踏み外した一歩
「ママ、どこ行くの?」
早起きは苦手だった。それでも早く起きてしまったのは母親がいなくなる予感がしたのかもしれない。スーツケースと大きな鞄を持った母親は私の声で動きを止めた。玄関で靴を履こうとしていたのだろうか、母親はしゃがんだまま振り返った。
「ちょっと出かけてくる。ここで待ってて。」
5歳だった私にも母親の言葉に違和感を感じた。
「パパを迎えに行くの?」
父親は1年前に家を出たきり帰ってこない。母親は私から視線を逸らし、自分の足元を見つめた。
「パパは…どうだろう。」
靴を履き終えると何かをはぐらかすように玄関のドアノブに手をかけた。
「ママ待って!怜も行く!」
言い終えた頃には玄関に母親の姿はなかった。私は靴も履かずに母親を追いかけて外に出るとアパートの階段を下りたところに黒色の車がとまっていた。母親はちょうど助手席に乗り込もうとしていたところだった。
「ママ待って!」
アパートの二階から大声で叫んだが母親は振り向きもせずに行ってしまった。私は急いで階段を下りて追いかけた。荒くなる呼吸の狭間に「ママ」と何度も叫んだ。
夏なのに早朝はまだ少し肌寒く、冷えたコンクリートの地面は私の小さな足を青白くした。どれだけ息を切らしても母親が乗った車に追いつくことはなかった。
(捨てられる)
そう思った。泣きながら、走ったせいで視界はぼやけていた。大きいはずの車はどんどん小さくなり、やがて黒い点になった。その時だった。母親の声ではない他の女の人の声が静かな住宅街に響き渡った。
「危ない!」
その瞬間、私は誰かに突き飛ばされた。
目が覚めるとそこは病室だった。どうやら長い夢を見ていたようだ。いや、夢というよりも昔の記憶といったほうが正しいのだろうか。忘れることが出来ない12年前の私の記憶。それは時々夢として現れる。自分が病室にいる理由ははっきりと覚えていた。
(生きてたんだ)
私は自殺をした。ここが天国でなければ未遂で済んだみたいだけど。
寝たまま目を開けただけの私は、視界に飛び込んだ時計とカレンダーから今が5時22分で1月だと知った。だけど10月の記憶が最後だったせいでここが現実かいよいよ分からなくなった。カーテンの隙間から空を見ても朝なのか夕方なのかよくわからない。視界から得られる情報はこれくらいしかなく、やむを得ず起き上がることに決めた。が、力を入れようとしても体のどこにも入らない。私は誰かが来るまで待つことにした。その誰かを待っている間、自分に起きた出来事が走馬灯のように蘇った。
2学期中間テストの一週間前、私はいつも通り学校の図書館で勉強をしていた。中学生の時から勉強は決まってここでするのが私の習慣だった。というのも中高一貫の翠蘭学園には高等部と中等部の間に大きな図書館があって、学年関係なく6年間自由に使うことが出来た。二階建てでレトロな雰囲気のここが学校で一番のお気に入りだった。
図書館の一階には広い自習室があり、テスト期間になると大勢の生徒で満席になるけれど、私はそこを素通りし、中央の螺旋階段を上がって二階の角の閉架式書庫まで行く。すると長机にパイプ椅子が置かれただけの簡易的な学習スペースがある。ここが閉架式書庫の隣だからなのか、ここに机が並べられていることを知っている人は少ない。そもそも閉架式書庫に収容されている本は貸出禁止の本だし、中高生が好んで読む本は二階には無い。よほどマニアックな調べ物があるか、私みたいに誰の目線も気にせず一人でひっそり勉強したいという強い意志がない限り、生徒がこの場所を見つけることはまずない。私は中学生の時に図書委員をしていて本のデーター化のためにバーコードを全ての本に貼るという気の狂いそうになる作業をさせられたときにこの場所を見つけた。
特等席は窓に面していて、ちょうど高等部の校舎が見える位置にあるが、私はいつものこの景色を眺めることもなく、数学の参考書を開いて早速勉強を始めた。
数学のテスト範囲のところを解き終え、携帯を開くと、時刻は18時になっていた。気づいたら3時間もしていたことに自分でも驚いた。ひとまず外の空気を吸おうと窓を開けると、秋の風の中に雨のにおいがした。私はこのにおいが大好きだった。雨が降っていると「悪い天気」と言う風潮が嫌だと昔よく言っていた記憶がある。雨の匂いときれいな夕焼けに気を取られていると、視界の端で何か黒い物体がすぅっと動いた。反射的に目をやるとそこは高等部棟三階の端から二番目の教室。2年2組私のクラスだった。おそらくクラスの誰かが忘れ物でも取りに来たのだろう。それで自分も漢文の課題を教室に置いてきたことを思い出し、その黒い物体に感謝した。私は席を立って閉架式書庫の横をすり抜けた。
教室の前で思わず足を止めたのは予想通り生徒が教室にいたからだ。後ろ姿しか見えなかったが、その女子生徒は机の中をゴソゴソしていた。前から2番目左から3番目の席。学年で1位2位を争うくらい頭が良くて、丸いショートカットがよく似合う佐野由紀の席だった。
彼女とは特別仲がいいわけでもないけど、会ったら話す程度の仲。それでも話しかけられなかったのは、その女子生徒の髪が長かったからだ。私はその生徒が誰なのかすぐに理解した。理解したから私は教室から死角になるように柱の陰に隠れた。
明戸杏奈は私が隠れた数秒後に教室前方のドアから出て行った。手には何も持っていなく、気付
かれた様子もない。私は教室に誰もいないことを確認して佐野さんの席に近づいた。机の引き出しには何も入っていないように見えたが一応手を入れた。すると私の右手は机の裏に張られたメモを捕らえた。四つ折りの白い紙はマスキングテープで固定されていて、中を開くとそこには日本史の問題の回答が書かれていた。考えなくても私にはその紙が意味していることが理解できた。
杏奈は佐野さんを陥れようとしている。佐野さんにカンニングをさせて、それをバラそうという魂胆だ。そしてこの紙は冤罪を有罪にするための証拠だ。名探偵となった私の推理はほぼ間違いないだろう。でも私は推理専門の名探偵。正直面倒なことに関わりたくないし、何より杏奈を敵に回したくない。
杏奈とは運がいいのか悪いのか、中等部からずっと同じクラスだった。杏奈の家はかなりのお金持ちで、杏奈も自分が一番じゃないと気が済まない性格だ。スクールカーストの頂点にいる杏奈に嫌われることは、この小さい世界での死を意味するといっても過言ではない。そして私はどういうわけか杏奈にすごく気に入られている。はじめは杏奈と仲良くできて嬉しいと思っていたが、彼女は典型的ないじめっ子だ。杏奈のことを理解してからは、上辺だけの関係になったが、この関係を壊す勇気は無かった。八方美人な自分を何度も嫌になったけれど、他の生徒は彼女に気に入られようとするのに必死であって、このポジションにいられることは奇跡なのだと自分に言い聞かせた。この世界で生きていくには彼女を敵に回せない。正しいことをしているとは思わないが、処世術だとは思っている。
そんなこんなでいくつか自分に言い訳をして私はその紙をもとの位置に戻した。そして当初の目的である自分の忘れ物を取って教室から出
「はっ…」
られなかった。心臓が止まりそうになったのは、ドアの前に男子生徒が立っていたからだ。彼の名前は深山慎樹。いつからいたの?どこから見てたの?聞きたいことは沢山あった。でも私は冷静だった。私は彼の事情を知っている。私だけが知っていることじゃなくて、みんなが知っていること。
彼は耳が聞こえないし喋れない。いわゆる難聴者だ。聞こえないからと言って彼が見たことを誰にも漏らさないという保証はないが、彼が誰かとコミュニケーションをとっているところを見たことが無い。みんな筆談が面倒なのか、そもそも彼に興味が無いのか、誰も進んで彼と関わろうとしない。それに彼自身も無表情で周りの人間に関心がなく、何を考えているかわからないようなタイプだ。つまりは彼が見たことを誰かに漏らされる心配はない。大丈夫。
そう思った時、昔の記憶が脳裏をよぎった。
私は彼の事情をもう一つ知っている。おそらく私だけが知っていること。
彼は本当は聞こえている。多分。
私は中等部一年の時、彼と同じクラスだった。入学当初、補聴器姿の彼は目立っていて、モラルのかけらもないクラスメイトは興味本位で彼をからかい、それが教師の目に留まったことがある。問題を解決しようとしたのだろうか、教師はからかった生徒を叱り、彼の耳のことをクラスメイト全員に説明した。多様性とか個性とかきれいな言葉を交えながら、遠回しに彼は耳が聞こえなくて話すこともできないと。私は隣の席にいた彼を直視できなかったけど、熱く語る教師を見ながらも、隣の彼に意識があった。だから私は気付いた。教師が話している最中に彼は小さく、誰にも聞こえないような声で言ったことに。
「右は聞こえるけど」
もっと大きい声で言えば、彼のその後の人生は変わっていたのかもしれない。それでもそうしなかったのは彼であって、彼がそうなることを望んでいると解釈し、私は口を挟まなかった。その後の彼の行動を見ても、あの選択は正しかったと思っているが、どこか罪悪感もあり、気にはなっていた。それからクラスも離れて、時間が経つにつれ彼の存在も、耳のことも忘れていた。彼は良くも悪くも空気のような存在だった。どうせ聞こえないんだしと割り切っているような…そんな感じ。でも今の私に彼の耳の事情なんて関係なかった。見られた相手が誰であれ、誰かに見られたことに変わりはない。彼が難聴ではなく盲目だったら話は別だけど。
彼と目が合ってどれくらい時間がたったのだろう。多分数秒しか経ってないんだろうけど私にはとても長く感じた。そんな沈黙を破ったのは彼だった。彼は私から目線をそらして、佐野さんの席の方を一瞬見て、また視線を戻した。そしてそのまま彼は私の前から去っていった。一人になった私は彼が去ってもなお茫然と突っ立っていた。言葉を発しない彼が私に何を言いたかったのか。一瞬目をそらしたのは私が佐野さんを陥れようと勘違いしたからなのかもしれない。それとも本当は何も見てなくてただ単に私と同じ空間にいたくなかったのかもしれない。いろいろ考えたが、当然何もわからず、私は佐野さんの席の引出しに貼られた紙を剥がして図書館に戻った。それでも結局全然集中できなくて私はすぐに家に帰った。
「用意、始め。」
担任の合図で一斉に紙をめくる音が教室に響きわたる。1限目の日本史。みんな少しは緊張しているのかもしれないが、私は違う意味で緊張していた。名探偵の推理ではこの日本史のテスト60分間の間に事件が起きる。私は一番左の列の後ろから2番目の席で、その3つ前に座っているのが杏奈だ。そして杏奈の斜め右前方向に佐野さんの席がある。私はカンニングを疑われない程度に二人を監視していたが懸念していたこととは裏腹に、事件が起こる前にテスト終了のチャイムが鳴った。一番後ろの席の人たちが回答用紙を回収し始める。もう何も起きないのか、と緊張の糸がほぐれ始めた。が、集められた四十二枚の回答用紙を担任が数えている時だった。
「先生。」
杏奈の声に担任は一瞬びくっと体を震わせた。まだ私語は厳禁のはずであって、クラスメイト達も動揺していた。
「どうした?まだチャイムなってないぞ。」
私は自分の鼓動が速くなるのを感じた。
「カンニングしている人がいました。」
教室は一気にざわついた。するとそこに教室の異変に気付いたのか廊下から見回りをしていた学年主任が入ってきた。
「何事ですか?」
「あっ…いや、その、カンニングをした生徒がいると。」
担任は名前を出さずに杏奈のほうに視線を送った。それを見た学年主任は杏奈に歩み寄った。
「誰なんです?明戸さん。」
杏奈はまっすぐ佐野さんを指さした。犯人はお前だと言っているかのようで私より杏奈のほうがよっぽど探偵らしいと思った。でもその推理は間違っている。
「佐野さんです。」
無実の佐野さんはきょとんとしているのが、背中しか見えない私にも安易に想像できた。
「何言ってんの?」
案の定佐野さんの声には驚きと怒りの色が見えた。
「私見たんです。佐野さんが引き出しからメモを取り出すところ。」
教室が再びざわつく。学年主任は騒ぐなと言わんばかりの大きな声で「とにかく!」と二人に向かって言った。
「二人は廊下に来てください。そっちで話を聞きます。」
佐野さんは指示に従ったが、杏奈は佐野さんの席の前で立ち止まった。
「そんなことしなくてもこれ見た方が早いですよ。」
杏奈は佐野さんの机の引き出しに手を入れた。自身に満ちていた杏奈が焦りに代わるのが見て取れた。
「……は?」
杏奈は慌てて軽いものをひっくり返すように机を逆さまにした。大きな音を立てて机が地面に痛々しく転がる。クラスメイトが注目する中、杏奈は空っぽの引き出しを覗き込んだ。それでもやっぱりそれらしき物は出てこなかった。
「…なんで。…気づいてたの?」
その発言が自分を追い込んでいることに気付かない杏奈に、周りは引いていた。周囲から「それはないわ」とひそひそ声が挙がる度、杏奈はさらに追い込まれていった。
「何のこと?言ってる意味が分からないんだけど。」
無実が証明された佐野さんは強気だ。
非難のまなざしを四方八方から受けた杏奈はそれ以上何も言わなかった。
「とりあえず明戸さんと佐野さんは職員室に来なさい。みんなは次の時間まで静かに待機するように。」
学年主任は無理やり場を収めようと杏奈を教室から連れ出した。役立たずの担任も3人について行ったため、監視員がいなくなった猿たちはすぐに騒ぎ出した。
「怜聞いてた?」
一人のメス猿がわざわざ遠くの席から近づいてきた。
「え?なにを?」
「杏奈が佐野の事はめるってこと。」
「うんん、全く。」
「初めてじゃない?杏奈が失敗するの。馬鹿だよね。茜莉たちに言っとけばもっとうまくやれたのに。ほんと笑える。」
自分のことを名前で呼ぶ人種が苦手な私にとって、以前から三好茜莉のことはどうしても好きになれなかった。また一つ彼女を嫌いになった。
「茜莉にも言ってなかったんだ。」
「そう、ほんっと意味わかんない。」
「でも何でこんなことしたんだろうね。」
「決まってんじゃん。前のテストで1位を佐野にとられたからでしょ。いい気になってたし。うざかったもんね。」
「あぁ…そんなことあったね。」
茜莉への嫌気と、本音を言えない自分への嫌気がいっぱいになったところで杏奈に減らされた短い休み時間が終わった。
今日の最終科目である二時間目の数学は、試験監督などやっているのを見たことのない体育の先生が監視に来た。さっきの騒動があったからなのか、無駄に見回りが多く、ただでさえ疲れている心臓が悲鳴を上げ、宿題のまんま出ていた問題さえも解けなかった。
次の日も、その次の日も、杏奈を学校で見ることはなく、長かったテスト週間が終わった。部活に入っていない私は、休日に特に行くところもやることもないので、せっちゃんのお店を手伝うことにした。
せっちゃんは戸籍上では私の母親に当たる。今年64歳になるせっちゃんは『割烹岩崎』の店主で、45歳彼女募集中の前さんと2人でお店を経営している。せっちゃんの旦那さんが3代目で、死後せっちゃんが引き継いでいるこの店は老舗というらしい。主に前さんが厨房で、せっちゃんが前さんの手伝いと接客をしているが、毎日せっちゃんの手料理を食べている身としてはせっちゃんの料理もお店で出せるレベルだ。ここら辺は観光地という事もあり、何人か常連客がいるのと、近くの旅館とかにも出していて結構繁盛している。
前さんは料理に関しては真面目なのに、普段はいい加減な人だ。今夏なんか、かわいい女の子を見るためなのか、単純に楽しんでいるのかわからないが、すぐ波に乗りに行き、肌を真っ黒にしてきた。皮膚がんにでもなるよと言ったことがあるが、それで死ねるなら本望とへらへらしていた。
料理が出来ない私が手伝うことと言えば主に接客で、後は仕込みの時に野菜の皮を剥いたりするくらいだ。ランチタイムの営業時間が終わり、片付けが済んだところで、何もすることが無くなった私は、客席に座ってテレビのチャンネルを変えたが、こんな時間に見たい番組もなくニュースでいっかとチャンネルを元に戻した。
「怜ちゃん、おなかすいたでしょ?」
厨房から声をかけてきたのは全身真っ白の調理服を着た前さんだった。
「うん。ペこぺこ。」
昼食は残り物とかでいつも済ませていて、今日は天丼だった。
「学校楽しい?」
前さんは海老天が大きい方を私にくれた。
「んーそんなに。」
「そうなんだ。翠蘭は頭いいから勉強ついていくの大変でしょ?」
「うん。内部進学できるくらいにはいるんだけどね。」
「大学かぁ。怜ちゃんは将来何になりたいの?」
「うーん、まだわかんない。」
私には夢がない。
「そっかぁ。でも大学に行けば見つかるかもね。」
「そうかなぁ。」
高校生になる時も同じような事を言われた気がする。
ゆっくり食べていると仕込みの時間になり、最後は駆け込むようにして食べた。
学校に行くのがいつもに増して嫌だった。努力して風邪をひこうと昨日は髪が濡れたまま寝たけれど、今朝いつもよりパサついてるくらいだった。パサパサの髪をいじりながら憂鬱な電車の時間を過ごし学校に向かった。そして教室には杏奈の姿があった。
「れーいおはよっ」
先週のことが嘘のような彼女の態度に私は戸惑った。
「おはよう…大丈夫だったの?」
「うん、平気。パパが出たらすぐ終わった。」
杏奈のお父さんは結構有名な社長だということは前から知っていたが、そんなドラマみたいにコネとかが絡む展開になるのは驚きだった。
「じゃあもう解決済み?」
「解決ではないかな。あいつに復讐しなきゃ。」
杏奈は振り返って佐野さんの方を見た。佐野さんは友達が多いタイプじゃないけど、周りが彼女から距離をとっていることは明らかだった。ひそひそ話に彼女は何も動じず、読書をしている。凛としたその姿に美しささえ感じ、目を奪われたのと同時に罪悪感に襲われた。
「意味わかんないよね。杏奈が何したってんだよ。」
(したでしょ。佐野さんは悪くないのに)
私は何も言うことが出来なかった。
それから数日が経ち、あの事件は無かったかのようにみんなの記憶から消えた。みんなが杏奈に対して抱いた負の感情もさっぱり。その分、トップに逆らった平社員の佐野さんはクラスから浮いて、私の心にある黒いモヤモヤはどんどん大きくなっていった。でもそれを話せる人も勇気もなかった。
「俺がいなくてもちゃんと学校行けよ?」
朝早くから呼び出され少々不機嫌な私は、人が多いところにいることで余計に苛立っていた。目の前の青年のキラッキラな瞳が鬱陶しかった。翠蘭学園高校競泳部は毎年全国大会に出場するほどの名門校で、宇野沢颯は中等部の頃から全国大会で優勝していた。颯とは小学生の時からの幼馴染、というと恋でも始まりそうだが、腐れ縁というほうがしっくりくるそういう関係。高校に進んでからも、どうやらすごいらしく水泳にエースという概念があるのかは知らないが、1年の時から部のエース的存在らしい。
明日からはじまる全国大会にむけて、部員を乗せるバスの前には、選手の家族やら友達やらでごった返していた。バスはちょうど校門の前に止まっていて、みんな卒業式前のようなテンションだった。
「わくわくウキウキで行っちゃう。」
「俺がいなくても毎日ご飯食べろよ?」
「三度の飯は欠かしません。」
「別に岩崎さんと毎日一緒に食べてるわけじゃないじゃん。」
私と颯のどうでもいい会話に入ってきたのは同じく競泳部の北沢海人。彼は高等部に外部受験で入ってきたから、正直よく知らない。ただいつも颯にべったりで、専属のマネージャーみたいになっているからたまに心配になる。颯にこき使われるとか私は一日も持たないから尊敬はするけどこうはなりたくない。
「怜、応援ほんとに来ないの?」
どうやら颯に北沢君は見えてないらしく、一度も横を向かない。
「平日の昼間にどうやったら行けんの。さっきと言ってること矛盾しすぎ。」
「いいじゃん学校なんて行かなくても。」
私は呆れて突っ込むのも面倒になった。
「それは授業料の無駄遣いだよ。私立なんだから。」
北沢君はマネージャーじゃなくて母親だね。と心の中で言っておいたが、これには私も納得させられたので、これからはなるべく学校へ休まず行こうと思う。 そうこうしているうちに部員が続々とバスに乗り込んだので、北沢君も焦りだし、颯を引きずる形でバスに乗せた。颯は私に金メダルと東京のお土産を渡すことを約束してバスへ消えていった。
私は視界から見えなくなるまで、目で、颯達を乗せたバスを追いかけた。
「グッドラックー」
誰にも聞こえない声で颯にエールでも送っておいた。
水泳部が全国大会に向けて出発した今日から、学校では文化祭に向けた準備が始まって、授業は無くなる。授業がないことは嬉しいことだが、私にとっては地獄の始まりだった。
翠蘭学園の文化祭通称「翠蘭祭」は高等部と中等部合同で行われて、高校生が主に出し物や模擬店を行うことになっている。中学の時は回るだけでよかった文化祭が、高校からはそうはいかない。1年は教室企画、2年が模擬店、3年がステージ発表と決まっている。大きな行事とあって私とは反対にみんなわくわくしていた。
「実行委員はホーム長と副ホーム長でいいな。」
私以上にやる気のなさそうな担任は、実行委員を坊主頭の男子と、杏奈に決め、「後はよろしく」と教室から出て行った。
まとまりのない話し合いの結果、模擬店は唐揚げを売ることになった。当日の店番以外に模擬店の看板づくりとエプロンのデザインをする。2年生は毎年売上額とエプロンのデザインをクラス対抗で競っている。勝ったところで何かもらえるわけではないが、士気を高めるのには必要なことなのだろう。1、3年生がクラスのTシャツで競うのに対し2年はエプロン。調理自習でしか役に立たなそうなものに、強制的に三千円も払わなければいけない。学生にとって大きな出費だ。
女子は二つのグループに分けられた。エプロンのデザインを考える班と男子と一緒に看板を創る班。エプロンのデザインを考えるのは地味な作業で、青春真っただ中の女子高生は男子と一緒に作業して文化祭を楽しみたいのだろう、エプロン班ははずれ役という認識がみんなの中で常識的に広まっていた。そのためくじ引きで決めることになり、教卓に置かれた箱の前に女子全員が集められた。
「うっわ最悪。」
その声であたりに緊張が走った。「代わってあげるよ」と誰かが言わなければいけないけれど誰も言いたくはないそんな空気で、息が出来なかった。エプロンと書かれた紙を引いたのは、杏奈、佐野さん、私、それからあまりしゃべった事がない女子2人を含めた5人だった。自分が「代わってあげるよ」という役が出来ないことにほっとしたが、こういう時杏奈のわがままを通しつつ場を収めるのは私の役目だ。みんなが杏奈と目が合わないようにそそくさと作業に入ろうと動き始める中、その場から動こうとしない杏奈に私は近寄った。
「どうするの?」
「ねえこれバックレない?杏奈もあっちがいい。」
「うーん。私はこっちのほうが楽かな。人数多いの苦手だし。」
「えー男子もいる方が楽しいじゃん。」
「杏奈、茜莉とあっち行っていいよ。上手いこと言っとく。」
「ほんと?怜ありがと。」
気が付いたら杏奈の顔色を変えないように、空気が乱れないように取り繕っていた。ずっとこのポジションで、また自分に嫌気がさした。この前の一件で私は初めて行動を起こせたのに、最後まで貫くことが出来なかった。根本はなにも変わっていない。ちょっとのことで人間はそう簡単に変わらない。
私と杏奈を除いた3人が机を合わせていたので私もそちらへ向かった。
「杏奈、実行委員だからみんなのところ回らないといけないみたい。だから先始めよっか?」
「…わかったよ。」
自分でも言いたくない言葉の本当の意味を理解したのだろう。3人は空気を読んで承諾してくれた。佐野さんはちょっと不服そうだけど。
「何からする?」
話し合いの指揮をとってくれたのは佐野さんだった。私はとても感謝したが、それは私だけのようだった。私は渡されたプリントを読み始めたが二人は目もくれない。そして少し沈黙を挟んでまた佐野さんが口を開いた。
「唐揚げなら鳥のイラストとか入れたらどうかな。」
なるほど。
「個別で描いて後で見せ合えばよくない?」
一人の女子が言った。
二人はあの事件のせいもあり佐野さんを嫌っていた。いやこの二人だけではない。クラスの女子のほとんどが彼女を遠ざけている。私は流石に係なんだからと思ったが、「それはないでしょ」と言う正義のヒーローにはなれなかった。
「別にいいよ。」
表情と言葉が一致していない佐野さんに私も同意した。すると二人はすぐに席を立ち、看板製作をしているみんなの輪に消えていった。
佐野さんは静かに鞄からルーズリーフを一枚取り出し、絵を描き始めた。納得のいっていない表情には怒りが混じっていた。それを押し殺すようにすらすらと迷うことなくシャーペンを動かす彼女を横でじっと見つめた。
「…何?」
「あっ、ごめん。絵上手いんだね。」
「えっそうかな。」
「佐野さん美術部だよね?」
「うん、まぁ」
「だからうまいんだ。」
「部活でこういうのは書かないけどね。でもデッサンとかよりこういうキャラクターみたいなもの描く方が好きなんだよね。」
「本当に上手いと思う。」
正直に言っただけなのに、彼女は少し照れながら喜んでいた。ほんとはこういう人なんだ。佐野さんって。頭が良くて、器用なのに、自分に厳しくて謙遜するからまわりとうまく関われない。そんな不器用なところが人間らしくて私は彼女が好きだ。好きじゃなかったら杏奈に陥れられるのを私は黙ってみているだけだったと思う。
「私絵心ないから店名のロゴでも作ってみようかな。多分、後の3人考えてこないから二人で役割分担しよ。」
「なんで…」
「あの2人、ワイワイ楽しい作業のほうがしたいんじゃない?杏奈も。」
「そうじゃなくて。何で岩崎さんは協力してくれるの?」
「え…」
あなたが今嫌われているのは私のせいだからなんて言える訳がなかった。
「私も…エプロンの係だし。」
「そっか。岩崎さんみたいに優しい人もいるんだね。」
優しくなんかない。心の中の黒いモヤモヤに棘が生え、私の心臓を傷めつけた。
教室の真ん中で看板を作っているクラスメイト達は何度もこっちを見てはニヤニヤ、コソコソと何か話している。佐野さんもよっぽど鈍感じゃない限り気づいているだろう。
「ねえ、場所変えない?」
ほら、やっぱり。
「どうして?」
「行きたいカフェがあるの。」
やっぱり彼女も居心地が悪かったのだとわかって、ついていくことにした。文化祭の準備期間は点呼さえ受ければ、校舎の出入りが自由だった。そのため、みんな昼食をファミレスでとったり、好きな時間に帰宅していた。
佐野さんについていくと駐輪場についた。そこで彼女が自転車で行こうとしてると知り、自転車通学じゃない私は颯の自転車を借りることにした。後で報告しとけばいいやと思ったし、別にしなくてもいいかとも思った。自転車に乗った佐野さんについていくとカフェというよりは喫茶店という感じのレトロなお店に着いた。11時前ということもあり、お客さんは一人もいなかった。それほどお腹もすいていないので、彼女はクリームソーダを頼んだ。私も同じものを注文した。
「ここ良くない?」
「うん。私もこういう雰囲気のお店好き。静かだし落ち着く。」
「ほんと!嬉しい。今流れてる音楽、レコードで流してるんだよ。」
「詳しいね。」
「すごく落ち着くの。いやな事とか忘れちゃいそう。」
いやな事という言葉に引っかかった。
「ねぇ…岩崎さんも私が明戸さんをはめたと思ってる?」
「え?」
直球過ぎる質問に固まった。
「あ、いや…明戸さんと仲いいから聞こうか迷ったんだけど。岩崎さんは信じてくれる気がして。」
「佐野さんが杏奈をハメたなんて思ってないよ。」
「どうして?」
私のせいだから。そう言うべきか迷った。
「だって…」
カランコロン
お店にお客さんが入ってきた。黒のブレザーにベージュのズボン、うちの制服で右耳に補聴器が付いている。彼だ。私が入り口を見ていると佐野さんも振り返った。
「あれ?深山君じゃない?」
彼と一瞬目が合った気がしたが、特に話しかけることもなく、入り口付近の席に座った。私の視線の先にちょうど彼がいる。
「びっくりしたぁ。ここで翠蘭の人見たの初めてかも。」
彼を見て自分の脈が速くなるのを感じた。ドクンドクン。波打つ鼓動は私に針を何度も突き刺しているようだった。彼が見ている。何も言わない彼が私には圧力だった。彼が知っている証拠はない。彼は何も知らないかもしれない。なのに、彼を直視できない。多分、多分だけど言えと言っている。言わなければ…
「あのさ…私知ってるの。佐野さんがやってないってこと。」
彼女はきょとんとしていた。それから私は知っていることを全て話した。
「よかった。」
私は彼女の言葉を疑った。
「え?なんで…怒らないの?」
「なんで?一人でも私がしてないってこと分かってる人がいたんだよ。嬉しいよ。」
「でも私がみんなの前で説明してれば、佐野さんがみんなから…」
『いじめられることはなかった』とは言えなかった。
「浮いてるよね。私。」
「…ごめんなさい。私のせいで。」
謝ることならいくらでもできると自分に言い返した。佐野さんは俯いて、静かに首を横に振った。そしてすぐに顔を上げた。ひきつった彼女の笑顔が、私の心を締め付けた。
「最近、どうでもいいかなって思ってる。明らかにあっちが悪いのに、何で私が振り回されなきゃいけないんだろうって思って。そういう頭が悪い人間に私の夢邪魔されたくないし。」
正論だと思った。思ったけど杏奈に何も言えない私は、もっと頭の悪い人間だと言われているような気がした。
「夢?」
佐野さんは困惑しているような顔をした。タブーに触れてしまったと後悔した。
「あぁ、ごめん。夢とかないから聞いてみたかっただけ。」
「検察官。」
驚いたと同時に納得した。佐野さんのお父さんは弁護士だから、そういう法律系の仕事かなとは思っていた。
「すごいね。」
「うん、すごいの。だから今頑張らなくちゃいけないの。」
「佐野さんは強いね。」
彼女は少し俯きながらそんなことないと呟いた。それから私たちはデミグラスソースのオムライスを食べてからまた学校に戻った。その後、学校で佐野さんとこの話をすることは無かった。
文化祭前日の今日は午前中にクラス対抗のエプロンデザイン最優秀賞の発表、午後に模擬店の設営、試作づくりがある。ほぼ佐野さんがデザインしたエプロンは完成度が高く、最優秀間違いなしの出来だった。朝、完成したエプロンがみんなに配られると、今まで佐野さんを避けていた人が手のひらを返したように称賛した。学校行事はすごい力を持っていると日本の教育に感心した。
全校生徒が体育館に集められ全校朝礼が行われた。文化祭に向けて気持ちがふわふわしている生徒で体育館はいっぱいになった。私も佐野さんへの罪悪感を感じつつも、彼女の努力が報われることを期待して穏やかな気持ちだった。
「次に2年生のエプロンデザイン賞を発表します。」
「待ってましたー!」
真夏の太陽みたいに暑苦しい生徒が会場を盛り上げた。それに周りの生徒も乗っかり体育館はクラブかと勘違いしそうになるくらいうるさくなった。行ったことないけど。
「最優秀デザイン賞は…」
「おーーーーー」
「2年2組!」
「イエーーーーイ」
自分のクラスが呼ばれクラスメイトが立ち上がってわかりやすく喜んだ。佐野さんに仕事を押し付けた三人に罪悪感の欠片も感じなかった。
「代表者は前に出てきてください。」
やっと佐野さんの努力が報われた瞬間なので目を凝らしてステージを見つめた。しかし視界に入ってきたのは佐野さんではなく杏奈だった。頭の上に大きなはてなマークが浮かび佐野さんの方をみると、私と同じ状況だったのだろう、彼女の頭にもはてなマークが浮かんでいた。そして段々落胆していくのが見て取れた。
「これ描いたのって佐野じゃねえの?」
私と同じ疑問を持った男子がしゃべっているのが聞こえた。
「まあ実行委員だし、エプロンの係だし明戸でいいんじゃね?」
「あーそっか。」
そうだ。杏奈は実行委員だから。そう自分に言い聞かせて、佐野さんを見ないようにした。
教室に戻り、記念撮影が行われたがその間杏奈は賞状を手から離すことはなかった。記憶をすり替えられたクラスメイト達は杏奈を囲んで各々写真を撮っていく。
それからはテントの組み立て、看板の設置と重労働が続き、女子の仕事は特になかった。そのためほぼ休憩時間と化し、各々しゃべったり、携帯をいじったりしていた。私はしゃべる人もいなく、携帯をいじるのもなんか悪い気がしたので作業をしている男子を見ながらぼーっと突っ立っていた。
「れーい。ちょっといい?」
振り向くと何か悪いことを企んでいそうな顔をした茜莉がいた。
「どうしたの?」
「ちょっと来て。杏奈が呼んでる。」
悪い予感がした。茜莉についていくと、試食制作のために開放されている調理室に着いた。中には杏奈と佐野さんがいる。
「連れてきたよ。」
茜莉に背中を押された。
「ねぇ、カンニングペーパー取ったのって怜なの?」
予感は的中して、頭の中がフリーズした。
「こいつがね、怜がやったっていうの。ひどくない?」
思わず佐野さんの方を見ると佐野さんは視線を逸らした。でも「何で言ったの?」とは言えなかった。
「怜がそんなことする訳ないじゃんね。こいつ最低だよね。」
杏奈は私がやったことを知っている。彼女の目を見て確信した。でも口にすることはできなかった。
「こいつ嘘つきだからさー罰与えてもいいよね?」
「やろやろ。」
茜莉が背後からじわじわ圧をかけてきた。杏奈は足元に落ちていた紺色の布を拾い上げ私に投げつけた。そしてキッチンバサミを調理台の上に叩きつけるように置いた。
「これ、切って。」
私はキャッチした紺色の布を広げた。大体何か分かっていたが、鶏のイラストが描かれているのを目の当たりにして、胸が締め付けられた。これはきっと佐野さんのだ。
「怜?切れるよね?切るよね?」
叩きつけたハサミをもう一度手にとり、近づいてくる杏奈と背後にいる茜莉の板挟みになり、身動きが出来なかった。
「こ、ここまでしなきゃいけない?」
「先に人のエプロン切ったのこいつだからね。同じことやり返さないと。」
「でも…なんで…私。」
「本気で言ってる?杏奈に嘘ついてない?」
首を縦にも横にも振れなかった。
「嘘ついてないならさっさと切ればいいじゃん。簡単なことだよ。」
もう一度佐野さんの方を見た。彼女は俯いていた。だから彼女の後ろが見えた。後ろの窓の先に耳の聞こえない彼がいるのが見えた。たまたま通りかかったのだろう。両手で段ボールを持っていた。彼はこちらに気付いて立ち止まりずっと私と目があったままだった。
あの時と同じだった。彼と目が合うとすべてを見透かされている気分になる。そして途端に、嘘がつけなくなる。
「…出来ない。」
俯いたままだった佐野さんはゆっくりと頭を上げた。
「は?」
「佐野さん嘘ついてないから…出来ない。」
「じゃあ怜がカンニングペーパー取ったって事?」
口をとじたまま深呼吸をした。そして杏奈の目を見て言った。
「そうだよ。」
「は?そうだよじゃねーよ。杏奈をだましたの?」
「そうじゃない。」
「じゃあなんだよ、言ってみろよ。」
「もう…終わりにしたかったの。」
ずっと杏奈の後ろに隠れてみて見ぬふりしてきた。やってることはいじめと一緒じゃないか。もうやめたい。
「もうだれも傷つけたくない。こんな事もうやめようよ。」
杏奈は私の肩を押し、「ふざけんな!」と叫びながら教室の端に乱雑に積み重ねられた段ボールの山に私を突き飛ばした。私は抵抗する力もなく、あっけなく段ボール山にぶつかり、そのまま倒れこんだ。すると上の方に積み上げられた段ボールが傾き、中から大量のペットボトルが降ってきた。そのうちの何本かは杏奈の近くにあるフライヤーに降り注いだ。その衝撃でフライヤーの蓋がはずれ、ペットボトルが油の中にダイブした。
「熱い!」
ゾーンに入っていたのか、スローモーションでその光景を見ていた私は杏奈の悲鳴で正気に戻った。腕を抑えてしゃがみこんだ杏奈に茜莉が駆け寄り、悲鳴を聞きつけたのか近くにいた教師がものすごい勢いで調理室のドアを開けた。
「何があった?」
緊迫した表情の先生は杏奈が腕を抑えているのに気がつき、すぐに水道の蛇口をひねり、杏奈の右腕を冷やした。
「何があった?」
一瞬の出来事にあっけにとられていた私は二回目の問いに答えられなかった。その代わりに茜莉が答えた。
「岩崎さんがやりました。杏奈に怒ってペットボトルを油の中に投げ入れたんです。」
自分が何を言われているのか理解が追い付かなかった。
「明戸、本当か?」
杏奈は何度も首を縦に振った。
何で?何でそうなるの?言葉にならなかった。
「佐野も見てたのか?どうなんだ。」
佐野さんは私以上に困惑しているように見えたが、心のどこかで彼女なら本当のことを言ってくれる気がした。
「佐野、どうなんだ。」
「…い…岩崎さんがやりました。」
何かに魂を抜かれたように、まっすぐ先生のほうを見て答える佐野さんの言葉に耳を疑った。
「…なんで?」
私は本当のことを言ったのに、なんで佐野さんは嘘をつくの?そう言葉にできなかったのは自分も同じようなことを散々してきたからだ。
「とりあえず、明戸を保健室に運ぶから、3人は教室で待ってなさい。」
副担任の先生が見張りにいたせいもあって教室では誰も口を開かなかった。
「え、何?」
教室にぞろぞろと戻ってきたクラスメイトは何が起きたのかは理解していない様子で、こちらを気にしつつも、空気を読んで口にはしなかったが、それが出来ない一部の男子が興味本位で周りの人と騒ぎ出した。副担任が一声かけて場を収めたが、空気の読めない彼らに苛立ちを覚えた。お願いだからこの件を大きくしないでほしいと心の中で願ったが、そうなるはずもなかった。何も知らないクラスメイトは、自分たちのクラスだけ教室に集められて不機嫌な表情の人もいれば、イレギュラーな事態にわくわくしている人、心配そうな顔をしている人とさまざまであった。いろんな色が混ざってほこりみたいに灰色になった教室に担任と校長が入ってきた。いつも気だるそうな担任だが今は違った。生徒指導の鬼と言われている体育の先生より何倍も怖かった。そんな担任を目にして教室に一気に緊張が走った。鼻をすする音さえせず、遠くのクラクションの音が真横で聞こえるようだった。
「昼食の前に校長先生から話がある。」
「知っている人もいると思いますが、先ほど明戸さんが火傷を負いました。事情を知っている人は今から配る紙に正直に書いてください。えぇ、それから明戸さんといた人は後で事情を聞くので残っていてください。」
クラスがざわついた。そこら中から「杏奈」と「火傷」という単語が飛び交い、気が狂いそうになった。鼓動が速くなり、冷や汗が出た。 バンっと大きな音が鳴り、ざわついていた教室が一瞬でまた静かになった。音源は担任が持っていた書類を教卓に叩きつけた音だ。
「いいか、怪我人が出てるんだ。今日に限ったことじゃない。今日までこのクラスで起きていたこと、知ってることは全部書け。関係ないじゃ済まされないぞ。見て見ぬふりするな。」
担任の脅しに空気の深刻さはさらに増した。校長も担任の行動に呆気にとられ、何も言葉を発さずに、後は任せたと言わんばかりに教室から出て行った。担任の言葉は、全員の心に深く刺さっていたように感じた。その後始まったアンケート調査がその証拠だ。みんな時間をかけて答えた。見渡す限り、何も書かずにぼーっとしている人はいない。だからだろうか、杏奈や茜莉が仕掛けた罠にはまり、誰も信じてくれないと人間不信になりかけていた私の心は少し軽くなり、気持ちに余裕が出てきた。ここにいる人は真実を語ってくれる。だから私も本当のことを書くことにした。杏奈が佐野さんをいじめていてカンニングの件がおきたこと、カンニングペーパーを取ったのは自分だということ、その後いじめがヒートアップしたこと、そして今日、調理室で起きたこと全部。文字で書くと案外勇気は必要なかった。担任がそう思わせたのかもしれない。
アンケート回収後は昼休憩まで自習だった。ほかのクラスから騒がしい声が嫌というくらい聞こえた。担任の代わりに見張りを任された副担任は教卓からみんなをしっかり監視しているようだったが、茜莉が机の下でスマホをいじっているのには気付いていない。
ガラガラと音を立てて教室のドアが開いた。
「佐野と三好、ちょっと来い。」
自分の名前が呼ばれなかったことに、安心しつつも不思議に思った。2人が教室から出ていくと、さっきとは一変して、あちらこちらでひそひそ話が飛び交った。みんなアンケートに茜莉の事を書いたのだろう。茜莉がいなくなって緊張がほどけたようだった。私はというと、話す相手もいないため、次呼ばれるのは自分だと覚悟を決めつつビクビクしていた。
案の定2人が呼ばれてすぐ後に私も担任に呼ばれた。会議室に向かう道中、担任の背中がやけに大きく見えた。
「連れてきました。」
会議室には2人の姿はなく、代わりに十数人の大人がいた。その中に私を見る目が獣のようなおじさんがいた。
「娘にケガを負わせてどう責任を取るつもりだ!」
会議室に入るや否やいきなり罵声を浴びせられ、恐怖で慄いた。
「明戸さん。落ち着いてください。」
教頭が立ち上がったおじさんをなだめて座らせた。その人が杏奈の父親だと理解するまで時間はかからなかった。
「とりあえず、ここに座りなさい。」
会議の議長席は、裁判の証言台と化した。
「今日の件はこの前のカンニングの件が関係しているというのは間違いないな?」
「はい。」
「じゃあまずこの前のカンニングの件に関して聞くが、佐野の席にカンニングペーパーを仕組んだのは誰だ?」
「…明戸さんです。」
「じゃあその紙を取ったのは?」
「私です。」
「どうして?」
「たまたま…見ちゃったんです。明戸さんが佐野さんの席にカンニングペーパーを仕組むところ。それで…佐野さんが…可哀そうって。」
「…そうか。アンケートにもそう書いてくれてたな。」
担任は心がないというか、生徒に無関心な感じがするが、よく言えば誰かに肩入れすることなく冷静に平等に物事を判断してくれる裁判官気質な人間だ。信じられる人間がこの空間に一人でもいてくれてよかったと心の底から思った。
「カンニングペーパーを自分が取ったとどうして今になって言うんだ?」
「それは…言いづらくて。」
「明戸たちは、岩崎が佐野を妬んでカンニングペーパーを仕組んで、それを明戸に見つけさせたと言っている。」
「…え?」
味方か敵かわからない担任が怖いと感じた。
「でも明戸はそれが出来なくてわざと失敗した演技をしたそうだ。お前に嫌われるのが怖くて。それで失敗した後、お前の佐野への恨みは増して、もっと佐野をいじめるよう指示されたと。」
「違います!絶対に。何ですか恨みって。佐野さんに恨みを持つことなんてありません。」
「そうか。岩崎の言い分はわかった。もう一つ質問していいか?」
私は静かに頷いた。
「調理室では何が起きた?」
アンケートを取った意味はあるのか聞きたくなったが、そこはこらえて質問に答えることにした。
「テントの組み立ての時に、三好さんに呼ばれて調理室に行ったら、明戸さんと佐野さんがいて、明戸さんに佐野さんのエプロンを切れってハサミを渡されました。それで切らなかったら、明戸さんが怒って私を段ボールの山に突き飛ばしてきて、山が崩れて…」
「わかった。」
言葉とは裏腹に、担任を含めた誰もが私の話を信じていないことは明らかだった。
「お前が佐野に明戸のエプロンを切れって言ったんじゃないのか?」
「…は?」
「明戸たちは佐野と岩崎がエプロンのデザイン賞とったのに、明戸の手柄みたいになってたことに対してお前が怒って、佐野に明戸のエプロン切れって言ったって。」
「ちょっと待ってください。そんなことしていません。」
正直に話せと杏奈の父親が声をあげた。
「じゃあ仮にお前の言っていることが正しいとして、お前に佐野のエプロンを切らせる明戸のメリットはなんだ?」
「知りませんよ…そんなこと。」
怒りに任せてしまい、落ち着かないとと自分に言い聞かせた。
「文化祭準備の時から私は杏奈から距離を置いていて、佐野さんと一緒にいたので、怒ったんじゃないんですか。」
「距離を置くというのは仲間外れにするという意味ですよね。」
教頭が急に口を開いた。
「…え?違います。そいう意味じゃ」
「じゃあどういう意味です?そもそも、その場にいた人間全員が同じことを言ってて、君だけがみんなと違うことを言っているのに、君をどう信じればいいのかね?」
「み…みんな?」
「そうだ。佐野もな」
担任の言葉で頭が真っ白になった。同時にここにいる全員が敵で、見方が誰一人いないことに気づいた。言葉を失った私を見て全員が私が黒だと確信したのが分かった。それでも私は言葉が出なくて、代わりに涙が出た。
「君には血のつながった家族がいないんでしょう?だから家族がいて何不自由なく生活できる佐野さんや明戸さんを妬んでいたのではないですか?」
教頭の言葉が頭の中で乱反射した。
「……違います違うんです。嘘じゃないんです。」
「この期に及んでまだ娘を悪者にしたいのか?これだから親のいない子供は。」
血のつながった親がいないことが理不尽にもち挙げられることは初めてではなかった。でも初めてじゃなくても慣れることでもなかった。スイッチが切れたのか入ったのかわからないが、私は気づいたら自分の気持ちをコントロールできなくなっていた、
「…親のいない子がなんですか?血のつながった親がいなかったら、ろくな人間に育たないっていうんですか?親のいない人間は何も信じてもらえないんですか?」
担任は小さい声で「おい」と言って止めようとしたが聞こえないふりをした。
「私は親がいても、嘘をついて逃げるような人間になるなら、親なんかいりません。」
「誰に向かって言ってるのかわかってんのか?」
杏奈の父親はカンカンだったが無視した。
「子供を信じることだけが親の役目なんですか?子供の過ちを認めて更生させることのできる人間が親じゃないんですか?そう考えたらあなたよりも私を育ててきてくれた人のほうがよっぽど親です。」
唇が震えていた。声も早口でガクガクだった。
「口を慎みなさい。今の暴言は退学に値しますよ。」
「明戸さんの親だけじゃありません。ここにいる全員おかしいでしょ。複数の生徒が同じこと言ってたら、例えみんなで口裏合わせててもそれが正しくなるんですか?」
「口裏合わせてる証拠でもあるんですか?」
「ありませんよ。私がやった証拠がないのと同じで。」
「なんなんだお前は。反省しないどころか人のせいにするなんて。娘は大火傷なんだぞ?一生跡が消えなかったらどう責任を取る?法的手段をとってもいいんだぞ?」
腰を低くした教頭はなだめるように言った。
「学校側も適切な処分をいたしますので大ごとにはしないでください。」
あぁこの人は私のことなんてどうでもいいんだ。学校や自分の面子を守ることだけしか考えてないんだと、今更ながら絶望した。
「君、謝りなさい。」
「…」
担任はもう目を合わせてくれなかった。
ずっと黙っていた校長が急に立ち上がった。
「岩崎さん、あなたは退学でいいんですか?岩崎節子さん、あなたの保護者は血のつながっていないあなたをここまで育ててくれたのでしょう?」
校長は資料をペラペラめくりながら近づいてきて話を続けた。
「高い学費を払って入学させてもらった感謝の気持ちはないんですか?悪いとは思わないんですか?」
「私の意見なんて関係ないんじゃないんですか?私が認めても認めなくても処分は最初から決まってるんじゃないですか?」
校長は私の前を通り過ぎた時、小さい声でつぶやいた。
「今謝れば、保護者への報告も退学も無しにすると言っているんだ。」
そのささやきは担任にも、杏奈の父親にも恐らく聞こえていた。もしかしたら部屋の後方にいる2年の担任団にも聞こえていたかもしれない。それでも大人は聞こえていないふりをしていた。ここには味方がいない。いや、ここだけじゃない。クラスにも、どこにもいない。こんな学校やめてしまいたい。そう思った時、校長の思惑通りにせっちゃんの顔が浮かんでさらに悔しくなった。せっちゃんはお金には困ってないから心配しないでといって、私立のこの学校に行かせてくれた。でも決して周りの生徒みたいに裕福な家庭ではなかった。亡くなった旦那さんの遺産を授業料に使っているのも知っている。頑張って勉強して、いい大学に行って、いいところに就職してせっちゃんを楽にさせようと思ったから行きたくない学校にも頑張って行った。それなのに今やめたら、せっちゃんに合わせる顔なんてない。自分の意地のせいで、せっちゃんを裏切りたくなかった。だから
「すいませんでした。」
「自分がやったって認めるんだな?」
担任が追い打ちをかける。
「はい。」
いいえ。
「佐野さんの机にカンニングペーパーを仕組むよう明戸さんに指示したのは君なのか?」
「はい。」
いいえ。
「明戸さんのご両親に何か言うことはあるか?」
「すみませんでした。」
私の心に開いた穴が広がっていくのを感じた。
「気持ちがこもってないと謝罪とは言えない。」
「火傷をさせてすみませんでした。」
「佐野さんや、明戸さんをいじめていたことも認めますか?」
広がった穴はついに私を飲み込んだ。
「…はい。」
管理職が互いに顔を見合わせた。そして代表するように校長が言った。
「我が校で深刻ないじめがあったのは事実です。ですから規則に従って岩崎さんを退学処分とします。」
一瞬耳を疑った。
「…待ってください。何でですか?認めたら」
「規則ですから。」
「は?」
担任も管理職の人間も2年の担任団も私に目を合わる者はいなかった。そこには絶望の二文字しかなかった。
つけが回ってきたんだ。いままで佐野さんがいじめられていたのを見て見ぬふりして、それでも悪者になりたくないからと中途半端にいい人間演じて、自分は悪くないと言い聞かせてきたつけ。
教師と自分への絶望で押しつぶされ、気付いたら会議室から逃げ出していた。外の空気が吸いたくて、4階の上にある屋上を目指して走った。昼休みにしか開かない屋上のドアは文化祭の準備期間はずっと開いていた。だから今日も、
ドンッ
鍵のかかったドアに思いっきり体をぶつけた。屋上のドアは開いていなかった。私は屋上をあきらめて校舎を出ることにした。階段を下りている最中に佐野さんがいた。私を待っていたみたいに。
「怜ちゃんが悪いんだからね。」
佐野さんは私と目が合うと、躊躇しながらも怒っていた。
「なんで嘘つくの?」
「なんでって、怜ちゃんだって嘘ついてたでしょ?」
何も言い返せなかった。
「自業自得だよね?」
私はまた返す言葉がなく、その場を去った。校舎を出ると、自分の呼吸が荒いのが分かった。それでもこの場から去りたい一心で校門に向かって走った。リュックもスマホも全部教室。もうどうでもよくなった。それでも足を止めたのは、校門の前に見覚えのある姿があったからだ。私は怒りや憎しみの感情が容易に外に出ないように鍵をかけ、ゆっくりとまっすぐ歩き出した。今は、今だけは彼女を無視して逃げようと心に決めた。
「せっかく持ってきてやったのにいらないの?」
「…」
「いらないなら川に捨てるけど?」
私はすれ違う時に腕に包帯を巻いた杏奈から自分のリュックを奪い取った。
「学校辞めたんだぁ。」
私は杏奈の声を無視してそのまま学校を出た。学校の前には川があり、いつも校門から直結している橋を通ってみんな通学している。もうここを通ることは無さそうだ。
「辞めたんじゃなくて辞めさせられたんだっけ。」
「…」
歩くスピードを上げても小さくならない声と足音から彼女が後を追ってきていることに気がついた。
逃げさせて。そう心の中で叫んだ。今は、杏奈と話したらどうにかなってしまうと思った。
「逃げんるんだ?」
私は足を止めてしまった。自分をコントロールすることはもうできなかった。振り向くと杏奈とは4,5メートルほど離れていた。私は急ぎ足で彼女に近づいた。
「逃げてるのはそっちでしょ?」
今の私に杏奈に対する躊躇とか何もなかった。
「は?」
「佐野さんが羨ましいならそう言えばいいじゃん。1番になりたいなら努力すればいいじゃん。なんでこんな汚いことするの?」
「汚いこと?これが汚いことなら、あんたも一緒にしてきたじゃん。」
言い返せなかった。杏奈の陰に隠れてきたからいじめの標的にならずに済んだが、その分ずっと杏奈と同じ景色を見てきた。何度も目を瞑った。それが間違いだと、あの日、あの放課後、耳の聞こえない彼に見られたあの時、気が付いた。言葉を発しない彼から間違っていると聞こえた気がした。だから変わろうとした。でも遅かったんだ。
「自分だけ抜け駆け?」
抜け駆け。過去にも同じことを言われた。
「そうだよね。自分だけなんて虫が良すぎる。」
私達からいじめられた人は、みんな死ぬほど辛い思いをしてきただろう。それを知っていながら一緒になってみんなの人生をめちゃくちゃにしてしまった。きっと佐野さんも、一番恨んでいるのは私だ。私さえいなければ…。わずかに残る幼い時の記憶のなかで、母親にも言われた。『あんたがいなきゃ、幸せになれたのに』
「…償おうよ。一緒に。」
杏奈にも良心があると願って私は橋の手すりに立った。遠くで人影が何個か見えた。
「は?死ぬの?」
私は首を左下に動かした。杏奈に動揺した様子はない。
「死んだら、警察が動いて事実が明らかになるよ。杏奈も終わりだね。」
「やれるもんならやってみろよ。そんな度胸ないくせに。」
私はゆっくり左足を右足に寄せて、右足を左足があったところに動かした。右下に杏奈を見てそのまま重心を背中に寄せた。自分でも自分が何をしているのか分からなかった。
行動を起こす度胸がないと言われて腹が立ったのは確か。杏奈や先生たちに後悔させてやろうと思ったのも確か。いろんな人への罪悪感で押しつぶされていたのも確か。でももっと単純な感情が私を突き動かしていた。消えたい。いなくなりたい。自分が嫌い。強張った杏奈の顔が一瞬見えた。重力に逆らって、雲一つない青空に吸い込まれるような感覚がしたがそんなはずもなく、校舎や電線が次々と視界に入ってきた。校舎の屋上に人の姿はなかった。最後に冷たい感覚がして私の記憶は途絶えた。




