雑草に似た君
授業中、スマホを開いた。ホーム画面の青い鳥を押して検索エンジンに『明戸杏奈』と入力する。杏奈のことを見に行って以来、私は彼女のことが気になって、ついに禁断の術に手を出した。2秒でヒットした投稿には私が知っている明戸杏奈のことが書かれていて、同じような投稿は何百件にも達していた。私は謎の緊張感に襲われながら画面をスクロールした。杏奈の家族の事や今いる高校。個人情報保護なんて存在していないと錯覚させるほどに書き込まれていた。そして私は一つの投稿を見て、スクロールしていた手を止めた。
『自殺未遂した奴も明戸杏奈と一緒になっていじめてたけどね』
教科書を読み上げる先生の声も、板書を書き写すシャーペンの音も全部聞こえなくなった。その投稿には何件もコメントが寄せられていて、恐る恐る開いてしまった。
『お前翠蘭?』
『そうだよ』
『明戸ってやつ知ってんの?』
『知ってるよ。クラスメイト』
『マジかよ。やばw』
『川に飛び込んだ奴って岩崎って人?』
『岩崎怜だよ』
『そいつもいじめてたの?』
『この二人が主犯』
続きはまだあったけどこれ以上は見れなかった。私は急いでスマホの電源を切って引き出しにしまった。先生にバレたわけではない。脈が速くなるのを感じて、深呼吸をした。すると後ろから肩をぽんぽんと叩かれて、異常なほどに驚いてしまった。気がつくと、クラスメイトみんなが私を見ていた。
「大丈夫?」
颯が小声で話しかけてきた。どうやら過呼吸になっていたようだ。
「岩崎、どうした?保健室行くか?」
気が動転していた私は、何も答えられなかった。
「俺連れて行きます。」
颯に腕を引っ張られて教室から脱出した。階段の前まで連れられて、ようやく腕が開放された。颯は心配そうな顔で私を見ている。
「大丈夫?」
(やっぱり授業出るの早すぎだろ)
「大丈夫。ひとりで行けるから。」
「保健室までついてくよ。倒れたら大変でしょ。」
私は黙って颯についていくことにした。校舎の一階にある保健室に行くと、「やっぱり来たか」と言いたげな保健の先生が歓迎してくれた。体温は平熱だったけどベットで休ませてもらえた。カーテン越しに動く先生の陰を見つめていると段々眠たくなり、しまいには寝ていた。
チャイムがなって目が覚めても先生は起こしてこなかった。よく言えば配慮、悪く言えば関わりたくないのだろう。いやというほど寝ていた私はこれ以上眠る気も起きず、また恐る恐るスマホを開いた。さっきの投稿をしていた人の名前はunknownで、プロフィール欄には何も書かれていなかった。それでも何となく、千宏がしゃべっているように感じた。
「泣いてんの?」
気がつくとベットを包囲していたカーテンの間から彼の顔面がこちらを覗いていた。
(え…何?)
「いや、それこっちの台詞。いきなり発作起こさないでよビビるから。」
(あ…ごめん)
「冗談だよ。」
(ボケなのにマジになんないでよ)
ただ茫然としていると彼はまたにやりと白い歯を見せびらかした。
「ちょっとサボろうよ?」
いつもの調子の彼をみて段々と私もいつもの調子を取り戻した。
「ごめんこれ以上授業遅れるわけには。」
思ってもないことを言ってることは、彼にはお見通しだ。
「じゃあ課外授業ということで。」
仕方がなく保健室から出て、授業中だというのに隠れる気配もない彼についていくと廊下で担任に出くわした。
「あの…ちょっと早退したいんですけど。保健室の先生いなくて…」
「先生。僕もサボっていいですか?」
『僕も』と言うのは私がサボるみたいで心外だし、私がそれなりの理由を考える努力をしていたのにもかかわらず水の泡にされたことに不満と焦りを感じた。
(サボるのか)
「気を付けて行ってこい。バレるなよ。」
「はーい。」
いつも通りみたいな二人の会話に頭が追いつかなかった。
「え?いいんですか?」
「いいから行こ。」
結局彼に引っ張られる形で脱獄に成功したけど、浮かび上がった疑問は、彼が何か先生の弱みでも握っているという結論で自己解決した。
「どこ行くの?」
手ぶらで出てきた私とは反対にリュックを背負った彼は、遠足に行く小学生に見えた。
スマホで何かを検索しながら歩いている彼は前から歩いてきた人とぶつかりそうになる。大きな駅構内を初めて来たかのようにおろおろ歩く彼は何かを探しているようだった。
「あ、こっちだ。」
彼は9番ホームと書かれた標識を見つけて早足で向かっていく。私も遅れないように彼について行った。
「9番って私の家の方なんだけど。」
「そうなの?なら言ってよ。調べて損した。」
「じゃあどこ行くか教えてよ。」
「サプライズだよ。」
意味不明な彼の言動も慣れたもんだ。
私たちは電車に乗って私の家の最寄り駅で降りた。いつもの帰宅の光景となんら変わらないのになんだか知らない土地に来たような感覚になった。
「もういいでしょ。どこに向かってんの?」
外の寒さに身震いし、駅前にあるカフェで温かいものが飲みたくなった私に、彼はなぜか真剣な眼差しで言った。
「ドーナツだよ。」
「えっ?ドーナツ?」
「最近出来たんだって。行列できるらしいよ。」
ここは駅を出てから有名な神社まで大きな商店街が通っている。観光客向けの飲食店は夏は人で溢れかえっている、が今は閑散としていた。人気のお店は杏奈と何度か行ったことがあるけれど有名なドーナツ屋さんの情報は持っていなかった。
「ドーナツ屋さんに行きたいの?わざわざ学校抜け出して?」
「うん。」
「お昼ごはん食べてないのに?」
「そんなの後ででいいよ。」
(昼じゃなくなるじゃん)
「まぁいいや。なんて店?」
ちょうどサボりたい気分だった私は流れに身を委ねることにした。
「行ってくれるの?」
(ここまで連れて着といてよく言えるね)
「どこにあるの?」
彼はスマホの画面を私に見せた。
「へぇーここにできたんだ。」
「わかるの?」
「地元だからね。」
嫌味たっぷりに返した。たどり着いたドーナツ屋さんはおしゃれなカフェで、平日の昼間なのに若い女の人で溢れていた。ドーナツ以外にもランチメニューがあるせいかと実家が飲食店を経営しているせいで思わず分析してしまった。
「店内満席でして、お待ちいただくかお持ち帰りされるかどちらにしますか?」
(どうすんの?)
(外晴れてるし人混み嫌いだから持ち帰るに1票)
(のった)
「持ち帰ります。」
そこまでして食べたいか?と聴きたかったが彼の熱量に負けた。
「どれにする?」
私はショーケースに並べられたカラフルなドーナツから2つ選び、彼も2つ選ぶと、ちょうど出来立てのクレームブリュレドーナツが並べられた。
((そっちが良かった))
「お会計1209円です。」
ハモってしまった私たちは注文をキャンセルすると迷惑だろうなと同じことを思った。
「すみません。これ2つ追加してもいいですか?」
意外にも彼はすんなりと注文を変更した。
(一人三つは多くない?)
(余裕だよ)
満足げな彼はドーナツの入った箱を受け取ると上機嫌に店を出た。どこで食べようか考えていると彼の提案で近くの海岸へ行くことになった。冬の海風はまぁまぁ冷たかったが途中で買ったコーヒーが体に染み渡って悪くない感覚だった。
「さっきの質問だけど」
石段に腰を下ろしてドーナツを頬張りながら波打つ太平洋を眺める彼は、口の周りにチョコレートがついたまま口を開くが教えてあげないことにした。
「わざとかって事。」
「え?」
(君にタオルと傘貸したこと)
彼のいうさっきは今朝のことだった。
「あ、うん。」
「もちろんわざとだよ。」
「はは、だろうね。」
にやりと笑うところなのに彼はそうしなかった。
「でもどうして?」
「興味があるんだ。君という人間に。」
それが好意でも嫌味でもない無色透明な感情だということは何となくわかった。
「自殺したから?」
「それもあるかな。一度死のうとした人間がまた同じことをするのか興味があるのは否定できない。」
彼が悪趣味なのは知っている。
「でも何というか、自分の為なんだ。君は僕と似ているから。」
彼は右を向いて私の目を見た。
(前にも言ったでしょ)
(そんなに似てる?)
「似てるよ。空っぽで、何もなくて、居ても居なくても気づかれない雑草みたいなところが。」
私を侮辱するその言葉はそっくりそのまま彼を侮辱していた。
「僕もいつかは自殺してたんじゃないかな。障害があるだけで人から避けられて無意味に傷つけられる人生だったから、ほんのちょっとした拍子で簡単に踏み外すことが出来た。それでも今生きてるのは自分の人生を自分で選択したかったからだと思う。自分で本当に人生を終わらせたいって思ったらそうしてた。でも僕が死にたくなるのはいつだって誰かに傷つけられた時なんだ。それってただ殺されてるだけなんじゃないかって思って。自分が誰かに乗っ取られて殺されるだけなんじゃないかって。」
彼はもう冷えたであろうココアを口に入れた。
自殺が他殺だという彼の目は遠くを見ていた。
「嫌いな人に殺されるなんて可哀そうだから僕は生きてあげようと思ったんだ。そのために自分の味方になった。」
「味方?」
「そう。誰も僕を慰めても褒めてもくれないから僕だけは自分を慰めたし、生きていることを褒めた。」
彼は片目を閉じて食べかけのドーナツの穴を覗き込み、また一口かじった。彼は照れ隠しをするようにもぐもぐしながら言った。
「そうやって何とか生きてきたところに君が現れたんだ。」
「私が?」
「うん。高校生になってまた同じクラスになった君はだいぶ心が病んでたよ。」
(聴いてたの?)
(うん)
「中1の時は君の不憫な感じが自分にすごく似ていると思ったけど、また同じクラスになった時の君は心が疲れ果てて僕よりもずっとギリギリを生きてた。そんな君がもう一人の自分に見えたんだ。何もかも諦めて開き直って自分を守る処世術を身につけていなかったら僕もきっとこうだったんじゃないかって。」
「何を諦めたの?」
「誰かに期待したりすることとか、人と関わることかな。」
(確かに人と話してるの見たことない)
「それが出来るか出来ないかが、僕と君の違いだったんだと思う。君は独りになることをひどく拒絶して自分の醜いところを悟られないように必死だったでしょ。」
(私ってなんか惨めだね)
「そんなことない。今ならわかる。君が正しくて僕が間違ってた。」
「これのどこが正解よ。」
彼は悲しそうに笑った。
「僕は独りになって何の波のない人生を送ったよ。でも傷つかない反面、人の優しさに触れることも無かった。」
「波のない人生を求めてたんじゃないの?」
「そうだね。欲深いのかも。求めていたはずの人生になったけど、それはそれで幸せとは言えなくて、じゃあ自分はどうするべきだったのかって考えたんだ。独りにならなかったら君のようになってきっと僕は死んでいた。そうなるならやっぱり独りでいる方がマシなのかもって。そうやって考えてるうちに気づいたんだ。きっと君のように人と関わって傷つく選択をしても、助けてくれる人が一人でもいたら生きていけるんじゃないかって。」
なんとなく彼の言いたい事が分かった。
「それを知るために、僕は君に近づいたんだ。」
彼はなぜか泣いていた。私も連れて泣いた。お互いの人生を肯定するように傷ついた心を癒すように。
「利用してたのかも。」
普段なら嫌な気持ちになるその言葉は今は心地よく感じた。
「ありがとう。」
「えっ」
「意識が戻ってからずっと君に助けられていたから。」
(もしかしたら君と話すためにこんな能力が身についたのかな)
(僕もそう解釈しとくよ)
「もう君に隠さなくていいなら気が楽でいい。全部言えてスッキリしたよ。」
「じゃあ私も隠さずに言うけど口の周りについてるよ。」
(えっいつから)
(一口目から)
(早く言ってよ。最悪じゃん)
彼は焦りながら紙ナプキンで口元を拭った。真面目な話をしても格好つけられない彼の天然さに笑みと涙がこぼれた。彼のことを知れて嬉しかったし、彼の不憫さに同情した。
『助けてくれる人が一人でもいたら生きていけるって』
コーヒーで流しきれなかったドーナツの微かな甘みが彼の言葉を思い出させる。
(じゃあその助けてくれる人に君がなって証明してよ)
スマホの液晶に反射する自分の口元を見るのに必死な彼に私の聲は聴こえていなかった。
「え、雨?」
彼はスマホの真っ黒な画面についた水滴を見て空を見上げた。さっきまで晴れていたはずの空には灰色の雨雲がかかっていた。
「移動しよ。」
彼はドーナツの箱を閉じ、箱とココアを持って立ち上がった。私もすかさず彼に倣って立ち上がると雨がポツポツと顔をつたい、駆け足で石段を上がった。道路に出ると屋根のあるバス停があり、そこで雨宿りすることにした。
「びしょびしょ。」
雨足はどんどん早まり、気づけば土砂降りになっていた。バス停のベンチにカップを置き、ハンカチで濡れた制服を拭いていると彼はバス停の屋根からはみ出した。
「何してんの濡れるよ。」
彼は空を見上げて目を閉じた。
「君もどう?気持ちーよ。」
「風邪ひくよ。」
せっかく心配してあげたのに彼は私を無視する。
「い…き……ない?」
雨で彼の声が掻き消された。
「なに?」
大声で言っても目を閉じている彼には届かなかったが、返答がなくて不思議に思ったのか目を開けた。
(聞こえないんだけど)
(あ、ごめん。良い天気じゃない?)
(え?)
私が雨の日を良い天気と言うことにしているのを彼は知っているのだろうか。たまたま同じ意見なのか、あるいは、
彼はにやりと笑う。
(前に君がいってたの聴いちゃって)
(やっぱり。真似しないでよ)
(いいでしょ別に。それにほら)
彼はバス停の柱の方に目をやった。それが何かを確認するために私も屋根からはみ出した。彼が見ていたそれはガードレール下の花壇に綺麗に植えられた色とりどりの花々だった。丁寧に植えられているのに雨のせいで花びらが取れたり、茎が折れた花ばかり。反対に花壇の周りに生えた背の高い雑草たちは雨に当たっても折れることなく揺れていた。
「これがなに?」
「良い天気だってこと。」
「は?」
「雑草が綺麗に見えるでしょ?」
「綺麗かな。」
「綺麗だよ。逞しく揺れてる。」
「私は草より花が好き。」
「春になったら花を咲かせる雑草もあるよ。」
『似てるよ。空っぽで、何もなくて、居ても居なくても気づかれない…雑草みたいなところが』
また彼の言葉を思い出した。
「そう言えばさっき私の事雑草みたいって言ったでしょ。」
「そうだっけ。」
「悪口だからねそれ。」
「なんでよ。いいじゃんしぶとく生きてるんだから。」
癇に障り続ける彼に呆れて無理やり屋根の中に押し込んだ。ブレザーから滴る雨水を見て自分のハンカチを提供してあげた。
それからしばらく経ってバスに乗り、駅に戻った私たちは解散した。まだ15時なのに一日がもう終わるような気がする。




