第36話「朱華色の嘲笑」
——イグーリカという国に行ってみるといい。そこに三賢者の一人もいる。その国には不老不死のクラウンがいるらしい。報告が上がってきた為、メルキオールが調査に向かったところだ。良かったら行ってみるといいよ。
あの夜、クレイグは私にそう言うと帰って行った。何をしにきたのか問い質そうにも、アッシュも彼の真意は知らないらしい。たまにフラッと立ち寄っては、あの類の言葉を口にして惑わしていくようだ。もう二度と来ないで欲しい。いつかアッシュを連れ去ってしまいそうで怖いから。
「椿! 大丈夫!?」
「あ、うん」
「大丈夫じゃないでしょ!? 壁にぶつかるところだったんだよ!?」
「ごめん」
心にもない謝罪を繰り出す私に、アッシュが眉を顰める。けして怒っているわけではなく、哀愁漂う表情をされるものだから、私はますます顔が見れなくなった。
「サーカスはいつも広場とかでやってるんだって」
「そう」
「昼間は無料で宣伝的な感じみたい」
「そう」
「疲れてる?」
「ううん」
「何か悩んでる?」
「ううん」
「俺に言えないこと?」
「ううん」
「嘘吐き」
隣を歩いていた彼が立ち止まる。ハッとして背後を仰げば、胸元に爛れるような痛みが走った。
「アッシュ?」
心臓の位置に手をやり衣服を掴む。縒った皺は私達の関係性を表しているかのようで嗤えてきた。それを出さぬよう、否、出せない私の目に嘲笑を浮かべるアッシュが映る。全てばれてしまっては隠し立てする意味もなかった。
「なんで嗤ってんの?」
「……今のは……」
言いかけた言葉を口腔に含み唇を引き結ぶ。どう伝えていいか分からない私には、淀んだ感情を垂れ流すことしか出来なかった。それを察したアッシュが不安を覚え、私の表情を象る。好きで一緒にいる筈なのに、今はアッシュの隣を歩くことが、とても苦しく思えた。
「今のは? 俺は確かに椿の想いが分かる。汲み取ってやりたいとも思う。でも所詮、悪魔の俺には全部を解ってあげることは出来ない。言ってくれなきゃ、何に悩んでるかとか、俺に対する不満とか、何も分からないままなんだよ。
俺は椿に負の感情を与えたくない。俺は、そもそも闇から生まれたわけだし、それらが流れ込んでしまうのは椿の身体に良くないんだ。でも、ずっと溜めておくことだってできないんだよ。俺に人間らしさを植え付けたのはアンタら人間なんだから……!」
焔に焼かれているかのようだった。否、これは本来の彼の力なのだろう。揺らめく影が焔のように燃え上がり、アッシュの身体を包み込む。喉が渇くような感覚は私を蝕み、浅ましい感情が濁流のように私を呑み込んだ。
「アッシュ?」
暴走なのだろう。私の心が彼を触発し、悪魔としての彼を呼び起こしてしまったのだ。感情を制御出来なくなった彼の言葉が漏れ出てくる。脳漿を直接叩く口舌は槍のように鋭く尖っていた。
——捨てないで。殺さないで。愛して。どうして。どうして。どうして。どうして。
「そうだ。俺はエノーラと生きてる頃に——」
「寝なさい。大丈夫、君は誰も傷付けない」
アッシュの言葉を掻き消すよう、穏やかな男性の声が響いた。先程まで流れ込んできた辛苦が嘘のように引いていく。思わず腰を抜かし、その場に尻餅を着くと手を差し出された。
「カメリアの君、お会いできて光栄です」
声の主を仰ぐ。さすれば曇天を背に微笑を浮かべる青年がいた。
彼は片手でアッシュを引き摺るようにして担ぎ、もう片方の手を私へ差し出している。誰かは分からなかったが、私達の〝仲間〟であることは分かった。