心の聲
ガラガラ
ノックも無しに開いたドアから若い看護師が入ってきた。だるそうに肩をグルグル回していたけど私と目が合ったせいで肩は一回半周って、肘を上にあげた状態で止まった。
「えっ。」
看護師は慌てた様子で、私の頭上にあるナースコールを鳴らした。
「いっ岩崎怜ちゃん、目を覚ましました。」
耳元で大声を出さないでほしいけどよっぽど焦っているのだろう。
「自分の名前分かる?」
三秒前に正解を叫んでたくせにと心の中でツッコんだ。
「…い…ぃ…岩崎…怜です。」
久しぶりに声を出したせいか、口の中が乾燥してうまくしゃべれなかった。
「あー焦ったー。こんなことあるんだ。」
「えっ?」
ガラガラ
首を傾げる看護師の背後から白衣を着た医者と年の取った看護師が入ってきた。二人は一瞬、さっきからいる看護師と似たようなリアクションをとったが、流石はベテラン。落ち着いて検査を始めた。
「自分の名前言えますか?」
さっきから名前ばっか聞かれることに戸惑ったが、これは決まり文句なのだろうと17歳ながら察し、幼稚園児のように自分の名前を答えた。
「どうしてここにいるのか覚えてますか?」
私は首を縦に振った。
「川に飛び込みました。」
「そうです。怜さんは3か月近く意識が戻りませんでした。」
今が本当に1月であることに驚いた。
「救助されたのははやかったのですが、脳が損傷していて常に危険な状況にありました。意識が戻ってよかったと言いたいところですが、検査を終えないばかりには何も言うことが出来ません。でも、まぁ本当に良かった。今から診察室に移ってもらいます。」
『本当に良かった』といった時だけ、人間味の無かった無表情の医者に表情が浮かび上がった気がした。医者はそそくさと病室から出て行こうとしたけれど、忘れ物でもしたのかすぐに戻ってきた。
「岩崎さん、一つだけ。今でも自殺願望がありますか?」
医者はまっすぐ私の目を見た。吸い込まれそうな瞳を前に、私は首を思いっきり横に振った。医者は少し笑ったように見えた。
3か月も眠っていたせいで全身の筋肉が弱っていた。私は立ち上がることなく車いすに座り、看護師に連れられていろいろな検査を受けた。白いトンネルのような機械に入ったり、頭にコードのついたヘルメットをかぶったりした。移動も座ってれば看護師さんが運んでくれるのでこんな楽なことはない、ずっと車いすで生活していたいと思ったけど、廊下ですれ違う同年代の子を見ると、さっきの自分を殴りたくなった。命を粗末に扱った私は、病と闘って必死に生きようとする彼らと目を合わせることが出来なかった。長い廊下を車いすで渡っていると、廊下の先に見覚えのある姿があった。せっちゃんだ。
「怜!」
病院だというのに大きな声を出したせっちゃんは急いで駆け寄ってくる。必死なせっちゃんの顔を見て、生きていることを実感した。
近くまで来てせっちゃんは両手に持っていた荷物を床に捨てて、点滴を付けてない方の手をとった。かがんだせっちゃんの目には涙が浮かんでいた。
「怜…よかった…本当に良かった。」
せっちゃんは優しく私を抱きしめて、耳元でつぶやいた。
「いいの…謝らないで。生きてるだけでいいから。」
背中に触れるせっちゃんの手から暖かい何かが伝わって、それは私の目元にまで来た。その熱は段々と温度を上げ、私は涙を流した。
生きてるだけでいい。今の私にはその言葉が一番心強かった。
空気を読んで少し離れたところで待っててくれた看護師さんとせっちゃんと一緒に病室に戻った。検査結果が出るまで時間がかかるとのことで、せっちゃんと二人きりになった。少し時間が経って落ち着いたのか、せっちゃんの顔にじんわり笑顔が出てきた。目の前にせっちゃんがいることに感動して、しばらく私は見つめていた。最初に口を開いたのはせっちゃんだった。
「怜が起きるまでいろんな事思い出した。初めてせっちゃんって呼んでくれたこととか、一緒に料理をしたこととか。後は、初めて会った時の事とか。覚えてる?初めて会った時の事。」
「覚えてるよ。忘れるわけないじゃん。」
忘れるわけない。私は12年前、交通事故にあった後の数ヶ月を児童養護施設で過ごした。施設の子供とは馴染めなくて辛い思いをしていたがある日を境に私宛に荷物が届くようになった。洋服やお菓子、おもちゃなど当時欲しかったものが沢山入っていた。施設の先生に誰から送られてきたのか聞いても、「今度教えるね」と言って答えてはくれなかった。最初は母親から送られてきたと思っていたけど、服の系統などから薄々母親ではないと感じていた。なんとなくから確信に変わったのは、手作りのおはぎが届いた時だった。粒あんの甘さが私好みで美味しくて、美味しくて、食べれば食べるほど涙がこぼれた。実の母親はあんこが大嫌いだった。どれだけ時間が経っても親に捨てられた実感が湧かなかった。でもこの時初めて実感した。ここでずっと独りで生きていく、親には多分もう会えない。この日はおはぎ以外何も食べられなかった。
そしてある日、施設の庭で新品の絵本を読んでいた時だった。自分より少しだけ年上の男子二人組が本を貸せと言ってきたので無視すると、それに腹を立てたのか力尽くで本をとろうとしてきた。私がそれに抵抗すると本のページが何ページか破けてしまった。二人はこれじゃあ読めないとその場から逃げるように去っていった。取り残された私は、破れたページと本を両手に持って座った。悔しくて、ムカついて一人で声を出さずに泣いると本がまた私の両手から無くなった。私はとっさに本を目で追うと、隣に知らないおばさんが座っていた。おばさんはセロハンテープで破れたページをくっつけた。魔法のようにみるみる本がまた一冊の本になった。
「これでもと通り。はい、どうぞ。」
おばさんは私に本を返してくれた。本はちゃんと本に戻ったがやっぱり不格好で、私の悔しさはまだちょっと残っていた。
「これも貼ろっか。」
おばさんは鞄からシールを取り出して「どれがいい?」と聞いてきたので、私は紫色の花びらのシールを指さした。するとおばさんはそのシールをセロハンテープの上に貼った。それを繰り返し、二匹のリスが主人公の絵本は花びらでいっぱいになった。
「おばさん、双葉の人?」
双葉というのは双葉の家のことで、この施設の名前であった。
「ううん違うよ。」
「じゃあおはぎの人?」
おばさんは驚きながら笑った。
「あれ美味しかった?」
私が首を縦に振るとおばさんはまたにこりと笑って立ち上がった。
「また来るね。」
「また会えるの?」
「怜ちゃんは会ってくれる?」
「いいよ。」
「そっか。ならまた会いにくるね。」
おばさんは「バイバイ」と手を振って立ち去った。その姿が母親が出て行った時と重なりお花の絵本を強く抱きしめた。
おばさんとはまたすぐに会えた。先生に呼ばれて応接室に入ると園長とおばさんがいた。おばさんは目が合うとまたにこりと優しく微笑んだ。 椅子に座ると園長が話し始めた。
「怜ちゃん、こちら岩崎節子さんという方です。」
「また会えたね。」
おばさんはにっこりと笑った。
「怜ちゃん、いきなりでびっくりすると思うんだけど、これからは岩崎さんが怜ちゃんのお母さんだよ。」
「お…お母さん?」
意味が分からなかった。私のお母さんは一人しかいない。そう思った。
「お母さんじゃなくていいの。」
園長と私の会話におばさんが口をはさんだ。
「いきなりお母さんだなんて戸惑うよね。ごめんなさい。でもね、怜ちゃんと家族になりたいの。少しずつでいいから。もしよかったらおばちゃんと一緒に暮らさない?」
これがせっちゃんとの出会いだった。
「でもどうして私を養子にしようって思ったの?もっと明るい子とか愛嬌のある子とか沢山いたのに。」
「そうね…なんでだろう。前に娘がなくなったって話したでしょ?怜のお姉ちゃん。」
「うん。」
せっちゃんにはもともと娘さんがいて、私が岩崎家に来る何年も前に病気で亡くなったという話を養子になったすぐ後に教えてもらったことがある。もちろん会ったことはないけれど、家の仏壇に写真が飾られていて、美人な人だというのは知っている。確か名前が紫苑さんと言っていた気がする。
「紫苑が病気で亡くなって、孫もいたんだけど離婚した前の夫に引き取られたの。それで一人ぼっちで生活してるときに、双葉の園長先生から里親にならないかって提案されたの。」
「園長が?」
せっちゃんは優しく頷いた。
「園長先生とは古くから仲が良かったの。でもまあ私も若くなかったから断ろうと思ったんだけど、怜を双葉で見かけたときに、なんでかね、家族になりたいって思った。」
せっちゃんは嬉しそうに、でもどこか寂しそうに思い出話をした。
「私、怜が幸せになれるように、苦労しないようにと思ってたくさん勉強させて、エスカレーターで大学まで上がれる翠蘭に行かせたけど、反対のことしてたんだよね。ごめんなさい。」
「無理して受験した訳じゃないよ。私も本当に行きたかったからせっちゃんは悪くない。」
せっちゃんは泣きながら言った。
「そっか…でも…もう行かなくていいよ。怜をこんなに傷つけて、まともな学校じゃない。」
まともな学校。そんなものが存在するのかと疑問に思った。
愛想のない私は小学校のときから常にみんなから嫌われていたし、親がいないことでいじめの対象になることも沢山あった。
小5の時に親を呼び出すほどの事件を起こしたことがある。「お前の親なんでそんな老けてんの?」といった調子で何人かの男子にせっちゃんのことを馬鹿にされた。それに我慢できなかった私は彼らを突き飛ばて怪我をさせ、せっちゃんと彼らの親が学校に呼ばれた。
その時だって学校が私の味方をしてくれることはなかった。口では何度も助けになるとか、相談に乗るとか言っていた教師だって、結局は赤の他人。自分の立場を犠牲にするほど加担してはくれなかった。結局その件は見ていた生徒、というのも颯がちゃんと話してくれて、私が一方的に突き飛ばしたわけではなく、彼らにも非があったと分かって丸く収まった。そしてこの時私は悟った。学校は優しくない。いや、学校だけじゃないのかも、と。その時抱いた教師への、大人への不信感は時が経つにつれて確信的なものとなった。大人は誰も信じてくれない。所詮みんな自分が一番かわいいのだと。
でも一人だけ信じられる大人がいる。せっちゃんだ。せっちゃんはいつだって私の味方でいてくれた。その事件の後も何度かいじめみたいなものがあってせっちゃんは我慢しようとしていた私のために転校させてくれた。せっちゃんが自分のために行動してくれることはすごく嬉しかったけれど、その行動が正しいのかはよく分からなかった。現に、転校先でもさほど現状は変わらなくて、中学受験に合格するまで、いじめはあった。
せっちゃんの口から出た二度目の「転校しよう」という台詞に複雑な感情を抱き、曖昧な返事をしてしまった。
「そういえばこれ。」
せっちゃんは忘れてたと言いながら鞄の中をガサゴソして取り出したのは私のものではない金メダルだった。
「颯君心配してたから、怜からこれ渡してあげて。病院のごみ箱に捨ててあったの。」
ごみと間違えて捨てる人間がいるのかと思ったが、少し欠けたメダルを見て、間違えた訳ではないとわかった。
「あと、お礼もしてね。颯君が川に飛び込んでなかったら、助かってなかったかもしれないって先生が。」
「どういうこと?」
「やっぱり覚えてないよね。怜が飛び込んだ時、近くに颯君がいたらしいの。それで救急車が来るまでに引き上げてくれたんだって。救急車が来たのもすごく早かったらしいから颯君が呼んでくれたのかな。」
不幸中の幸いなのだろうか、近くに全国優勝の水泳選手がいたなんて偶然だったのだろうか。偶然とか奇跡とかいう言葉が好きではない私は、あまり考えないことにした。
せっちゃんが着替えを取ってくると言って病室を出て行ったあと、ノックもせずに勢いよくドアが開いた。びっくりしてそちらを見ると、馴染みのある顔があった。
「まじかよ…。」
颯はまっすぐ私に近づいてそのまま抱き着いた。振り払おうとしたが、か弱くなった私の腕はそれを振りほどく程の力を兼ねていなかった。
颯は耳元で「よかった」を連呼した。
「なんでこんなことしたんだよ。」
巻き付いた腕から解放されると、颯はいつもとは違う真剣で少し怒った顔になった。せっちゃんは聞いてこなかったけど颯はストレートに聞いてきた。言ったら余計怒りそうだから言葉にはしなかったけれど、いつもおちゃらけている颯と真面目な話をしたことなんてなかったから新鮮だった。
「追い詰められてたのかな、精神的に。」
颯は聞いておきながら答えたことに少し驚いていた。
「何があったか全部聞いたよ。でも…だからって死のうとすることないじゃん。なんでそんなことできんだよ。」
颯の説教しつつも、羨ましがっているような言い方に違和感を覚えた。
「死ぬって選択、怜の中から消してよ。危なっかしいんだよ。」
「そりゃあ颯には理解できないでしょ。生きてることが苦しいことなんてないでしょ。」
「あるよ。」
颯はボソッと呟いて俯いてしまった。こんなにも元気がない颯は本当に久しぶりだった。昔は泣き虫で大人しかった颯はいつからか、みんなに羨ましがられる日向の存在になっていた。水泳の才能と努力をする才能がきっと彼を変えたのだろう。私よりも小さかった背はぐんぐんと伸び、気づけば180センチ近い。
しばらく経っても颯が話す様子はなかったので、私が口を開くことにした。
「これ。せっちゃんが。」
私は布団の中に隠し持っていた金メダルを持ち主の頭の前に出した。持ち主は顔を上げて金色に輝くメダルを直視した。顔の前でグルグルと回転したメダルはだんだんと回転の速度を落とし、ピタリと止まった。欠けているのが私にもよく見えた。
「捨てちゃダメでしょ。」
「あげる。もともとそうするつもりだったし。」
「いやもらえないでしょ。お母さん悲しむよ?」
「欠けてる方が悲しむから。」
確かにと納得してしまったが、受け取るわけにもいかず、無理やり押し付けた。
「欲しいと思ってももらえない人の事考えなよ。」
颯は折れてそれをポケットに突っ込んだ。
「怜にあげるために頑張ったのに。」
颯は捨てセリフのように吐いてから「顔見れてよかった。また来るね。」といつものおちゃらけた笑顔で言って病室から出て行った。
検査は問題なく一週間ほどで退院できることになった。自殺未遂したのが嘘みたいに痛むところはどこもなかったし、本当は夢でしたなんてオチなんじゃないかと考えてしまうほどだったけど、夢オチも虚しく尋問に来た警察や記者によってその事実が消えることはなかった。
せっちゃんや颯がいないときは特にすることが無かった。携帯を返してもらえなかったのでゲームもできなかった。意識が戻って3日が経った今日は、暇つぶしに病院内を探検することにした。散歩や陽を浴びることはお医者さんからも進んでするよう言われてたので、暇つぶしというよりはリハビリなのかもしれない。
病院の屋上には誰もいなかった。東棟の屋上は綺麗に整備されてベンチまで置いてあるのに、ここ西棟は開放されてはいるものの廃墟のように廃れていた。それでも人がいないこっちのほうが私は好きだった。景色も東棟より断然いい。私は柵に手をかけ屋上から地面を覗き込んだ。しばらく見ていると遠くにあるはずの地面はだんだん近づいてくるように感じ、吸い込まれそうになって怖くなった。高いところは苦手だ。
何で死のうとしたんだろう。自分で自分に問いかけた。今は抱く死への恐怖はあの時は麻痺していた。杏奈や教師への恨み、いじめてきた人への罪悪感、自己嫌悪。そういうのが積もり積もって爆発したと言われればそうなのかもしれない。でも何かが引っかかった。そもそもなぜ私はあの状況に陥ったのか。カンニングペーパーを見つけた時も、調理室の時も似たような状況は今まで何度もあった。杏奈は自分への忠誠を確かめる抜き打ちテストの様に何度か私を試していた。その度に私は杏奈が求める答えを導き出し、踏み絵を土足で踏んできた。杏奈を裏切る勇気なんて1ミリもなかったからだ。そんな私がこうなったのは、きっと始まりは…。
ぐるぐると記憶を掘り起こし、出てきたのは耳の聞こえない彼の顔だった。教室で彼と目が合った時、自分で自分の行動を恥じた。きっと別の人だったら、うまくかわして私は傍観者になったはず。でも彼がどんな人間か知らないから、何も言わないから、自分と同じ匂いを感じたから、無意識に自分を当てはめていた。自分に見つめられている感覚に近かった。だからあんな行動を起こしてしまったのだろう。よかったのかよくなかったのか、未だにわからない。でもあれは私なりの勇気だったのかもしれない。
私は久しぶりの日光にめまいがし、屋上の床に寝転んだ。まだお昼だから1月でもそんなに寒くなかったけれどビュウッと風が吹いて私は身震いする。
カランコロンと金属製の何かが転がる音がした。思わず起き上がってみてみると、屋上の入り口の上にさらに屋上があり、そこに誰かが横になっていた。服が私と一緒だったからおそらくここの患者だろう。屋上の床にはサイダーの缶が落ちている。缶はシュワシュワと泡を吹いて床に小さなシミをつくった。まだ中身が残っていたのかシミはどんどん広がっていく。私はそれを止めるべく入り口の方へ駆けた。横になった缶を立てるとサイダーは1割ほどしか残っていなかった。「あーあ」と言いながら上を見上げたけれど、患者は寝たまま動かなかった。
サイダーの事を知らせてあげようと思い、警戒しつつ、慎重にはしごを登った。登り切って患者を見た途端、私は屋上に落ちそうになった。久々に激しい運動をしたからでも、立ち眩みでも、景色がさっきよりもきれいだったからでもない。目の前に寝ている人間が、補聴器を付けたクラスメイトだったからだ。 視線を感じたのか、彼はまぶしさに耐えながら目を開けると、大きなあくびをしてこっちを見た。
「何?」
不機嫌そうに、不思議そうに彼が言った。
「何で?」
「何が?」
「何でここにいるの?」
「いやそれこっちの台詞。」
「私は…いろいろあって。」
「川に飛び込んだんでしょ。知ってるよ。でも僕が聞いたのはそういうことじゃなくて、何で屋上にいるの?」
「何でって…サイダー!落としたよ。」
彼はびっくりして目をこすったが、サイダーを落としたことへの驚きではなかった。
「声…待って…僕の声聞こえるの?」
「…はい?」
意味の分からない質問に耳を疑った。
「だから僕の声が聞こえるの?」
「うん。」
彼は一応聴覚障害があるから自分の声が聞き取りづらいのだと理解した。でも聞き取りづらいのなら自分の声以前に私の声の方が聞こえないのでは。
「どういう意味?てか、あなたが私の声聞こえてる方がよっぽど不思議なんですけど。」
「だって僕、声出してないよ。」
「は?」
固まった。
「声出してないのに何で聞こえんの?」
何も言い返すことが出来なかったのは彼の口が全く動いていなかったからだ。
(君にも聞こえるんだな。心の聲)
「心の聲?」
(うん。君が聞いてるのは僕の心の聲)
「…えっ?…って君もってことはあなたも?」
(うん。なんかしゃべってみなよ。)
(〇〇〇〇〇)
(どうやって?って聞こえた。)
どうすればいいのかよく分からなかった。心で話す感覚なんてわからない。
(僕の名前知ってる?)
知ってる。深山慎樹。
(せーかい。あんまり喋ったことないのによくわかったね。みんなフカヤマとか言うのに)
「私の名前は?」
(知ってるよ。有名人だもん。岩崎怜)
「怖いよ。」
彼と会話が出来ていることに恐怖を感じた。あまりにも非現実的過ぎて理解が追い付かなかった。起き上がり胡坐をかく彼と視線を合わせるために私はしゃがんだ。
「腹話術とかじゃなくて?」
(だったら人形でも持ち歩いてるよ)
やっぱり、口が動いていない。
(私どうしちゃったんだろ)
(頭でも打ったんじゃない?俺はそうだった)
(心当たりはあるけど)
川に飛び込んだ時流血するほど頭を打ったと聞いていたからか、納得する自分とそんなことあるわけないと否定する自分がいた。私は現実なのか夢なのか分からない現実を受け止めきれずにいた。
人の目を見るとその人の聲が聴こえてくる。でも中には聴こえない人もいると彼は親切に説明してくれたが、私は茫然と聞き流していた。
「いつから?」
(何が?)
(聲が聴こえるようになったの)
(小6の時にジャングルジムから落ちて頭ぶつけた時からかな)
(聞こえなくなったのは?)
しまったと思った。心の聲は相手への配慮が出来ない。聴くべきではなかったと反省したが、制御が出来ないんだから仕方がない。彼は私が戸惑ってるのを見てにやりと笑った。
(直球だね)
「ごめん。」
(知ってるでしょ?君は)
「え?」
「耳が聞こえること。」
彼は右耳にかかった髪の毛をかきあげ、隠れていた補聴器を露にした。言葉の意味を考えて、まさかと思った。
「僕が知らないとでも思った?まぁそうだよね。こんな特殊能力があるなんて誰も思わないか。」
あぁそうか。彼は私の心を読んだんだ。彼を前に誰も秘密を持つことはできない。
(耳が聞こえないのは生まれつき。左は完全に飾り物、右耳は君が知っている通りちょっとだけ聞こえる。心の聲は両方から)
彼は右耳から補聴器を取り外し私に見せた。彼の手の上にのった補聴器はそら豆に芽が生えた形をしていた。
(左はつけても意味ないから右だけ)
(そら豆みたい)
(聴こえてるよ)
(あ…いや、ごめん)
彼はまた不気味な笑顔を浮かべた。
(でもどうして聞こえること隠してるの?)
(隠してるつもりはないんだけどね。みんなが勘違いしてるだけ)
(言えば友達出来るのに)
あ、また言ってしまった。
(ひどいなぁ。友達いないの気にしてるのに)
彼はからかっている。
(気にしてないでしょ)
(それ、この前教室であったときにも考えてたでしょ)
(やっぱその話するよね)
(したくてしてるわけじゃないけど思っちゃったから仕方ない。あの時俺に見られて最悪って思ったでしょ)
(勝手に読まないでくれる?)
(勝手に読むよ。特技で趣味だから)
(変態だね)
(アイデンティティだよ)
(君が言うと犯罪の匂いがするよ)
(捕まらないよ。完全犯罪だから)
私は思わず噴き出した。小さく笑っていた。彼もつられて小さく笑った。この感覚久しぶりだ。
(でもさ、心の聲が聞こえるのって…なんか悲しいよね)
(便利な時もあるよ。顔色うかがう必要も無いし)
(まあ…確かに)
彼と話してどれほど経ったのだろう。気がついたら日が沈みかけていて慌てて病室に戻った。傍から見たら、私たちは誰もいない屋上で見つめ合っていただけだけど、初めて話したとは思えないほど心を開いてしまった。いや、開いたというよりは、見透かせれた気分だ。
病室のベットから西棟の屋上が見える。彼は耳の定期検診で検査入院中って言っていたけど耳鼻科はどっちの棟なんだろう。そんなことを考えながら明日も彼に会うことに決めた。
今日は朝から雨が降っていて屋上が開放されることはなかった。一応行ってみたけれど彼の姿はなかった。約束したわけでもないし、いつまでここにいるかを聞いていたわけでもないので彼はもう退院したのではないかと思いロビーに行った。
「深山慎樹君の病室はどこですか?」
受付の看護師さんに尋ねると「ちょっと待ってね」と言われ、その通りにしたが、なかなか戻ってこなくて退屈していると誰かに肩を叩かれた。
(僕になんか用?)
(あ、まだいたんだ)
(いちゃ悪い?)
(また会えてよかった)
(僕たち友達だっけ?)
(うーん、友達ではないね。なんていうんだろう)
(似た者同かな。特殊能力を持った)
(なるほどね)
ふと彼の手に週刊誌が握られていることに気がついた。
(それ何?)
(君が一番知りたがってること)
私は彼から週刊誌を受け取り、ロビーにたくさん並べられたベンチの一つに座った。彼も私に続いて隣に座った。週刊誌をパラパラめくると見開き一ページに私の自殺未遂に関することが載っていた。名前は出ていないけれど明らかに私のことだ。見出しには『名門高校で一体何が⁉母子家庭の生徒を自殺に追い込んだ学校の実態』とある。私は夢中で細かい文字を読んだ。記事によると、私が意識を失っていた間に担任と学校幹部はクビになったらしい。
(杏奈が退学になったってほんと?)
(あくまで一身上の都合で転校って事になってるけど、みんな退学になったって知ってるよ)
(そうなんだ)
(よかったじゃん)
(よかったのかな)
自分の感情さえ自分で分からなかった。
(君も転校するの?)
(多分。するんじゃないかな。せっちゃん新しいところ探してくれてるし。医者も警察もそうしろって)
(自分は?)
(え?)
(自分ではどう思ってんの?周りの意見じゃなくて君の意見を聴いてるんだけど)
気だるそうな彼は少し怒っているように見えた。
(君が先生たちに歯向かおうとした時、すごく生き生きして見えた。いつも周りに合わせていた君が君らしくなった気がしたんだけど。もう前の君に戻ったの?)
何も言い返す言葉が見当たらなかった。
(私らしい…か。)
(心で思ってること出しちゃえばいいじゃん。まあそれが出来たら苦労しないんだろうけど)
彼はまた気だるそうな彼に戻った。
(無理だよ、一生。君には嫌でも駄々洩れだけど)
(せっかくだから捌け口になってもいいよ)
(捌けてはないけどね)
彼はふっとと笑った。私も笑っていたかもしれない。
(ていうか、え?会議室にいたの?)
彼があの会議室にいたかのように話すから不思議に思った。
(いや、廊下にいた)
(聞いてたの?)
(右耳をドアに押し当ててた)
(何のために?)
(気になったから)
(何それ。そうだ、あの時もじゃん。佐野さんと行った喫茶店)
(あれは偶々だから。無罪無罪)
(怪しすぎ。何が目的?)
(いや待って。弁明させて。俺はただ教室で君とばったり会って、秘密を知っちゃったから気になってただけだよ。喫茶店はほんと偶々)
(調理室の外にもいたよね?)
(あーあれはわざと。追い詰められた君が何をするのか気になっちゃって)
(趣味悪っ。やめた方がいいよ)
彼は無罪放免になって安心していたが、普通にアウトだと思った。まぁ何の罪かはわからないけど。それから私は記事を読み返した。彼はじっと読むのを待っていたけれど、退屈したのか、また私の肩を叩いた。
(検査あるからもう行くね)
彼は立ち上がって西棟のほうへ消えて行った。彼なりの配慮なのかは定かではないけれど、一人で考える時間をありがたく受け取って、私はしばらくそのまま瞑想していた。でも流石は大学病院。行き交う人が多く、騒がしすぎるからすぐに病室に戻ることにした。
昼食を済ませても、雨はまだ止んでいなかった。一人部屋ということもあり、何をしようとある程度は自由だけど、テレビもなくスマホも返してもらってない私にすることなんてなかった。 カーテンを開けてどしゃぶりの中に人影を探した。私の部屋からは西棟と、東棟との間にある中庭を見下ろすことができる。しかしそこにいる人と言えば、棟の間をダッシュする若手そうな看護師くらいだ。私は窓の外を眺めながら、近くに置いてあったパイプ椅子の座り、胡坐ををかいた。目の前に大雨の世界を見ながら懐かしい記憶を思い出した。
「よく似合ってる。」
翠蘭の制服はOBの有名デザイナーがデザインしたもので、茶色のブレザーに深緑の無地のスカート。スカートはひだが無く、しわになりにくい生地だ。ブレザーはトレンチコートでよく見る右胸に縫い付けられたガンパッチが特徴的で、首元には紐状のこげ茶色のリボンが結んである。
せっちゃんはリボンを結びなおしてくれた。その眼は少し潤んでいる。
「ありがとう。」
小学6年生で転校をした私は、学校に馴染めず、彼らと同じ中学に進学することに絶望感を抱いていた。そんな私を見かねてくれたのか、せっちゃんは翠蘭への受験を進めてくれて、塾に通わせてくれた。実の母親は私に何も買ってくれなかった。保育園も幼稚園も行かせてくれなかった。自分はブランド物をたくさん買うのに、私は何かをねだると怒られ、「金のかかる子は嫌いだ」と言われ続けた。だから、せっちゃんが何かをくれるとき、いつも不安な気持ちになる。受験を前に塾の費用や、学費の金額を見て、こんなに甘えていいのかと後ろめたい気持ちになったことをよく覚えている。でも私はどうしても翠蘭に行きたかった。都会の中心部にあり、きれいな校舎に可愛い制服、12歳の女の子が惹かれる要素としては充分すぎた。
「準備できたー?おっ怜ちゃん似合ってるね。もうすっかりお嬢さんだ。」
階段の前で話をしていた私たちのところに前さんが玄関からやって来た。
「本当に。すごく似合ってる。」
せっちゃんはついに泣いてしまった。
「節子さん、早すぎますって。入学式始まってもないのに。」
前さんは私に微笑んだ。二人を見て本当に合格してよかったのだと実感した。あの時の笑顔はよく覚えている。泣きながら笑うせっちゃんは私の幸せだけを願ってくれた。だから中学生になったときから私はせっちゃんに甘えてしまった。周りが裕福な子ばかりで、その中でも一番と言っていいほどのお嬢様の近くにいたから、ついついいろんなものが欲しくなった。せっちゃんは私が仲間外れにされないようにと、何でも買ってくれたから詐欺師のような気持ちになった。本当の友達だったら何かを持ってないと仲間外れにするなんてことはしないのに。「金のかかる子は嫌い」そんな母親の言葉が間違っていると信じたかったから、私はせっちゃんにねだったのかもしれない。でも気付いていた。せっちゃんが新しい服を買っていないこと、毎晩電卓を叩いて悩んでいること。うちにそんな余裕はないということを。気付いてからはねだるのをやめた。でも杏奈に仲間外れにされることはなかった。本当の友達だからってわけじゃない。買えるお金はあるけどいらないという考えなんだと周りが勝手に勘違いをしたからだ。自分でも思わぬ収穫だった。私はあの時、せっちゃんにねだったことを後悔している。せっちゃんの良心を利用してしまったから。そしてせっちゃんを悩ませることはもう絶対しないと誓った。でも3か月前に私がした行為はどうだろうか?昔の自分への誓いを破ったのではないだろうか?自分を責めなくていいと大人に言われても、申し訳ない気持ちが消えることはなかった。私はずっとせっちゃんに恩返しをすることを目標にしていた。部活に入らなかったのも、中学受験の後に塾に行かなくてもいい成績をとれると見せるためだ。なのに私はまたせっちゃんに迷惑をかけるのか。そんなことを考えながら外の景色を眺めていると、だんだん小腹がすいてきて、せっちゃんが差し入れしてくれたおはぎを食べることにした。12年前と何も変わらない味だった。そして私は決心した。自分で決めた。
お店は夕方には閉まるので、夜になるとせっちゃんは着替えを持ってきてくれる。一回にまとめて持ってくればいいのに、毎日会いたいと、1日分しか着替えを持ってきてくれない。今日もいつもと同じ時間にせっちゃんが病室のドアを開けた。
「遅くなってごめんね。着替え持ってきたから。」
「いつもと一緒だよ。ありがと。」
せっちゃんはそうだっけとおどけて今日着た服が入ってる籠を持ち上げた。中身を持ってきた服と入れ替え、元の位置に戻した。
「あのさ、」
せっちゃんは「どうかした?」と優しく返しながら引き出しに差し入れを詰め始めた。
「私、学校に行くよ。」
「そう。」
せっちゃんは嬉しそうだ。
「翠蘭に行く。」
せっちゃんはピタリと手を止め、ベット横のパイプ椅子に腰かけた。
「どうして?」
「どこに行っても一緒だと思うの。転校してもいじめられない保証なんて無いし。」
「あの学校よりはいいんじゃない?」
「そうかな。私は一緒だと思う。小学校もそうだったし、きっと社会に出ても嫌なこと言ってくる人はいっぱいいるよ。」
「でも…。」
「だから私は周りがこうだからとかじゃなくて、自分のために今の学校に行きたい。」
「自分のため?」
「うん。苦手な勉強頑張ってやっと入れた学校、私は辞めたくない。まあ、あんな教師がいるってわかってたら入りたいと思わなかったと思うけど、今はもうみんな辞めていったし。」
「…みんな辞めたことどうして知ってるの?」
「あっ、ごめん。ロビーの雑誌読んじゃったの。もう事情徴収とか終わったからいいと思って。」
「そっか…じゃあもう携帯も返さなきゃね。」
せっちゃんは鞄から私のスマホを取り出した。
「学費とか、私に迷惑かかるとか、余計な事気にしてないよね?」
私は首を縦に振った。
「わかった。怜がそこまで言うならそうしよ。」
せっちゃんは優しく私の頭を撫でた。せっちゃんはいつだって優しい。
「転校しないことにした。」
西棟の屋上で売店のソフトクリームを食べる彼はフーンと興味が無さそうな返事をした。
「何その反応。」
「不器用だから喜びを表現できないんだよ。」
(よかったね)
「そんなことないよ。不器用な人は自分のことを不器用って言わないから。」
(ありがとう)
「でも何で?僕に言われたから?それなら意味ないよ。」
「まぁ確かに君に言われて自分で決めなきゃって思ったけど。翠蘭に行くのは自分の意志だから。」
「あの学校に行く価値あるかな?」
「終わってるよね。生徒も先生も。でも…」
(君がいればやっていける気がする)
「あ、いや、一人でこの能力を扱える自信がないって意味。まだ半信半疑だし。」
「うん。わかるよ。慣れるまで時間かかるのは当然だから。僕の場合幼かったから、この能力自体を疑いはしなかったけど誰にもわかってもらえなくて苦しんだ。」
「そうなんだ。なら私は恵まれているんだね。」
「恵まれている人の顔には見えないけどね。」
「うるさいよ。」
「あ、ごめん。心の聲がつい。」
彼は心臓に手を当てて、ダメでしょと言い聞かせた。
「いや普通に声に出してたよ。」
「えっ。」
ふっと鼻で笑った。彼も笑っていた。
「僕も君は転校しないでいいと思う。君が見てきた世界は明戸さんが中心に回ってて、明戸さんがいない世界はきっと別物に見えるんじゃないかな。」
(多分)
彼の言葉は自信がないようであるように感じた。
約3か月ぶりに家に帰った。岩崎と書かれた家は路地裏にある。築80年以上経つこの家は所々リフォームされているが、外観は木造のただの古民家だ。門をくぐると十数段ほどの階段があり、その先に玄関の扉がある。せっちゃんは両手に持っていたに物を左手だけで持ち、慣れた手つきでカギを開けた。 開いたドアからせっちゃんの匂いがした。普段はあまり感じないが、久々に家の匂いを感じた。ヒノキのような自然の匂いがする。私はこの匂いが大好きだ。初めてこの家に入ったときも同じ匂いがした。嗅ぐと一瞬で安心してしまう魔法のようなこの匂いは悪用されないか心配になる。
「ただいま。」
先に入ったせっちゃんは振り向いて「おかえり」と微笑んだ。
「先にお昼食べよっか。上に荷物置いてきて。」
「わかった。」
私は言われたとおりに靴を脱いでから2階の自分の部屋へと足を運んだ。これまた3か月ぶりの自分の部屋は前と何も変わっていなかった。せっちゃんが掃除してくれたのだろうか、ほこりっぽくなくて少し驚いた。まるで私の代わりに誰かが住んでたみたいだった。この部屋はもともとは和室だった。私をに養子にしたときに、せっちゃんが洋室にリフォームしてくれた。私は全然和室でもよかったけど、今の子はフローリングのほうがいいとせっちゃんの謎のこだわりで洋室になった。と言っても業者に頼んだわけではなく、前さんがセルフでしてくれたらしい。壁はペンキで真っ白に塗られているけれど、ところどころムラになっている。前さん曰くそこは味なんだとか。他にも、もともと押し入れだったところの襖を全部取っ払って、そこにベッドを入れて小さなベッドルームにしている。これもおしゃれ好きな前さんのこだわりだそう。私は荷物を床に置き、前さんお手製のベッドルームのベッドに飛び乗った。またここに戻れたことにしみじみと感動した。
私がベッドに仰向けに寝転んでいると、一階からせっちゃんの声が聞こえた。
「ご飯できたよ。」