秋の飯屋と馬鹿者と
天高き秋に肥ゆり始めた私は馬であったし、秋の笛に寄る私は鹿でもあった。即ち私は馬鹿者であった。
「日替わり定食。ご飯は特盛。ポイントが貯まったので小鉢の明太子をお願いします」
住居より徒歩数分の定食屋。去年の秋より週に五度のペースで通い続けている。ポイントカードは最早十周でも効かない。
大学の帰り、夕陽と共に来店する私の存在は店にとっても日常だろう。
注文品が届くまでは何の気なしに、壁に貼られたメニューへ目を通す。変わり映えのしない、いつもと同じ文字列が規則的に並ぶ。
生姜焼き定食、常食。卓上のマヨネーズと辛子を使うとより美味。
唐揚げ定食、甘酢ダレがかかる。タレを別添えで注文すると味に変化がつけられて吉。
豚カツ定食、キャベツお代わり自由。ドレッシングも渡されるが、キャベツにはソースをかけて食べる。
カツ丼、しかしソースカツ丼。私は存在を認めていない。
目玉焼丼、最安値メニュー。半熟が人気だが通は完熟、味付けはマヨが良い。
ラーメン、味薄い。単品餃子を追加してスープに浮かべると化けるが、周囲に引かれる。
日替わり定食、実は本日の焼き魚定食。サバ、アジ、サケ、ブリのどれか。
などなど。およそ未食のメニューは最早存在せず、自らの体調と気分に応じた注文が可能となった私である。ルーチンから今日の日替わりはサバと予想もできる。
などと逡巡するうちに届けられた我が定食は、やはりサバであった。これにはたっぷりと酢をかけると美味いが、卓上に酢の常備はない。隣席にもどこにも酢の姿はなく、それもそのはず。この定食屋の卓上調味料は醤油にソース、マヨネーズと辣油のみである。
「どうぞ、お酢です。小鉢の明太子もお待たせしました」
「ありがとう」
リクエストはしていない。ごく自然に、長年の夫婦のように。一つの目配せが語る言葉は酢。
配膳を担当するのは店の一人娘であり看板娘。くりくりと丸く大きな瞳は幼く、割烹着姿は危うく給食当番を空目するが実際は十七、高校三年だという。
食事の味、量、値段を総合的に考えて通うこの店であるがそれは理由の全てに非らず。彼女の存在が九割は影響していると自覚もある。
かけた酢は焼きサバに熱せられ、微かに音をたてる。過多にも思えるその脂が清められ、大ぶりな身を口に運んだと意識した瞬間には米が口内に移動する。つまりは美味しいということだ。
そして私の意識は、明太子を食の流れにどう取り入れるか、看板娘とどうにかお近付きになれないかの二つに一つであった。
私とこの店の出会いは去年に遡る。
田舎の地元を離れて進学した大学もまた僻地だった。両親の庇護を離れた私にとって初となる一人暮らしはスーパーボールの用に煌めく上によく弾む。
男子厨房に入らずの躾が根強い教育は功を成さず、初めのうちは自炊ばかりをしていた。
しかしそれも長くは続かない。元来の食の細さにものぐさも加われば然もありなん。何よりも、生きる為の食事がここまで不味いものとも思わなかった。楽しむまでもない、栄養とカロリーを摂取するだけの食事を作る苦痛、食べる苦痛、何よりも片付けの苦痛は耐え難い。なんと味気なく不味いものか。
春に始まり夏を越え、秋を迎える頃には外食やコンビニ弁当ばかりの生活に変容し、偏った栄養に踊らされた我が身は痩せ細り不健康この上なかった。荒れた肌は月面のクレーターだったし、少しの運動で根をあげる呼吸は心配である。
そんな最中、新規開拓の外食店を見つけようと足を踏み入れた定食屋。出迎え、案内をしてくれた少女こそは看板娘で、私の心臓はまたも異常な心肺を覚えるのであった。
良心的な値段で量も多く、地元の運動部学生で賑わう店内に当時の私は似つかわしくなかった。普通盛りを食べ切れば翌日の食事が不要になるほど貧弱だったからだ。目当てが食事より看板娘だとしても金は保たないし、胃腸もまた保たない。
金と空腹を得るために私がとった選択は引越しのアルバイトであった。時間当たりの単価も高く、これ以上ないほどの肉体労働で私のニーズと漏れなく一致していた。もやしのような人間である私の労働適正には全く適ってはいなかったが。
大盛りを完食できるようになったのは翌年の秋、つまりは現在。線も細くスキニーな下穿きを身に付けていた私も気付けば筋骨隆々でニッカポッカの漢と相成るのであった。
「ご馳走様でした」
手を合わせ誰に聞かせるでもなく呟いた。
あとは会計を済ませて帰るだけ。それとなく様子を伺い、店員の手が空く機会を待っていると一際大きな声が店に響いた。
「ええ!? 進学先の近くに引越しちゃうのかい!? 看板娘がいなくなるなんて寂しいなぁ」
地元常連との会話、否が応でも耳に入る。いや、むしろ積極的に耳に入れようと私は襟元を正して聞き入り始めた。
「推薦で決まったんですよお。一人暮らしは初めてで緊張してます」
「へーえ。大学でも頑張るんだよ!」
ありがとうございます、と頭を下げる看板娘。
常連が立ち去るのを見届けると、私の身体と口は無意識に動いていた。
「あの」
「お会計ですか?」
顔を上げた彼女の表情は明るい。接客するときによく見る顔だ。しかしその奥に不安が見え隠れするように感じるのは思い込みであろうか。
「引越し屋、探してますか」
「へ?」
「引越し屋でバイトしているんです。紹介も割引も使えるので、よければ。ついでに会計もお願いします」
バイト先の名刺を彼女に渡した。微かに触れた彼女の指先は暖かく、電流が流れたようにも感じてしまう。痺れた、ということだ。どさくさに紛れた会計中も震えを抑えることに必死であった。
そそくさと逃げるように店を後にした私は、始めた彼女も交わした会話を道すがら十数度は反芻していた。ルーチンの営業会話以外に言葉を紡いだことが初めてで、場を逃れて緊張から解放されて安堵もしている。
ああ、不自然な切り出しではなかったか。変なやつと思われてはいないか。本来ならば好いた女子と言葉を交わした事実に心を躍らせ小躍りするほど初心な男である私であるが、現実は非情である。
後悔と反省はアパートまで続き、煎餅のように薄く固い万年床に飛び込んでもなおである。ジタバタと暴れてみても興奮は治りはしない。だがジタバタとするしかない状況。ジタバタは止まらず、私は殺虫剤をかけられた毒虫であった。
ひとしきりのジタバタにも成果はあった。蠢く蟲の動きは運動であり、爽やかな汗を産み出すにも至るようで。なめくじの如く布団から這い出すころには頭は幾分かすっきりとしていた。
這いつくばる目線は低く、埃や食べこぼしに虫の死骸ばかりが目に入る。その中で一際輝くのは我がスマートフォン。メッセージを受信したようで発光しているが、その煌めきはどこか普段以上にも見えた。
「これは、なるほど」
スマートフォンを手に取り、メッセージを数度往復。受信のたびに背筋が伸び、私は人間へと変態する。やり取りを終える頃には人を越えた心持ちで、鬱屈としていた気分は何処へやら。馬鹿者と呼ばれても構いはしない。
明日はアルバイト、きっと勤労日和。いつもの定食屋で大盛りを頼むことだろう。
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《お引越屋のご紹介ありがとうございます! 名刺にアドレスがあったので連絡しちゃいました》
〈連絡ありがとう。知己の仲でもないくせに、不躾な紹介で申し訳なかった〉
《いいええ! 常連さんですし、私はどんな人だか知っているつもりですよ?》
〈認識されていたとは嬉しい限り〉
〈サバ定食にはお酢をたっぷり〉
〈生姜焼き定食にはマヨと辛子〉
〈唐揚げ定食はタレ別添え〉
〈豚カツ定食のキャベツにはソース、カツ丼は食べない〉
〈目玉焼丼は黄身固め、マヨネーズ〉
〈ラーメンには餃子を勝手にトッピング〉
《常連の好みを把握しているとは、プロ意識が高いのだね》
〈全員は無理ですよお。覚えられたのはあなただけです。だってあなたの食べ方は〉
〈全部私と同じだったから〉
《全部?》
〈海老フライの尻尾は?〉
《食べる》
〈カレーのルーの位置は?〉
《奥》
〈アジフライには何をかけますか?〉
《ウスターソース》
〈ほら、全部同じです〉
《そうなのか》
〈そうなんです〉
《証拠がいる。私も君が食事をする姿を見る権利があるのではないか》
〈じゃあ今度、二人でどこかへご飯を食べに行きましょう!〉
《望むところ。差し当たり明日も私の食事を見せつけよう。勿論》
〈大盛ですよね!〉




