明かされる真実
目が覚めるとそこは病室だった。前にも同じ景色を見たことがある。窓の外は薄暗く、朝なのか夕方なのか分からない。時計の針は5時22分を指していた。
ガラガラ
ノックも無しに開いたドアから若い看護師が入ってきた。前にも私の担当だった人だ。だるそうに肩をグルグル回していたが私と目が合い、肩は一回半周り、肘を上にあげた状態で止まった。
「えっ。」
看護師は慌てた様子で、私の頭上にあるナースコールを鳴らした。
「いっ岩崎怜ちゃん、目を覚ましました。」
耳元で喋られ耳が痛くなった。
「自分の名前分かる?」
「い…い、岩崎怜です。」
口の中が乾燥していた。
ガラガラ
看護師の背後から先笹塚先生と、年の取った看護師が入ってきた。この看護師もまた私の担当なのか。
「自分の名前言えますか?」
このセリフは気を失った人に言うとマニュアルに書いてあるんだろうな。
「どうしてここにいるのか覚えてますか?」
私は首を縦に振った。
「駅で刺されて、」
私ははっとした。
「彼は?彼はどうなったんですか?」
「落ち着いて。彼と言うのは?」
「一緒に運ばれたんじゃないんですか?」
先生も看護師たちもぽかんとしていた。
「深山慎樹です。」
「あぁ深山君なら、集中治療室に。」
生きていた。まだ生きている。
「よかった。」
「岩崎さん。覚えていませんか?ここに運ばれた理由。」
「え?だから駅前でクラスメイトに刺されて…」
「刺された?」
先生と看護師たちは顔を見合わせた。
「岩崎さん、あなたがここにいるのは誰かに刺されたからじゃありません。」
耳を疑った。
「え?」
「あなたは自ら川に飛び込んだんです。」
「…え?いやそれは…前の話ですよね?」
「前の話?」
「いや、だから、それは半年くらい前の話で、今は千宏に刺されてここにいるんですよね?」
「千宏さんというのは?」
「そのクラスメイトです。」
「ん…何か誤解しているようですね。岩崎さんは3か月前に川に飛び込んで意識を失っていたんですよ。」
「…は?だからそれは…じゃあ刺されたのは?」
「その刺されたというのはどういうことですか?」
「どういうことって…今日は4月の何日ですか?」
先生と看護師たちはまた顔を見合わせた。」
「今は1月ですよ?」
先生はカレンダーを指さす。そこには確かに1月になっていた。
「え?…じゃあ今度は1年近く…。」
違う。そのカレンダーは今年のものだ。
「どうして深山君の事を知っていたんですか?」
「目の前で…。」
「目の前?深山君が事故に遭ったのはあなたが川に飛び込んだのとほぼ同時刻ですが、岩崎さんはなぜそれを知っているんです?私もあそこの生徒だったのでよく知っていますが、あの橋から事故があった道路は見えないはずです。」
「事故?彼は事故に遭ったんじゃなくて、刺されたんですよね。」
話が噛み合わない私に先生は一つの答えをだした。
「岩崎さんは何か…夢を見ていたんじゃ?」
「夢…?」
「救助されたのがはやかったのですが、脳が損傷していて常に危険な状況にありました。その中で現実じみた夢を見ていたんですかね。」
「夢なんかじゃ。」
「とにかく意識が戻ってよかったと言いたいところですが、検査を終えないばかりには何も言うことが出来ません。今から診察室に移ってもらいます。」
先生は病室から出て行こうとしたが、すぐに戻ってきた。
「岩崎さん、一つだけ。…今でも自殺願望がありますか?」
私は誰かに操られているように首を横に振った。
前にも受けた検査を終えてもやっぱり異常はなかった。
「怜!」
聞き覚えのある声。
「せっ…ちゃん?」
生きている。せっちゃんが生きている。信じられない現実に頭が回らなくなった。
液晶に映し出された彼の鼓動を示す波線。顔に取り付けられた機械のせいで本当にベットで寝ているのが彼なのか信じ難い。
一体何が起きたのかその答えを誰も教えてくれない。笹塚先生の言う通り、私が彼と過ごした時間は夢だったのか。夢というにはあまりにもリアルすぎたし、あれが夢ならどうして彼は今こんな状態になっているのだろう。笹塚先生は私が川に飛び込んだ時に彼が事故に遭ったと言った。さっき起きた事件ではなく、別に事故が起きたのか。
私は寝ている彼を見ながら頭をグルグルさせ自分の身に起きたことを整理した。そして最も現実的な答えを出した。
私が彼と過ごした3か月は全部夢だった。それしか考えられないし、せっちゃんが生きていることが確たる証拠だ。そして今、その夢と同じことが起きている。病院のテレビで流れるニュースも、人の会話も、何から何まで全部見たことがある。きっとあの夢は正夢、予知夢、デジャブ。きっとこの辺りの言葉。でも夢とは違うことが2つある。それは彼が寝ていることと、聲が聴こえないこと。
この数時間、先生の聲も、廊下ですれ違う人の聲も、何も聴こえない。あの能力はもうない。いや、あれは夢だったんだから、そもそも能力自体、現実には無かったんだ。
(そうだよね)
彼が返事をしてくれることは無かった。
そして再放送の日々が始まった。変えようと思えば変えれたんだろうけど、私はそうはしなかった。なるべく夢で見た日々と同じようにした。やり残したことは特になかったし、それなりに楽しい毎日だったからそのままでいいと思ったというのもある、だけど単純に喪失感が抜けず、モヤモヤが溜まって行動を起こす気力さえなかったというのが本音。
そんな日々の中でももう一度せっちゃんと話すことができて幸せだったし、由紀や杏奈と仲直りも出来た。颯とはまた喧嘩をする気力は無かったから冷静に今までのことを謝って前にも聞いた言葉をもらった。二回目のせっちゃんの葬式はやっぱり悲しかったけど、死に際に立ち会えたし、お母さんと呼ぶことも出来た。
そんな台本通りの3か月の中で、彼は一度も目を覚まさなかった。ほとんど脳死に近い状態だった。私は毎日彼のお見舞いに行き、彼の回復を祈った。彼の病室には沢山のお菓子を並べた。本当は紫苑の花を生けたかったけれど、あれは秋の花でこの時期はどこにも売っていなかったから仕方なく彼が好きそうなお菓子にした。他の花を生ける気にはなれなかった。
明日は4月6日。夢の中で彼が刺された日。なんとなく何かが起きる予感がして今日は一日中彼と一緒にいようと早めに病室に来た。
病室のドアを開けるとパイプ椅子に見覚えのある背中があった。
「新井先生?」
先生は振り向くと驚いた顔をした。
「岩崎?どうして。」
「先生こそ。」
「お見舞いだよ。担任だからな。」
「私もです。」
先生は折りたたんであったパイプ椅子を自分の隣に並べた。
「ありがとうございます。」
私はありがたく椅子に座った。
「深山と仲良かったのか?」
「うーん、まぁ。」
「付き合ってたのか。」
「違いますよ。」
「なんだ。違うのか。」
「教師がそんなこと聞くんですね。」
「別にいいだろ学校じゃないんだから。」
少し間があいて、先生は深呼吸をしてまた話し始めた。
「なぁ予知夢ってみれると思うか?」
「えっ?」
想定外の言葉がいきなり飛んできてまぬけな声が出てしまった。
「やっぱそうだよな。あるわけないよな。」
的外れに納得してくれたのでこちらの秘密がバレる気配はないが、先生は何か私たちのことを知っているのではないかと思い、言葉を選んで質問した。
「予知夢を見たんですか?」
「いや、俺じゃないんだけど。こいつが見たって。」
先生は顎で彼を示した。彼が見ていた夢は、私が見ていたのと同じ夢なのだろうか。
「どんな夢だったんですか。」
「岩崎が死ぬ夢。」
「え?」
「岩崎が自殺する夢をみて、それを止めようとしたって。」
「どういうことですか?」
「んー…いや…俺も半信半疑なんだけど。」
「知っていること教えてください。」
「んー…そうだよな。岩崎は知るべきだよな。」
先生は口止めでもされていたのだろうか、彼に軽く謝って、どこから話せばと独り言をつぶやいた。
俺は校舎裏でいつも通りタバコを吸っていた。
「ここも禁煙ですよ。」
終わった。目の前に立つ生徒を見てそう思った。
「誰にも言わないんで一つ頼んでもいいですか?」
その生徒は右耳に補聴器をつけていたが、話してる感じからして音を拾えてはいるんだろう。
「なんだ。」
「屋上の合鍵をください。」
「何に使うんだ?」
彼は不気味に笑う。
「教室って息詰まるんですよね。窒息しそうなくらい。休み時間くらいは外の空気吸いたいというか、あそこ景色よさそうじゃないですか?」
それが本心じゃないことくらい小学生でもわかるが、これ以上聞いても意味はない。
「大丈夫です。迷惑かけるようなことしませんから。」
その言葉を信じて、俺は要求を呑んだ。
それからは注意深く奴を監視した。が、特に危ないことをするわけでもなく、休み時間に寝っ転がりに行くだけだった。あれは嘘じゃなかったんだと安心していた時、予想外のことが起きた。
文化祭前日、廊下を歩いていると、必死な顔をして走る奴が俺の前を横切った。何かあると焦った俺はすぐに奴を追いかけた。案の定屋上に行きドアを閉めた。
ガチャ
「くそ。」
外から鍵をかけられた。俺は諦めて出てくるのを待つことにした。バレないように階段を1階分降りて廊下の壁に身を隠した。
数分待っていると、下の階から誰かの足音がした。音は段々大きくなり、かなり早いリズムを刻んでいた。そして下から来た女子生徒は迷わず屋上のドアに手を掛けるとさっきの俺と同じように落胆し、来た道を戻って行った。
彼女が行った後、すぐにドアが開いた。奴は警戒しながら彼女を追うように階段を降りて行った。鬼ごっこのような妙な状況に、俺はもう何がおきているのか突き止めずにはいられなくなり、俺もまた奴を追った。
奴は校舎を出てグラウンドを横断し、裏門から外に出た。歩道を走って正門の方に回り、正門から続く橋と、道路がぶつかる交差点に差し掛かった所で足を止めた。遠くから奴を観察していると、次の瞬間、衝撃的な光景が目に飛び込んだ。
奴は車道の信号が青なのに、猛スピードの車の列に飛び込んだ。
急ブレーキの音と、クラクションが数十メートル離れている俺の耳の奥にまで響き渡った。奴は路上で倒れている。轢いた車の運転手が青ざめた顔で降りてきたのが遠くからでも分かった。俺は奴の意図が理解できないまま、教員としての行動をとった。
「救急車を呼んでください。」
運転手ではなく近くにいた歩行者に声をかけた。
「深山、聞こえるか?深山、深山…」
歩道に奴を移動させ、ハンカチで頭を押さえ声をかけた。頭から血が出ているが、目は半分開いている。意識はまだあるようだ。
「い…さき…を。」
「ん?」
「いわ…さきれ…を…助けてください。」
「いわさき?」
奴はうなずく。
「こんな時に何を言っているんだ。」
「僕は…いいから…れいを。」
「もういいしゃべるな。」
深山はそれでも必死に誰かの名前を口にした。
「先生!」
正門の方から見知らぬ生徒が走ってきた。
「来てください!岩崎が川に飛び込んだんです。」
岩崎?飛び込んだ?
「早くしないと死んじゃう…って、え?こっちは何が起きてるんですか?」
「事故だよ。そっちは何が起きた?」
「わかんないです。ただ、岩崎さんが川に飛び込んで、今颯が助けに行ってます。」
「助けにって、川にか?」
「はい。」
「馬鹿野郎!そいつまで溺れたらどうするんだ!」
「でも…」
「ここ押さえててもらえますか?」
俺は救急車を呼んでくれた女性に奴を任せて、呼びに来た生徒と川の方に向かった。川には生徒が二人、女子生徒が男子生徒に陸の方に引っ張られていた。女子生徒の体は動いてなさそうだ。俺は河川敷を走り、ちょうど陸に着いた女子生徒を引き上げた。前に講習でやった通りに、人工呼吸の手順を正確に踏んだ。
「そのまま代わります。」
「生徒にさせるわけには」
「救急隊です。」
「えっ。」
突然現れた救急隊員に彼女を任せ、びしょ濡れの男子生徒に近寄った。
「この子の名前は?」
「岩崎怜です。」
「君は…あ、宇ノ沢か。」
こいつを知らない教師も生徒もいない。
「はい。」
「いくら泳げるからと言って、子供が助けに行くな。お前まで溺れたらどうするんだ。」
「でも…」
「もういい、怖かっただろ。着替えて教室で待ってなさい。」
「颯行こう。岩崎さんはきっと大丈夫だから。」
救急隊は担架に岩崎を乗せ、道路の方へ運んでいく。一緒についていくと、彼女が乗るはずの救急車にはすでに深山が運び込まれていた。
「どうしますか?もう一台呼びますか?」
救急隊の会話が聞こえる。
「一人って聞いていたんだが、二人とも一刻を争うな。一緒に運ぼう。」
彼女を乗せた担架は深山の隣に入れられた。
「教員の方ですね?乗ってください。」
「いやでも、邪魔じゃないですか?」
ただでさえキャパオーバーな救急車に隊員はわかりやすく焦った。
「えっと、まぁ…」
「車で向かいます。」
「すみません。」
俺は急いで駐車場に行き、教えられた病院へ直行した。学校に電話を入れ、待合室で二人の手術が終わるのを待った。なぜ深山と岩崎は飛び込んだのか、なぜ深山は岩崎がこうなるのを知っていたのか、本人に聞かないとわからないことだらけだった。
「新井先生!」
待合室に竹田先生が来た。俺の一つ年下で教員の中では一番仲がいいやつだ。
「お前のクラスの生徒なのか?」
「違いますよ。2人は2年生でしょ。」
「じゃあ担任は?校長とかも来るべきだろ?」
「新井先生聞いてないですか?」
竹田から聞かせられた話は、岩崎が学校にいじめの罪をきせられ退学に追い込まれたという内容で、耳を疑う話だった。
「なんだよそれ、終わってるな。」
「聞きます?これ。」
竹田はスマホを取り出した。
「録音したのか?」
「やるでしょ?途中からですけど。」
再生すると男の怒鳴り声が流れた。
「この声は?」
「明戸さんのお父さん、ほら例のいじめっ子。」
「親まで来たのか?」
「ええ、いい親バカっぷりでしたよ。」
「2年生は大変だな。」
「他が平和なだけですよ。それにしても俺たちもどうなっちゃうんでしょうね。もし死んだりでもしたら…」
「おい、それ以上言うなよ。」
「すみません。」
竹田はあっと何かを思い出した。
「そう言えばもう一人の子はどうしたんですか?助けに行ったとかですか?」
「それがなー違うんだよ。」
「え?」
「もう一人は交通事故。」
「え?交通事故?」
「岩崎とは別で、たまたま。」
たまたまだと願いたい。
「そんなことあります?ありえないでしょ。」
「ありえないよなぁ。」
「ていうか、新井先生はなんであそこにいたんですか?」
「え?…えっと、わすれもの?車にファイル取りに行こうとしてたまたま。」
「またまた~。バレバレですよ。どうせこれでしょ。」
竹田はタバコを吸う真似をした。
「違うよ。」
「はーい。忘れ物ってことでいいですよ。この貸し高くつきますからね。」
「なんだよそれ。」
竹田はあの緊迫した現場を見ていないからこんなに能天気にいられるんだろう。生徒が死ぬなんて微塵も思っていない。でももしかしたら、いや、多分どっちかは、いや、二人とも死んでしまって、俺の疑問は永遠に解決しないのかもしれない。
「録音したやつ、俺に送ってくれない?」
「悪用厳禁ですよ。裁判の証拠なんですから。」
「一応俺らは学校側なんだけどな。被告側。」
「分かってますよ。でも俺はクビになっても世間の敵にはなりたくないです。」
「お前なら転職先いくらでもありそうだな。」
「新井先生だって、ほんとは教員いやなんでしょ?なら一緒に戦いましょうよ。」
「よく言うよ。」
俺は自分のスマホに通知が来たのを確認して、手術が終えるまで竹田と話して気を紛らわせた。
「怜…怜…れ…い…」
年配のおばさんが血色のない顔で涙を流しながら歩いてきた。俺と竹田は立ち上がり、会釈をした。
「あなたが担任なの?あなたが怜を殺したの?」
「いえ、私は」
「新井先生は1年生の先生です。岩崎さんを救助して、ここまで」
ドサッ
おばあさんは力が抜けたように崩れ落ちた。
「ここ座ってください。」
竹田は飲み物を買いにその場を去った。
「保護者の方ですか?」
「はい。母です。すみません。助けてくださった方にあんな言い方してしまって。」
「いえ、お気になさらず。」
「娘に何があったのでしょうか?」
「私より知っている者がいますので、その者から。今は怜さんの無事を祈りましょう。」
「はい。」
しばらく経って手術中のランプが消えた。ドアが開いてナースが出てきた。
「ご家族の方はこちらへ。」
「はい。」
岩崎さんはゆっくりと立ち上がり、俺たちにお辞儀をし、ナースに連れられて行った。
「翠蘭高校の先生ですか?」
背後から話しかけられて振り向くと白衣を着た医者がいた。
「そうですけど。」
「深山君の担任の先生ですか?」
「いや…まぁ代理の者です。」
「少しお話いいですか?」
「あ、はい。」
医者は「こちらへ」と俺を案内した。
「いいんですか?適当なこと言って。」
「仕方ないだろ。誰も来ないんだから。深山の保護者には連絡したのか?」
「しましたよ。仕事で来れないそうです。」
「は?子供が事故に遭ったのに?」
「通っている病院だから、医者に直接連絡するって。」
竹田は「ほら。」と自分の耳を指さした。
「なんだよそれ。」
「こっちも訳アリですね。」
俺は竹田を置いて一人で医者の後を追った。案内されたのは病室だった。ベットには包帯でグルグル巻きの深山が眠っていた。
「手術は…?」
「大丈夫です。頭を2針縫ったのと足の骨にひびが入ってただけで命に別状はないです。」
「そうですか。」
「あ、申し遅れました。脳神経外科医の笹塚です。慎樹君の主治医をしていました。」
「主治医?」
「はい。慎樹君は難聴者で定期的に通院しています。私はもともと小児外科だったので慎樹君の主治医でした。今は担当ではなかったのですが今回の事故でまた担当に。」
「あぁなるほど。」
「先生は現場にいたと聞いたのですが本当ですか?」
医者に先生と言われてこの人のことを何と呼べばいいのかわからなくなった。
「はい。」
「そのことで警察の方が後で話を聞きたいそうです。」
「わかりました。」
「あと、お願いがあります。」
「何ですか?」
「先生が抱いている疑問、胸に閉まっておいてもらえませんか?」
予想外の言葉に驚いた。この医者はただの医者ではないのか。
「…どういう意味ですか?」
「慎樹君と岩崎さんの事故はたまたま同じ日に、同じ時間に起きただけって事です。ただの偶然です。」
「あなたは何を知っているんですか?」
「何も知らないですよ。知らなくていいんです。他人が首を突っ込むことではないでしょ。」
「他人って…。」
言い返せなかった。自分でもどうしてそんなに奴が気になるのか分からなかった。弱みを握られたから?奴の行動が不可解だったから?俺は興味本位で他人の領域に土足で入ろうとしていたのだろうか。教師という立場を利用して刑事気取りになっていたのか。俺はそんな人間じゃない。教師なんて言うのは肩書だけで、人の人生に関わるなんて厄介な事はしたくない。そういう人間だ。ならなんでここまで熱くなる?よく考えろ。
冷静になって俺は医者の言うとおりにした。
「そうですよね。私は他人でした。」
また一つ嫌な大人になった。
あれから2週間が経ち深山は退院した。この間学校は大変なことになった。文化祭は中止になり、校長、副校長、教頭、学年主任、担任は辞職。記者会見をした後もマスコミが張り付いて少々盛った報道をし、世間は俺たちを色眼鏡で見てきた。学校側は教師の辞職と明戸の退学。当然の対処だけで保護者を納得させようとしたがPTAの教員に対するあたりは凄まじいものだった。しかし誰一人として子供を転校させる親はいなかった。みんなが憧れる名門私立というブランドをそう簡単に手放せるものじゃない。人間なんて結局こんなもんかと、自分事として考えられない俺もやっぱりこんなもんだった。
「失礼します。」
朝礼前に職員室に現れた生徒にその場にいた全員の視線が集まった。右足を浮かせ松葉杖をつくその生徒は右耳に補聴器をしている。
「深山君こっちに。」
校長は奴を校長室に招き入れドアを閉めた。
「あれって岩崎さんと一緒に運ばれた生徒ですよね?結局あの事故はたまたまって事になってますけど実際のところどうなんですか?」
普通だったら誰もがそう思うだろう。
「俺は何も知らないよ。たまたまなんだろ。」
「えー新井先生もそんなこと言うんですか?」
大人は気づいていても気づかなかったことにできる。そして頭のいいガキは大人になるのが早い。大人な生徒はみんな、他人に無関心で厄介ごとを深堀りするようなことはしない。だから岩崎の件と深谷の件を絡めて騒ぎ立てる人間はいなかった。その無関心さに嫌気がさしたが、奴にとっては幸いな事だった。
「先生。」
喫煙タイムになり、いつもの場所でサボっていると、松葉杖の奴が現れた。
「またお前か。」
「懲りないですね。」
「吸わないとやってられないよ。」
奴は小さく笑った。
「なんか用か?」
「酷いですね。死の窮地から生還してやっとここまで来たというのに。」
「命に別状はないんじゃなかったのか。」
「そう言えば先生が助けてくれたんでした。ありがとうございます。」
「それを言いに来たのか?」
「いや、これはついでです。」
「おい。」
奴はまた笑った。あの時は必死な顔で岩崎の名前を叫んでいたにもかかわらず、岩崎の意識がまだもどっていない状況でも機嫌がいい。奴の笑顔を不思議に思っていると奴は不慣れな手つきでポケットから何かを取り出した。松葉杖が倒れそうになり俺はすかさずキャッチした。
「これです。」
奴は松葉杖の片割れを持つ俺にキツネのキーホルダーがついた鍵を差し出した。
「もういいのか?」
「はい。もう使ったんで返します。」
何に使ったのか。それはもう聞かない約束だ。
「そうか。」
俺は鍵を受け取り、代わりに松葉杖を返した。
「何にも聞かないんですね。覚悟してたのに。」
「聞いてほしいのか?」
「んー別に。」
奴はまた笑う。
「ただお願いがあります。」
「鍵の代わりか。口封じは高くつくな。」
「そう思ってもらってもいいですよ。」
「なんだよ、お願いって。」
「担任になってください。」
「は?」
「いくらこの学校の先生でも、1年目の副担任にあのクラスの担任が務まるなんて思ってないですよね。」
事が落ち着くまでは奴のクラスは副担任が受け持っていた。
「誰がするかは検討中だ。」
「その検討されている中に先生も含まれていますよね。」
担任は何回かしたことはあるが正直やりたくないというのが本心で、ここ何年かはそれなりの理由をつけて担任を避けていたが、候補には入っているだろう。
「だからやれと?」
「はい。」
「どうして?」
流石にこれは聞いていいだろうとあの時の医者に言い訳をした。
「彼女には先生が必要だからです。」
彼女というのは岩崎で間違いないだろう。
「岩崎との接点は何もないが。」
「これからあるんですよ。」
「なんだそれ。」
「お願いです。先生しかいないんです。」
ふざけていた奴の顔が真剣になり少し緊張した。そして俺たちの会話は5時間目の予鈴とともに終わった。
俺が2年2組の担任になって約2ヶ月が過ぎた。このクラスの問題は今でも山積みだ。明戸杏奈が握っていた政権は完全に三好茜莉に移り、女子はまた恐怖政治で支配されている。瀧本千宏という不登校児もいて、今まで担任をしたクラスの中で一番厄介なのは間違いない。その上もうすぐ受験生になる。残業に追われる忙しい日々が続いていたが、部活の顧問をしていないからまだよかった。
「深山先生、お電話です。2組の深山君から。」
夜の7時。残業中の俺は嫌な予感がした。
「もしもし。」
「深山です。また入院することになったので明日から休みます。」
「何かあったのか?」
「検査に引っかかっただけです。これ親が言わないとだめですか?」
「できればそうしてほしいけど。難しんだろ?」
「そうですね。うちは色々複雑なので。この電話親からってことにしてくれませんか。」
俺はため息をついた。
「なんでも言うこと聞くと思うなよ。」
「ありがとうございます。」
それからいくつか話をして電話を切った。
「深山君って事故に遭った子ですよね?」
最初に電話に出た若い女の先生が心配そうに話しかけた。この人の名前を思い出せない。
「そうです。検査で引っかかってまた入院すると保護者の方が。」
「そうですか。心配ですね。」
「はい…。」
結局名前のわからない教師に小さく頭を下げ、席に戻った。残りの仕事を終わらそうと閉じたパソコンを開いたが手につかず病院に向かった。
『本日の面会時間は終了しました』
「あぁだよな。」
俺は諦めて帰ることにした。
「新井先生!」
笹塚先生は俺を医者のように呼んだ。
「あ、どうも。深山がまた入院したと。」
「はい。そのことでお話いいですか?」
先生は俺を自室に招き入れた。大学の教授の部屋に似た雰囲気で、書類のタワーがあちらこちらにでき、散らかっていたが嫌ではなかった。俺はふかふかのソファーに座り、コーヒーを注ぐ音を楽しんだ。
「どうぞ。」
「ありがとうございます。」
先生は自分のカップに角砂糖を3個入れてスプーンで混ぜた。甘すぎないか心配していると話が始まった。
「事故の後遺症で脳震盪を起こしていました。」
「脳震盪…」
「脳に損傷があったんです。近いうちに手術をする予定です。」
「そんなにひどいんですか?」
「んーなんとも。」
「え…死ぬんですか?」
先生は直球過ぎた質問に困惑していた。
「最悪の場合は。」
先生がなぜこんなにも落ち着いているのか不信に思ったが、医者というのはそういう仕事だ。きっと奴も患者の一人にすぎない。
「あぁいや、絶対とは言えないのでこういう言い方になってしまいますが最善を尽くします。」
そこまで難しい訳ではないと悟って安心した。
「あの、担任の先生になったと聞きました。」
「えっあ、はい。いや、探るつもりはないですよ。深山のことも岩崎のことも他人が口をはさむものではないと私も思っています。」
「そのことで、謝らせてください。」
先生は立ち上がり頭を深く下げた。
「えーっと…これはどういう?」
そしてゆっくり腰を下ろした。
「私は先生のことを誤解していました。てっきり興味本位で慎樹君のことを探ろうとしているのではと警戒していたんです。なのであんなことを…」
ほとんど間違ってはいなかった。
「慎樹君、最近はあなたの話ばっかりですごく楽しそうなんです。慎樹君がこんなに人の話をすることはないので。きっと先生はいい人なんだと、私が心配するような人ではないと確信しました。」
「そうですか…。」
「彼はずっと独りぼっちだったんです。ご存じの通り、慎樹君のご両親は彼に無関心ですから。学校でも耳のことでいじめられたり、避けられたりして居場所はなかったと思います。」
「ご両親はずっとこうなんですか?」
「はい。慎樹君は早くにお母さんを亡くしていて、今のお母さんはお父さんの再婚相手なんです。ですからまぁ…そういうことです。」
「でもお父さんにとっては、実の子ですよね?」
「はい。でも亡くなったお母さんとお父さんは離婚してたみたいで、慎樹君をよくは思っていないようです。それにお父さんは財務省で働いていて、プライドが高く厳しい方なので。慎樹君の弟が生まれてからは二人とも慎樹君を放置していて、今のように…。」
父親は奴が人生の汚点とでもいいたいのだろうか。障害があればなおさら子供に手を差しのべるべきだろ。
「笹塚先生はいつから深山の担当になったんですか?」
「12年前ですね。慎樹君が5歳の時です。慎樹君とお母さんが交通事故で緊急搬送されてそこで慎樹君の執刀をしました。」
「交通事故…じゃあお母さんはその事故で?」
「はい。病院に着いた頃にはもう。それと、慎樹君が左耳の聴覚を失ったのもその事故です。」
「あぁそれもなんですね。どんな事故だったんですか?」
俺は踏み込んではいけない領域に入ろうとしていた。そしてとっさに足を引っ込めることにした。
「すみません。思わず。これ以上は聞かないです。」
「いえ、すべてをお話しするつもりです。実は…今回の手術の執刀は私ではなくて別の医師が担当することになったんです。」
「そうなんですか。」
病院の事情かなんかだろう。
「それと、3月に異動することになりまして。もう慎樹君に会えるか分からないんです。」
「昇進ですか?」
「ははっ昇進だったらいいんですけど。母の介護も兼ねて実家に帰るんです。独り身で親不孝者ですからせめて。」
先生はグビっとコーヒーを飲み干した。
「だからですかね?私は行き場を失った父性を慎樹君に注いでいるのかもしれないです。」
笹塚先生は「すみません本題に」と言って真剣な表情になった。
「12年前、慎樹君のお母さんと慎樹君が散歩をしていた道中に道路に飛び出した小さな女の子がいて、その子を助けようとお母さんも道路に飛び出しました。」
先生は近くにあった将棋の駒を4つ机に置いた。『歩』と書かれた駒が3つ。1つだけ離して2つは隣に置いた。そしてもう1つの駒には『飛』と書かれている。
「それで、その女の子の代わりにお母さんが車にはねられ亡くなったんです。」
『飛』の駒は並んだ『歩』の駒にぶつかり『歩』の駒は1つだけ裏返された。
「お母さんを轢いた車は飛び出してきた二人をよけようとハンドルを右に切っていました。それで歩道にいた慎樹君に近づいていきましたが寸前のところで電柱に当たり、炎上しました。」
離れた『歩』に近づいた『飛』が『歩』に当たる直前で裏返された。
「慎樹君は車に轢かれなかったものの、その時の爆発で左耳の聴覚を失い右耳も難聴になりました。」
「この2人は亡くなったと。」
俺は裏返された2つの駒を手に取った。
「はい。運転手の方は即死でした。」
「こんな酷い事故を深山は経験していたんですか。」
俺は呆気にとられた。影があるようには見えたがいつも俺と話すときは能天気でふざけている奴がこんな壮絶な過去を経験しているとは思わなかった。
「あいつは、深山は、その過去に縛られてきてそれで自殺を?」
「それは違います。確かに中学生になるまでは塞ぎ込んでいましたが、その過去から彼を解放してくれる存在があったんです。」
先生は裏返されていない『歩』の駒を手に取った。その駒は深山…ではない。
「ただの偶然だったんです。慎樹君は中学校でこの子と再会しました。彼女の方は彼を覚えていないようですが。」
「…え。まさか。いや、そんなこと。」
「はい。そのまさかです。この子が岩崎怜さんです。」
固まった。俺の知らないところで点と点が線で繋がった。でもその線分が何を意味するのかは俺には分からない。
「ちょ…ちょっと待ってください。整理が出来なくて。」
「そうですよね。私も同じでした。ただお伝えできる事実は12年前に同じ救急車で搬送された2人がまた一緒に搬送されたことと、慎樹君は岩崎さんと再会してから笑うようになった事です。あ、それと、岩崎さんの脳も慎樹君と同じところを損傷していました。」
「岩崎も?」
「はい。関係ないとは思いますが一応。」
俺の脳は今にもパンクしそうだった。俺は冷めたコーヒーを一気に飲み干して何とか頭を整理させた。
「深山は…岩崎を恨んでいたんじゃないんですか?」
「どうしてですか?」
「いやだって、岩崎が道路に飛び出さなかったら深山の母親は死なずに済んだんですよね?」
「まぁ確かにそうですけどそれを言ったらキリがないんです。」
「というと?」
「岩崎さんはその時母親に捨てられたんです。」
「え?」
「自分を捨てたお母さんを追いかけている途中で事故に。」
「岩崎も岩崎で母親のせいで事故にあったと言うことですか…。」
「はい。キリがないっていうのは慎樹君が言っていた事なんですけどね。」
「深山は岩崎のことが好きなんですか?」
先生はニコッと笑った。
「恋愛としてか友達としてかはわかりませんが、まぁ二人は家族ですからね。」
「家族?」
奴にとって岩崎は家族のような存在だったのだろうか。
「岩崎さんは、あ、怜さんは慎樹君の叔母なんです。」
「…は?」
「いやーこれには本当に驚かされました。」
「どういうことですか?」
「岩崎怜さんのお母さん岩崎節子さんは慎樹君のおばあちゃんなんです。つまり、慎樹君の亡くなったお母さんのお母さんです。節子さんは12年前の事故の後、怜ちゃんの里親になっています。」
「…?」
「そりゃあびっくりしますよね。私も最初は信じられなかったです。」
「その話…本当ですか?」
先生はゆっくりと頷いた。
ありえない。ありえるわけがない。
「私が知っているのはここまでです。後は本人にしかわかりません。」
確かに先生の話だけでは奴が自殺しようとした理由はわからない。
「聞くべきではないですよね。」
「私は勝手にそう思っていました。でももしかしたら慎樹君は聞いてほしいのかもしれません。だから、先生にお任せします。」
それは多分、聞けということだ。
コンコン
ドアを開けると奴は何かを布団の中に隠した。
「返事してないのに開けないでくださいよ。」
「あ、悪い。」
奴はいつもと同じ調子で呆れたように笑った。俺は差し入れのプリンが入った袋を机に置くと奴は一瞬で食らいついた。
「調子はどうだ?」
「たまに頭痛がするくらいで、へーきですよ。」
奴は瞬く間に1つ完食すると、2個目に手を出した。俺の分だったが何も言わなかった。
「よく食うな。」
「朝早くからどうしたんですか。今まだ1限目ですよね?いいんですか?」
「すぐ戻るから気にすんな。」
「そんなに聞きたいですか?僕が事故を起こした理由。」
図星を突かれて驚いた。
「どうしてそれを…。」
「昨日、笹塚先生と歩いてるの見ちゃったんです。聞いたんですか?僕の事。」
「…あぁ。」
「もしかして同情してくれてます?」
「同情というか…正直驚いた。お前がそんな経験をしてきたなんて思ってなかったから。」
「優しいですね。」
奴はプラスチックのスプーンを空のカップに置いた。
「いつか言う時が来ると思ってました。だから全部話します。」
俺は椅子に腰を下ろして聞き漏らさないように集中した。
「先生の疑問はこういえば解決しますか?」
「なんだ?」
「僕は未来が見えます。正確には予知夢が見えるんです。」
「からかってんのか?」
「あれ?違いました?これで解決すると思ったんですけど。先生は名探偵じゃなかったんですね。」
「おい、真面目に話せ。」
「僕はいたって真面目ですよ。わかりましたちゃんと説明します。」
奴は俺をなだめるように話し始めた。
「先生はあの日、僕の後をつけてましたよね?」
「…あぁ。」
「あの時僕は焦ってたんです。彼女が飛び降り自殺をする予知夢を見たので、それを阻止するために動き回ってました。」
「飛び降り自殺?」
「はい。4日前にその夢を見て、その次の日も同じ夢を見て、そのまた次の日も同じ夢を見ました。それで夢の中で何度も阻止しようとしたんですけど、失敗しちゃって。結局成功しないまま当日になっちゃいました。」
「ちょ、ちょっと待て。え?…予知夢を見れるなんて信じられるわけないだろ?」
「あーそうですよね。でも信じてもらわないと話が進まないんです。一旦信じてください。」
俺はとりあえず話を聞くことにした。
「僕が最初に見た夢の中では彼女はあの日、屋上から飛び降りて即死しました。それで僕は次の日先回りして屋上に行って外からドアに鍵を掛けました。そうしたら彼女は飛び降りることが出来なくて校舎を出たんです。でも、彼女はあの川に飛び込みました。今度は救急車が来る前に溺死したんです。だから次の日は彼女が飛び込む前に救急車を呼びました。でも僕の右耳は高音が聞き取りにくいせいで女性の救急隊員の声がうまく聞こえなかったんです。それでちゃんと説明することが出来なくて、結局スマホのGPSを頼りに救急車は来たんですけど、西門のほうに来ちゃって、あのバカでかい敷地のせいで彼女はまた溺死しました。そして次の日、その日が文化祭前日の前日つまり予知夢が見れる最後の日でした。僕は電話を男の人に代えてもらって正門に救急車を呼ぶことに成功しました。でも彼女を助けようと川に入ったら僕も溺れてしまって、それが救急隊の手を煩わせてしまったのか結局あともう少しってところで失敗したんです。それでそのまま当日を迎えました。」
「ストップ、ストップ。一旦整理させてくれ。お前は岩崎が飛び降りることを知っていたから屋上に行ったって事か?」
「はい。」
「でもお前鍵持ってたよな?俺が渡したやつ。あらかじめかけておけなかったのか?」
「予知夢はいつも会議室前の廊下から始まるんです。中では彼女が教師に悪態をつかれていました。先生に鍵をもらったのはたしか自殺未遂をする2日前ですよね?僕も探しましたけど夢の中では鍵はどこにも無かったんです。」
「なくしたのか?」
「僕もそう思ったんです。なくすか、取られるのか分からなかったので早いうちに手を打とうと思って、当日の朝に鍵を掛けに行ったんです。朝から生徒会が文化祭の横断幕を掛ける作業をする為に鍵を開けて、その後もそのまま開放されることになってましたよね。だから作業が終わってみんなが表彰とかで体育館に集まってる間に鍵を掛けました。それで…僕はそこで安心してしまったんです。その後は何かイレギュラーなことが起きないか彼女を見張っていました。事は予知夢通りに進んで、いよいよ彼女は会議室に呼ばれました。僕は彼女が行くのを見送って先に橋に行きました。そして人工呼吸のイメトレをしていた時、たまたま学校の屋上に人影が見えたんです。僕は冷や汗をかきながら、急いで屋上に向かいました。誰かが鍵を開けっぱなしにしていたらと気が気じゃありませんでした。屋上に向かう途中で会議室の前を通って彼女がまだそこにいることを確認して屋上に行きました。案の定鍵は開いていましたけど、外には誰もいませんでした。でもその時僕は鍵をなくしていました。教室に置いてきてただけだったんですけど。その時はパニックになってて、そうしたら彼女が来て、夢で見たとおりになっちゃったんです。その後僕は彼女を追ってる時に救急車を呼ぼうと階段を降りながらスマホをいじっていたら、落としてしまって電源がつかなくなりました。僕はさらに焦ってとりあえず誰かに携帯を借りようと大通りに向かって走りながら考えたんです。どうしたら事故が起きる前に救急車を呼べるのかと。でも人に説明する時間どころか大通りなのに人が全然いなくて、いるとしたら車に乗ってる人だけで車を止めるにはどうするべきかと、それで、思いついたんです。」
もしかして、それで。
「自分が事故に遭えば何の躊躇もなく救急車を呼べると。」
「そのために…お前は飛び出したのか?あの橋に一番近い道路で。」
「はい。」
「そこまでして、自分が死ぬかもしれないのにどうして岩崎を助けるんだ?」
奴は黙った。
「12年前の事故は岩崎が原因でお前のお母さんは死んだんだろ?」
「原因は彼女じゃありません。」
「理屈じゃないだろ?そんなことわかってても人のせいにするのが人間だろ?」
「普通はそうですね。でも僕が彼女を憎めないのは僕自身は彼女に助けられているからです。」
「どういう意味だ?」
「12年前の事故の時、母さんを轢いたトラックは僕の近くにあった電柱にぶつかりました。僕はその瞬間、恐怖で目を閉じてしゃがみこんだんです。激突してからもずっとしゃがんでいたら彼女の声が聞こえました。彼女はずっと「誰か助けて」って叫んでいたんです。僕はその声で正気を取り戻して、目を開けて立つことが出来ました。そこには地面に倒れている母さんとその横で必死に助けを求める彼女がいました。俺は恐る恐る二人に近づいたんです。母さんの死を受け止める覚悟も何もないまま、必死に泣き叫ぶ彼女に引き寄せられたんです。そしてその時でした。トラックが炎上して爆発したんです。衝撃音が耳を伝って脳にまで来たのがわかりました。僕は耳の痛みに堪えながら後を振り返ったんです。そうしたら…さっきまで自分がいた場所が火の海になっていました。」
「だから、岩崎を憎めないと?」
「はい。あの時彼女が叫んでくれなかったら僕は聴覚だけじゃなくて命も失ってましたから。」
「いやでも、そもそも事故が無かったら聴覚だって。」
彼はふっと笑った。
「痛いところ突きますね。でも僕は笹塚先生が大好きです。心から出会えてよかったと思ってますよ。」
「は?なんの話だ。」
「でもあの事故が無かったら笹塚先生にも出会えて無かったです。あ、新井先生にも出会えて無かったかも。」
奴は俺に気を遣ったと見せかけて、からかうような笑みを浮かべた。
「だから結果論でいいんです。起きちゃったんだから仕様がないじゃないですか。」
「結果って誰もハッピーエンドじゃないだろ。」
「ハッピーではなくても、彼女にとってはましな結果だと思います。12年前の事故が無かったら僕は予知夢を見れなかったかもしれないですし、その前に母親に捨てられて今よりもっと辛い未来が待っていたかもしれないじゃないですか。」
こいつの中心はいつも岩崎だ。
「自殺そのものを止めることはできなかったのか?」
「一番はそうする事だと分かってます。でも僕は予知夢を見るまで、彼女がそこまで思い詰めていると知りませんでした。それに止めるべきじゃないと思います。自殺したいと思ったら自殺するまでずっと苦しみ続けますから。」
自殺を肯定する奴の目は至って真剣だ。
「矛盾してないか?止めるべきじゃないって言ってるのに、お前は必死に止めようとしたじゃないか。」
「確かに矛盾してますよね。僕は自殺を止めるべきではないという思いと、彼女に死んでほしくないという思いを両方守りたかったんです。」
「それが未遂で止めるって事か?」
「はい。これが最善だったんです。」
何が最善だよ。お前は死にかけて、岩崎だって意識不明。これのどこが最善なんだ。
「まだ意識は戻ってないだろ?まるで分かってるような物言いだな。」
「はい。心配しなくても戻りますよ。」
「やっぱりそれも見たのか。」
奴はにやりと笑った。




