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雨を想う君にキク  作者: いしだ
7/12

無償の愛

 土曜日。この日私は彼にメッセージを送った。メッセージアプリのクラスのグループに彼がいたことはこのときはじめて知った。

『今日暇でしょ?』

『何で知ってるのストーカー?』

『大体暇でしょ。東京行かない?』

『あら、またデート?』

『またっていうのが気に食わないけど我慢する。母親を見に行きたくて。』

『わかった。見に行こう。』

 会うとは言い切れない私を理解してくれる彼に感謝した。

 東京と言っても、遺書に書かれた母親の住所は県境付近で、電車で1時間弱揺れると着いた。

「ここら辺のはず。あ…」

 スマホの地図に赤いピンは、よくある団地の上に刺さっていた。

「ここ?団地かぁ。部屋数多いな。」

「B棟って書いてあるからあっちの方かな。」

 おもむろに足を進めたが、建物にBと書いてあり予想は当たった。A棟とB棟の間には遊具が何個か置いてあり、小さな公園となっていた。土曜日という事もあり、ここの住民であろう子供が5、6人遊んでいた。

「長期戦になりそうだから買い出し行ってくるよ。待ってて。」

 彼はそう言い残して来た道を戻って行った。私は公園のベンチに腰かけてBと書かれた建物を眺める。母親はここでどんな生活を送っているのだろうか。再婚して子供もいるかもしれない。もしかしたらこの中に私の弟か妹がいるのだろうか。私のことを、覚えているのだろうか。

幸せに暮らしていてほしいと心の底から言う事は出来そうにない。でも何か罰が当たっていてほしいと心の底から言う事も出来ないみたいだ。

 ぐるぐると母親の姿を想像しているとようやく彼が帰ってきた。

「はい、これ。」

 彼はビニール袋からあんぱんを取り出して私に渡した。

「あんぱん?」

「張り込みと言えばこれって教わったから。」

「知り合いに刑事でもいるの?」

「ははははは。」

 彼は私に紙パックの牛乳をくれた。彼も自分の分のあんぱんとイチゴミルクを取り出して食べ始めた。

「なんで君は牛乳じゃないの?」

「牛乳は苦手なんだ。」

「小学校は給食じゃなかったの?」

「給食だったよ。牛乳は6年間我慢し続けた。」

「かわいそうに。」

 私もあんぱんを食べることにした。

「何歳くらい?」

「私を産んだのが十八歳だから今は三十三歳。」

「若いね。」

「若過ぎるから、こうなったんだよ。」

「なるほどね。」

「君のお母さんはどんな人?」

「んー三歳の時に死んでるから、正直顔はあんまり覚えてない。写真の顔は忘れないけど。でもすごく優しくて、父さんに美味しい料理を作ってたのは何となく覚えてる。」

「そうなんだ。いいね。」

「でも産んでくれてありがとうとは思えないかも。母さんは僕を産む前から病気になってて産んでからどんどん悪化して三年しか一緒にいられなかった。自分が死んでまで僕を産む意味あったのかなって時々考えるよ。子供を産むのって親のエゴなんじゃないかって。その後苦労するのが目に見えているのにどうして産むんだろうね。」

「その気持ちわかるかも。命を粗末にするのって自殺だけじゃないと思う。できちゃったからとか、みんな子供がいるからとか、人間を育てる覚悟がない人が子供を産むのってさ、命を粗末にしてることになるんじゃないかなって。半年間だけ児童養護施設にいて、親のいない子供をたくさん見てきたから、余計に。」

(やっぱり僕たち似てるね)

「これじゃあ少子化は止まらないや。」

 それから私たちは3時間くらいベンチで長話をしたけれど、母親らしき人は見当たらなかった。秋みたいな冬だけど寒いことには変わりなくて、防寒対策はしてきたものの限界だった。まだ17時なのにあたりは暗くなり始めていた。

「帰ろっか。ごめんね、付き合わせて。」

 立ち上がって言うと、上目遣いの彼が言った。

「もういいの?夜までいるのかと。」

「見つける前に死んじゃうよ。」

「そっか。じゃあ夜ご飯食べて帰ろ。いいところ知ってるから。」

 彼は立ち上がり、心の中にファミレスを何件かあげた。

「それなら私も知ってるよ。」

 私たちは来た道を戻りだした。すると遠くから親子二人が歩いてきた。

「あ…」

 私は思わず足を止めた。

(何?)

(母親)

 12年前は派手な格好をしていたけど、少し落ち着いていて露出もほとんどない。それでも昔と全然変わってなくて、記憶のまんまだった。そして隣には12年前の私と同じくらいの歳の男の子がいた。

(どうする?)

 目を合わせる勇気も出なかった。

(逃げたい)

(わかった)

 彼はいきなり私の左腕をつかみ走り出した。私も彼の勢いに身を任せてついていき、そのまま母親とすれ違った。

 チャリン

 どこかで金属音がしたが、気にする余裕もなかった。

「まって!」

 彼が足を止めた。呼び止めたのは後にいる女の人。そうだ、彼は聞こえているんだった。そして多分、この声は…。振りかえると、予想は的中した。母親が息子を置いてこちらに駆けてくる。

「これ、落としましたよ。」

 母親の手の中にはキツネのキーホルダーが付いた鍵があった。

「あ、すみません。ありがとうございます。」

 彼は母親から鍵を受け取る。

「いえ。」

 私は母親の顔をじっと見つめると母親は不思議そうにこちらを見つめ返した。

(ずっと見てくる、何この子?団地に高校生いたっけ?)

「じゃあ。」

 母親は振り返り、息子の方に歩き出した。すると彼が私の背中をポンっと叩いた。

「あの!」

 迷っている間に声が出ていた。息子の方に行かないで欲しかったのかもしれない。母親は振り向いた。

「あの、あの…。」

 どう切り出せばいいのか分からなかった。

「怜です。」

(レイ?どこかで…え?そんなわけ、そんなことあるはずない)

「岩崎…伏見怜です。」

 前の苗字を名乗ったのは12年ぶりだった。

(あの人、私のこと言ったの?信じられない)

「あなたの…。」

「ちょっとまって。要件は何?」

(はやとに聞かれたらどうするの?何考えてるわけ?)

「話をさせてください。」

「わかった。向かいの喫茶店で待ってて。」

 母親は早足で息子のところに戻り、そのまま建物に消えて行った。

「行こう。」

 彼は後ろでつぶやいた。

「よく言った。」

 喫茶店には彼と一緒に入り、別々の席に座った。レトロな雰囲気のお店にお客さんは2、3人しかいない。彼はホイップクリーム付きのアイスココアを頼んだ。私はレモネードにした。10分くらい待って、ようやく母親が現れた。ホットコーヒーを頼んで私の向かいに座ると周りを気にするように口を開く。

「どうしてここが?」

(岩崎さんが教えたって事?)

 私は遺書をテーブルに置いた。

「亡くなったの?」

 私は答えるべきか迷った。それで、答えない方が本音を聞けるんじゃないかと思い、静かに頷いた。せっちゃんには後で謝ろう。

「中を見ても?」

 私はもう一度頷いた。母親は封を開け、読み始めた。途中でコーヒーが来たが気付いていない。読み終えると少し強張っていた。

「あの事故の事、私もよく覚えてる。」

「私は忘れたことありません。」

 母親はコーヒーを一口飲んだ。

「岩崎さんの事は知ってたの。怜を育てるって私のところまで言いに来たから。」

(説教されてうざかったんだよね)

「その後も沢山手紙を送ってきたから、怜の成長を陰ながら見守ってたのよ。」

 見てはないだろ。

「あなたが自殺したって聞いてすごく驚いた。やっぱり血がつながってないと、子供はダメになってしまうって思った。でも生きててよかったわ。」

(胸くそ悪いからね)

「母が理由で自殺しようとしたんじゃないです。あなたとの過去のほうがよっぽど。」

(なにそれ。ほんと嫌味な子。でも我慢)

「そうよね。ごめんなさい。ところで、これからどうするの?」

(一緒に住みたいなんて言い出さないよね?)

「大丈夫です。もう一度家族になりたいなんて思ってませんから。」

(よかった)

「もう高校生なんで、一人で生きていけます。母が残してくれた遺産で大学にも。」

「どれくらいあるの?」

(娘は怜だけだから全額この子に入るのよね?そうしたら私はいくらもらえるんだろう)

「正確にはまだ。」

「私が管理しようか?17のあなたが扱える額じゃないでしょう?」

「大丈夫です。頼れる人がいるので。」

(しぶといな)

「遠慮しなくていいの。家族なんだから。それにね、うち今大変なの。はやとが、あぁあなたの弟ね。はやとが病気になってしまって、手術が必要なの。でもそれを払えるお金が無くて。必ず返すから貸してくれない?あなたに大金は必要ないでしょ?」

(やった。これで借金返せる)

「…なんていう病気ですか?」

「心臓が悪くて移植するの。」

「ドナーはいるんですか?」

「お金が用意できないと探してもらえない。」

「それは…大変ですね。」

「必ず返すから、貸してもらえない?人の命がかかっているの。」

「ごめんなさい。できないです。」

母親の表情が変わった。

「不平等だと思わない?あなたはお金があって命を粗末にするのに、こっちは生きていくお金がないなんて。」

(それでも人間なの?家族を見殺しにする気?)

「私はね、あなたの母親は出来なかったけど、はやとの母親を一生懸命してるの。毎日家事と仕事をして頑張ってるの。それなのになんの罪があるっていうの?はやとにもなんの罪もないのに。」

「私には何か罪があったから捨てたんですか?」

「そうはいってないでしょ?」

(ほんとしつこい)

「怜を捨ててしまったことすごく後悔してる。若かったから仕方ないとはいっても、怜を手放してすごく罪悪感があった。」

 私は失敗作。若かったから仕方がないなんて思ったことはない。

「怜はあの後、人を死なせてしまったわけでしょ?産みの親としてちょっとは責任があるんじゃないかって。」

「ちょっと?」

「うん。だから今度こそちゃんと母親になれるよう頑張ろうって思ったの。はやとには心の綺麗な人間に育ってほしい。」

 遠回しに、いやストレートに侮辱されて腹が立った。

「なれないと思います。心の綺麗な人に育ててもらわないと、そうはならないかと。子供は見えてますよ。親が隠したつもりでも、全部見てますよ。」

(あんなおばさんに育てられたからこうなっちゃったんだ。可哀そうに)

「可哀そうなのはあなたたち親子です。責任転嫁して自分を守って、嘘をついて、嘘を嘘で固めることしか出来ない可哀そうな人ですね。そんな人に育てられるはやとくんはもっと可哀そうです。私の母は、偽りのない無償の愛情を私に教えてくれました。私が可哀そうなのは、あなたから生まれたことだけです。」

 頭に血が上り、気が付くと頬に痛みを感じた。叩かれた。そう理解して私は立ち上がった。

「叩き返しませんよ。人に手をあげるなと母に教わったので。」

「黙って聞いてれば何なの?それが自分を産んだ母親に対する態度?」

「私の母は一人しかいません。」

(あのババアって言いたいの?)

「不孝者ね、自分の弟も皆殺しか。あーあ人殺しって怖い。」

 怒りは私の限界を超えた。その時だった。

ばしゃ

 気がつくと母親はずぶ濡れになっていた。すぐ横に彼がいて、空のグラスを持っていた。

「コーヒーじゃなくてよかったですね。」

 彼はそう言って私の腕を掴み走り出した。そのままお店を飛び出し全力で走った。母親が追いかけてきた訳じゃないけれど全力で走った。彼は人通りの少ない橋の上ででようやく足を止めた。

「よく頑張ったね。」

 私は彼の言葉で糸が切れたように泣いた。泣いて初めて自分が強がっていたことに気が付いた。自分を否定され、せっちゃんを侮辱され、お金のために嘘をつかれた。今まで沢山傷ついてきたが、慣れることはない。

「かっこよかった?」

「うん。叩き返さなかったときは特に。」

「そっか。これでよかった。」

「え?」

「母親に1ミリでも同情して、嫌いになれなかったら、せっちゃんに申し訳ないから。これでやっとせっちゃんの事お母さんって言える。」

(強がりだね)

「なら今すぐ言いに行かないと。」

「いや今すぐじゃなくても。」

「いいじゃん病院デートしようよ。夜景綺麗だよ。」

(僕も病院に用があるの)

「正直にそう言いなよ。わかった。回り道したら通り道だからいいよ。」

「寄り道って言うんだよ。」

 私たちはまた電車に揺られた。母親のことを思い出し私は静かに泣いていた。それを誰にも気付かれたくなくて目を瞑るといつの間にか私は寝てしまった。彼がいたから寝過ごさずに済んだけど。

 病院の廊下を歩いていると、何やら慌ただしく看護師が行き交っていた。私たちを追い抜いた看護師はせっちゃんの病室に入って行く。血の気が引いた。信じたくない、最悪の状況が脳裏をよぎった。私は急いで病室に入ると、3人の看護師と笹塚先生がせっちゃんのベットを囲っていた。

「怜ちゃん!来てたのか!電話でないからてっきり…。」

 廊下から走ってきた前さんは、私の後を追うように病室の光景を目の当たりにした。

「1、2、3…。」

 機械のピーと言う音が響き渡る。

「2月23日20時46分ご臨終です。」

 取り囲んでいた看護師は次々と振り向き、私は彼らの間を進んだ。するとせっちゃんがベットの上で眠っていた。

笹塚先生は私の肩に手を置いた。

「本当に死んだんですか?」

 先生はしばらく黙り込み、小さく「あぁ」と言った。信じられなくて、涙も出なかった。握ったせっちゃんの手は冷たくなっている。

 霊安室に移動する準備をするという理由で私たちは廊下に出された。私はまだ現実を受け止められず、ずっと宙に浮いている感覚になった。鼻水をすする音が背後から聞こえて振り向くと、前さんが静かに泣いていた。腕で目元を抑えていて顔は見えなかった。

 前さんの後ろにいた彼と目が合う。

(君は泣かないの?)

(せっちゃんは本当に死んだの?)

(うん。死んだよ)

(でも、寝ているようにしか見えない)

「怜ちゃん。大丈夫だから。これからのことは任せなさい。」

 会話を遮ってきた前さんはいつものおちゃらけた感じはなかった。

 ドアが開き、中に入っていた人と、大きなベットが廊下に出てきた。ベットの上には恐らくせっちゃんが寝ているが、顔を覆った白い布のせいで本人か分からなかった。

 私たちは地下にある霊安室に案内された。薄暗い照明と真っ白な床と壁、小さく明りが灯るろうそくが、非現実的な空間を演出する。私はゆっくりとせっちゃんに近づき、白い布を取った。さっきとは打って変わり、血の気が無くなり、触れなくても冷たくなっているのが分かった。初めて死体をみて、せっちゃんがもうこの世に存在しなくなったんだとわかった。じわじわ目元が熱くなり、気がつくと水滴が頬を伝った。死が怖くなり、死体に近づきたくないと、せっちゃんの体なのに後ろに下がってしまった自分が嫌になった。私は怖くて思わず部屋を飛び出した。廊下の床に倒れるように座り、震えている右手を左手で押さえた。一度は望んでしまった死がこんなにも恐ろしいものだと思わなかった。

誰かが後ろから近づいてきて私の前に立った。そのまましゃがみこみ両手で私の手を包んだ。段々と手の震えは収まり、私は顔をあげた。

「やっと…やっと言えると思ったのに。」

「うん。」

「お母さんって言おうとしたのに。」

「うん。」

「なんで?なんで今なの?」

 彼に答えられない質問をぶつけていることはわかっていた。

「いつでも、後悔ばかりが残るんだよ。でも君の後悔は愛情になるから。自分を責めなくていい。ただせっちゃんの死を悲しむだけでいい。」

「でもせっちゃんの最期を一緒に過ごせなかった事、謝りたい。」

「謝らなくていい。」

「でもせめて、伝えたかった。ありがとうって言いたかった。」

「うん。それでいい。」

 彼はずっと私の手を握って離さなかった。


 せっちゃんのお通夜と葬式は前さんが手配してくれて、私はただ指示を待つだけの人間になっていた。家の仏壇の前に寝かせられたせっちゃんをじっと見つめる。何も考えることは出来なくなっていた。病気のことを知ったときにある程度覚悟はしていた。それでもある程度に過ぎなかった。死が現実になると、私には受け止められなかった。私は私が思っている以上に強くない。

「怜ちゃん。」

「…はい。」

「もうすぐ親戚の人来るから用意しておいて。」

「…うん。」

 私は自分の部屋に戻り、パジャマから制服に着替えた。せっちゃんが死んだ昨夜、今日に備えて寝ろと言われたけれど、パジャマに着替えても一睡もできなかった。カーテンの隙間から入ってくる無駄に眩しい朝日に嫌気がさす。

 一階に戻ると前さんが見たことのないおばさんと話をしていた。おばさんは私に気がつくと近寄ってきた。

「怜ちゃんだよね?」

 泣いた後なのか、おばさんの目は赤くなっていた。

「えっ。」

「初めまして。お母さんの妹のゆうこです。」

 せっちゃんに妹がいたのは知っていたが会うのは初めてだった。叔母さんは確かにせっちゃんと似ていて懐かしさを覚えた。

「初めまして。」

「こんなことになるまで会えなくてごめんね。実は、怜ちゃんの事知ったの最近なの。姉さん、引き取る前に言ったら反対されるって分かってたから言わなかったみたい。」

 私は何て言ったらいいのかわからず、頷いた。

「葬儀は私と前田さんでやるから安心して。」

「ありがとうございます。」

(この子はどこまで知っているのかな)

 私ははっとして制服のポケットにしまった茶色の封筒を取り出した。

「あの、これ。遺言です。」

「怜ちゃんが持ってたんだ。」

「たまたま見つけたんです。」

「中は読んだの?」

「…はい。」

 叔母さんは前さんと一緒に遺書を読んだ。私への手紙も全部。二人はあの時の彼と同じく涙を流し、私にありがとうと言った。叔母さんは優しく私を抱きしめた。


 葬儀の日は雨が降っていた。せっちゃんには似合わない天気だけど、私の感情には似合っていた。叔母さんと叔母さんの旦那さんが受付をしてくれて、私は遺族の席に前さんといた。お通夜よりも沢山の参列者が来て、見様見真似でお辞儀をした。中にはクラスメイトや学校の職員の姿があった。校長に副校長、教頭。あの時私に牙を向けた前任の顔が頭に浮かんだ。新井先生と由紀と颯は私と目が合うとゆっくりと頷いた。それがどんなメッセージか、三人の心はもう読めないが分かった。そして彼も来てくれた。二人同時にお線香をあげる場で、知らない男性とペアになっていた。

(大丈夫?)

(うん)

(強がりだね)

(うん)

 昨日も聞いた念仏はとっくに聞き飽きていた。

 葬儀が終わり、火葬をして、本当にせっちゃんとさよならをした。辛くて、苦しくて、毎晩思い出しては泣く日々が続いた。それでも周りの大人は泣く暇もなくいろんな手続きをしていて、可哀そうに思えた。

「怜ちゃんちょっといい?」

 葬儀の時から裕子さんはこの家に寝泊まりしていて、遺品の整理に追われていた。私が悲しんでいられるのは裕子さんのお陰なんだと分かっていながらもそれに甘えてしまっている。

 裕子さんは私を食卓に呼び出し、向かい合う形で座った。

「色々考えたんだけど、私、夫とこの家で暮らそうと思うの。」

「えっ。」

「今の家に二人で暮らすには広すぎるって思ってたし、子供3人とも上京しててここの方が近いから何かと都合がいいと思って。」

「私は…。」

「そのことなんだけど、怜ちゃんに決めてほしいの。ここで私たちと暮らすか、一人暮らしをするか怜ちゃんの好きにしてほしい。」

 私は邪魔な存在なのかと傷ついた。

(勘違いさせてるよね)

「勘違いしてほしくないから言うけど、この家で一人で暮らすことは怜ちゃんにとって重荷になるんじゃないかって思うの。親戚とか近所の人との付き合いとか高校生の怜ちゃんに余計な負担をかけたくないし、何よりこの家にいたら…考えちゃうんじゃないかって。姉さんのことも、紫苑ちゃんのことも四六時中忘れられないんじゃないかって。全部忘れろって事じゃなくて、楽しい時は思いっきり楽しんでほしい。後ろめたさを感じずに、何も縛られずに自由に生きてほしい。会って間もないけど、姉さんが怜ちゃんと家族になった理由、なんかわかるの。私も怜ちゃんの事大好きになってたから。」

 裕子さんは泣いていた。泣きながら微笑んでいた。自分に向けられた感情はこれっぽっちも曇っていなかった。きっとすごく考えてくれたんだと感じた。忘れないのと、ずっと考えているのは違うという事なのか。

「いいんですかね。ずっと甘えていて。せっちゃんに引き取られなかったら施設で過ごして大学なんて行けないし、つらい人生を送っていたはずです。私が、そんな…。」

「いいに決まってるでしょ?」

 裕子さんは少し怒っていた。

「もしも姉さんに引き取られなかったらなんて考えてもキリがないでしょ?そんなこと言ったら…。」

(もしも実の母親の子供じゃなかったらってなるじゃん)

「とにかく怜ちゃんはうちの家族なんだから。私は怜ちゃんを幸せにする義務がある。」

「義務?」

「怜ちゃんが長いこと眠っていた時にね、姉さんと会ったの。そこで初めて怜ちゃんの存在を知らされた。実家に帰らせてくれなかったから何かあるとは思ってたけど、驚いたし、隠されていたことに腹が立った。でも話を聞いて姉さんが誇らしく思えたし、嬉しそうに語る姉さんを見て怜ちゃんにすごく感謝した。姉さんは怜ちゃんにすごく似てる。自分の幸せの前に他人の幸せを考えるところが特に。姉さんは後継ぎとか家の問題全部引き受けて、私に好きなように生きろって昔言ってくれたの。姉さんだってやりたいこと沢山あっただろうに、お金がなかったから我慢して全部私にくれた。お陰で私は大学に行けたし留学もできた。でも姉さんはそれでよかったのかなって時々考えるの。姉さんが幸せそうにしているところあんまり見たことなかったから。でも怜ちゃんの話をしている時の姉さんを見て、あまりにも幸せそうだから、怜ちゃんを大切にしないとって思った。それに姉さんに『私が死んだら怜をよろしく』って言われたし。怜ちゃんが自由に生きられるようにっていうのも姉さんの願い。」

「せっちゃんが…。」

「いつでも帰ってきていい。ここはあなたの帰るところだから。でも変に過去に縛られる必要はない。ただそれだけ。」

 真剣な目で語る裕子さんはせっちゃんに似ていて、まるでせっちゃんがしゃべっている様だった。裕子さんは裕子さんに戻り「綺麗なおうち探そー」とスマホを触り始めた。天真爛漫な裕子さんをしっかり者のせっちゃんはすごく可愛がっていたんだと安易に想像できた。私は本当に岩崎家の一員なんだ。


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