は根こそぎ消し飛んでいく。
「……うそ」
彼がいた。須方剣山の姿がそこにあったのだ。不器用にもこちらへ走ってきていて、しかし私が走った方が早いと思って駆け出す。プールサイドは走るな? 知ったことか。
「ねぇ、須方あなたどうし……ぇ、ちょと待――」
正面衝突した。運動音痴は急には止まれない……いや、転ばなかっただけマシだったのかもしれない。
まったくどっちが牛さんなんだよもうっ! なんてね、ふふふっ。
不思議なくらい穏やかな気持ちで、私は尻餅をついたはず――だった。
「な、ななな、なな…………」
「なんだ胸か」
怪我をしないように庇ってあげたのにも拘わらず、この態度であった。
彼は平然と私の胸に埋めた顔を上げ、不服そうな表情で生意気を言ってみせる。
「触ったのが胸で何が悪――揉むな、ななな……ぅわああああああっ!」
「うわあああああああああッ!?」
直前までの葛藤も何もかも忘れ、感情のまま彼を放り投げた。
須方は石っころみたいに水を切って何度も跳ね、やがて――――どぼんっ、と入水。
「ふふんだっ。それみろ、人間水切りなんて競技があったらもう余裕で全一狙えちゃうんですからね。思い知ったか、私の胸は安く――え……ど、どぼん?」
「あごがうがぐがぼぼっ!」
三〇メートル先で彼はもう溺れかけていた。呼吸の隙を与えないスイングだったらしい。
いやいや足が着くのではとも思うが、運悪く吹っ飛ばした側は水深二メートルという。
「ちょっとあなた、死んだら殺すからねぇええええっ!?」
キャップもゴーグルもかなぐり捨てて、勢い良くプールへ飛び込んだ。
本来ならば遊泳における違反行為。
しかし、電脳アイドル好きが言うところのガーデナーは見逃してくれたらしい。
プールサイドを走れた時点で少なからず予感はあった。
いいや、彼に理不尽な暴力を振るったときから頭の片隅にありはしたのだ。
そう――須方剣山が関わる行為に対してCPの裁定が少し曖昧だという、疑念が。
程なく。間一髪で救出した私は、水揚げされた魚みたいに仰向けになった。
乱れた息を調えつつ、たった今見たままの事実を口にする。
「――はっ、はっ、はっ……ね、ねぇあなた今、一〇メートルくらい泳いでなかった?」
「えほッ、げほッ。や……なんか、俺もちょっとだけそんな気がした」
どうにも不格好ながら奇跡的に泳いでいた……ように見えなくもなかったのだ。
彼も同じことを考えていたらしい。恐る恐るという風に訊ねてくる。
「さ、再現性……あ、あると思うか?」
「再現性って。そんなの危ないから、めっ、でしょ」
言って私は身を起こし、彼に手を差し伸べて立ち上がらせる。
自然と身を寄せ合う姿勢になって、身体の奥が強い熱を帯びていくのがわかった。
「いや、その前から……」
「……その前?」
疑問の答えを思い浮かべるより先、彼は私の背後へサッと回り込んでいく。
「つまり、こう――」
「……ん、んひぁっ!」
淡い声が大衆の面前で大きく跳ねる。揉まれたのだ――尻を。
咄嗟に口元を抑えて睨むが、すぐに緩んでしまっては説得力の欠片もなかった。
寄せては返すような感覚が何度も続き、いじらしく背筋もピンと伸びてしまう。
普段から何を揉んだらこうなるの、天性? ……じゃなくて再現性はどこへっ!?
「きゃああああああっ!?」
「ぎゃああああああっ!?」
反射の回し蹴りが炸裂し、尻男も彼方に飛んでいく。
当然、プールの方へ……あっ。
「な、何をやらせるのよこの、おばかぁああああっ!?」
一応、九死に一生を得たのでよかった。
でも肝心の泳ぎに関しては二度目で普通に体力を消耗していたため、さっきよりも酷い具合に溺れるという揉まれ損だった。




