第35話「退紅の想い」
「お客さんが来るなんて聞いてないわよ」
椿の声が首筋に刺さる。慌てて背を仰げば、いつの間にか俺の背後に椿が立っていた。
どうやら俺は彼女が起きたことにも気付かないくらい話に夢中になっていたらしい。どこから聞かれていたのだろう、と狼狽していれば、頭を抱き込まれた。
「大丈夫。アッシュが忘れて欲しいなら全部忘れてあげるから」
こういうところがエノーラにそっくりなのだ。自身のことより他人のこと。清らかさ故に、相手を追い詰める。清澄であることの何がいいのだろうか。エノーラは、そうして人々に裏切られたというのに。
「ごめん」
「いいのよ。でも、あまり悲しくなったり、怒ったら眠れなくなっちゃうよ。アッシュの心も私に流れ込んでくるんだから」
俺が彼女の想いを喰む時、自らも体感しているような錯覚を覚える。彼女は俺の感情が流れてくる時、匂いを嗅ぐ様に似ていると言っていたのだが、それは一体どのような感覚なのだろう。時には痛みとして表れるとも言っていたし、それならば俺は、椿を苦しめているばかりのような気がした。
愛することは辛いが、愛されることも辛いのだ。突き放せない相手だからこそ、もっと近づきたくなる。ソレを許せない自身と、それを許してくれる彼女。俺達の関係は罪悪で溢れていて、赤い糸などとっくの昔にこんがらがっていた。
それでも繋がっていて欲しいと思う。即ち、認めたくない答えは認めたくないだけで、とっくに鼻先に突き付けられていた。
「どなたか存じませんが、アッシュを苛めないでください」
「苛めるだなんて人聞きの悪い。私は彼の為に、と……それより挨拶がまだでしたね。初めましてではないのですが、まぁ、初めましてということにしておきましょう。私はクレイグ、バフォメットです」
ソファから立ち上がったクレイグが握手を求め此方に赴く。椿は、それを一瞥すると、一線を引くかのように流れる川を創った。彼と俺達の間には煌びやかな小川が流れる。それは細く、ささやかで小川と呼ぶに相応しいように思えた。尤も水流は激しく、とても見た目にそぐわない。まるで彼女の心を表しているかのようなそれは、猛々しく存在を主張していた。
「バフォメット。黒ミサを司る、山羊の頭を持った悪魔。両性具有で、黒山羊の頭と、黒い翼をもつ姿で知られている。魔女たちの崇拝対象。
悪魔なら流れる水を渡れない。そうですよね」
「これはどういった挨拶でしょう?」
「私は怒ってるの。どうしてアッシュの心をこんなに乱したの? 苦しませないで。泣かせないでよ……! これから先、辛いことが沢山あるかもしれないのに、〝今〟まで苦しませないで!」
「今、泣かせているのは椿さんですよ。どうか心を鎮めてください」
彼女の想いが流れ込んでくる。激流は俺は呑み込み、飲み下す前に落涙として現れた。なんとか止めようと嗚咽を堪えるも制御できない。喰らうことの出来ない感情は椿に還ったようで、珍しく真珠が頬を伝っていた。
クレイグの言葉に目を見開き、俺を見下ろす椿。途端、苦し気に眉を顰め、溢れんばかりの謝罪を告げてきた。言葉にならないそれが俺を包み込む。笑うことは出来なかった為、月の雫を拭ってやることしか出来なかった。
恋の軋む音が聞こえる。抱えきれなくなった激情を分け合う俺達は、お互いを慰めるかのように抱き合った。尤も、俺が椿の胸に飛び込む形になっていたけれど。
「ごめん」
「いや、大丈夫だ。心配かけてごめん」
謝罪は嫌い。
そんな彼女の言葉が聞こえてきたような気がした。時折こうして強い想いが言葉になる。零れてくる言の葉は全て俺を想って形作られたもの。それを思えば、どんなものでも愛せるような気がした。
絶対に想いは伝えない。それでも愛するくらいならいいだろう。暫くすると魔法の川は消え去り、リビングは日常を取り戻していた。
「大丈夫そうだね。改めまして、私はクレイグ。アッシュの友人なんだ。君達が契約したばかりの時に一度顔を合わせているんだけど、忘れちゃったよね」
「友人?」
「古くからの友人だ」
確認するかのように椿がそれを反芻する。俺が肯定し、椿に座るよう促すと彼女は大人しく従った。クレイグにも目配せすると、彼はにこやかに向かい側へ腰掛ける。
結局、握手は交わさなかったが、彼への警戒心は少し解けたようだ。俺が、どう説明すべきか考えあぐねているも、二人は俺を混ぜる気はないようだった。
「何しに来たんですか?」
「不老不死について収穫はあったかなってね。単刀直入に訊こう、アッシュと契約を切る気はないかい?」
「ありません」
「即答だね」
「当たり前じゃないですか。それがアッシュとの約束です」
「……そういうところまでそっくりだね。じゃあ、私が掴んだ情報をあげよう。不老不死なんて夢物語が叶うよう足掻いてみてくれ」
彼はそうして次の世界を指定すると、窓から飛び立って行った。椿は、どこか機嫌悪げで、俺はどうしたらいいか逡巡ばかり。結局、何一つ言葉は紡げず、時間ばかりが過ぎて行った。