第46話「赤香色の驟雨」
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世界で一番嫌いな声が聞こえた。哭す声が俺の意識を攫って行く。声の聞こえる方へ手を伸ばすと、白熱灯の光に目が焼かれた。
思わず瞼を下ろし、自身が眠っていたことに気付く。椿を感じることが出来ない胸に手を当て、不愉快な声の正体が何であるかを知り飛び起きた。
「椿……?」
「アッシュ……」
「なんで泣いて……!? 今すぐ……」
ベッドから降り立ち、素足のまま彼女のもとへ向かう。目元に手を当て拭っても、驟雨が止むことはなかった。
そしてすぐさま違和感に気付く。俺には何故彼女が号泣しているのかも分からなければ、泣いていること自体分からなかった。
「椿、約束破ったの……?」
よもや椿に煮え湯を飲まされるなどと思っていなかった俺は、その場に崩れ落ちる。考えるよりも先に、ぽたぽたと伝う月の雫が、執拗く恋心を表しているかのようだった。
業腹と共に哀情が渦巻く。あるかも分からない心臓を掻き毟りたくなる衝動を抑え、俺は目元を覆った。身を知る雨が止まない。所詮、人の言う〝約束〟など破る為にあるのだと悟る他なかった。
「約束?」
「……ハハッ……アハハハハ……!」
「アッシュ……?」
知らぬ存ぜぬ。そんな表情をされては言葉も返せない。憂きも度を超すと哄笑に変わるようだ。声を上げて笑う俺に、椿は怯えているように見えた。目に見えて狼狽している彼女が目を泳がせている。それが滑稽で更に笑えた。
「椿にとって俺ってなんだったの?」
「どういう意味?」
「大切とか言いながら結局捨てるんじゃん。理由は? 飼い犬に手を噛まれたから?」
「何言ってるの?」
「答えろよ!! 今、どんな気持ち!? 分かんない……何も分かんないんだよ。椿のことを考えても分かんないし、椿のことをどれだけ想っても全然……全然分かんないんだよ……!」
肩で息をしながら叫び散らす。立ち上がって彼女を見下ろせば、ぼろぼろと真珠を零していた。
何故、彼女が泣くのだ。泣きたいのも、苦しいのも、俺独りだろう。だって、契約を反故するのは主にしか出来ないのだから。
「アッシュ、ごめんね……」
欲しいのは謝辞じゃない。けれども、あの時の奇跡は二度と起きない。ならば俺は彼女に縋るしかなかった。
「ごめんねってなんだよ……約束破ってごめんねってこと? ふざけんなよ! アンタ達人間はいつもそうだ! 何が俺の為なんだよ!? 俺は、いつだってアンタ達と生きて死にたいって思ってるのに! ……置いてくのはいつもアンタ達じゃんか!?」
出来ない。またこんな想いをするのかと思えば、縋ること一つ出来なかった。
椿なら信じられると思ったのに。そんな思惟が脳漿を巡っては俺を追い詰めた。
「なんで契約切ったの……?」
「切ってなんかない!」
「嘘吐くなよ! 俺には椿の感情が流れてこないんだよ! そんな言葉で騙すな!」
「騙してない! 本当だよ! チェスターが……」
「チェスターって誰!? ココどこ!? なんで俺寝てたの!? 起きたら椿のことが分かんなくなってるし……なんなんだよこれ!?」
「アッシュ……」
「もう誰も信じない……! エノーラも俺に内緒で色々と……椿まで俺を裏切って……椿の嘘吐き!!」
「嘘吐きはアッシュでしょ!?」
今迄、声を荒げたことのない椿が怒声を上げる。吃驚に彼女を仰げば、此方を睨み付けていた。
俺は嘘を吐いた覚えなどない。目を瞠るも、ただの八つ当たりのように思えて心悲しくなった。
「私の話聞いてよ!? 私の涙を引き受けてくれるって言ってたくせに……今、泣かせてるのはアッシュじゃない!! 私は契約を切ってない。本当よ!! 信じて……!!」
「じゃあ、どうして椿のことが分からないんだよ……そこまで言うなら証拠を見せてよ!?」
「証拠なんて……」
「ないんでしょ!? ないなら嘘じゃん!?」
「……もういい。どうせアッシュの一番はエノーラさんなんでしょ!」
咆哮した彼女が外へと駆けていく。唖然として立ち尽くしていれば、白い髪の女性が追いかけて行った。
勿論、俺は追いかけることなど出来ない。女性がいたことすら認識していなかった俺は、力尽きたようにソファに倒れ込んだ。




