第50話「紅鳶の涙痕」
「……俺は、そんな二人が平穏に過ごせる世界があればいいなって思い続けていた。椿にとって俺が、そういう場所なら、ずっとそうでありたいって思ってた。
でもね、椿の笑顔を見てエノーラを思い出して、苦しくなってたのも本当。だから今度は笑顔まで喰べちゃった。無意識だったけど、椿を笑わせてあげたいって契約を願ったのに。強がりなエノーラと違って、素直に涙を流す椿を笑わせてあげたいって、苦痛を引き受けたい。でも全部だとダメだから、せめて分かち合える相手になりたい。そう思ってたのに……椿を苦しめてるのが俺だって、ちゃんと分かってたのに、なにもしてあげられなかった。ゴメンね。
でも、これからは、そういうのも見て見ぬふりしないから。そういうのが嫌なら、俺がずっと傍にいて聞いてあげる。椿の〝声〟をちゃんと聞いてあげる。遮ったりもしないし、ちゃんと信じるから。
だから俺の〝声〟も聞いて、信じて欲しい。我慢しないで、隠さないで、〝今度〟は言葉にして心を通わせたい。エノーラの失敗を活かすんじゃなくて、今回の椿との失敗を二度と起きないようにしたい、なんて思うんだよ。だから……俺に椿を大切にする権利をちょうだい?」
彼の優しい音吐が、私を包み込むかのように紡がれる。アッシュの両手は到底届かないのに、壊れ物を扱うかの如く抱きしめられているようだった。
言葉のない〝愛しさ〟が氷塊を砕いていく。それと共に湧き上がる罪悪感に、私は身投げしたい思いだった。
「ごめんなさい……」
責め立てた言葉が。怒りのままにぶつけた口舌が。彼へ注いだ罵倒の全てが、優しさという容で返ってくる。それらを全て素直に受け入れられるような可愛げのある少女だったのなら、私はこんな風に彼を傷付けなくて済んだのだろう。ならば恐らく、これからも彼を傷付けてしまう筈だ。
「ごめん……アッシュ……」
「椿、やめろ……!」
「本当にごめんね」
「戻ってきて……! 危ないから!」
考えるよりも先に足が後退していた。一歩、また一歩と削り取られた山肌へ近づいていく。死んでしまいと願う心胆は私を侵し、闇へと誘っていた。
片足を踏み込んだのなら、あとは深みに嵌っていくのみ。幾度も繰り返す謝罪に入り混じるのは、私を引き留める彼の声だった。
「私はアッシュに大切にして貰える資格なんてない」
ローブを脱ぎ去り、崖へと落とす。風に煽られて飛んでいったアッシュからのプレゼントは、呆気なくどこかへ行ってしまった。
紅く染まった涙痕に彼は何を思うのだろう。もう彼の隣にいたい、などと思えず、どうか幸せになって欲しいと願うばかりだった。
「やめろって!?」
ずっと疑問に思っていたことがある。何故、彼女はアッシュを手離すことが出来たのだろう、と。私だったなら絶対に無理だ。そう思っていた。
けれども、今なら分かる。〝死〟を目の前にした自身を、あんなに絶望的な顔で必死に引き止めてくれる人はいないだろう。それだけで愛されていることが実感できる。自然と唇が弧を描くのだ。だから彼女は幸せのまま逝くことが出来たのだろう。それこそ、愛する人の幸せを願えるほどに。
「ごめんね、大切にしたいって言ってくれてありがとう」
右足が地面に着かなくなる。重力に従うように落ちていく身体に、須臾の浮遊感。手を伸ばすくせに一歩も動けなかったアッシュは、未だエノーラさんの亡霊に取り憑かれているかのようで、少し悲しくなった。
こんなことで彼の心を縛れるなどと思っているのだろうか。愚かな人間だと蔑まれるだろうか。否、彼ならばきっと永遠に心に棲まわせてくれることだろう。私は、そんな彼を愛したのだから。




