第23話「紅色の敵意」
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黒い犬。私の記憶の片隅には、いつも黒い犬がいた。いつからだなんて分からない。けれども、アッシュは、いつも河原で座り込んでいた。犬がお座りをする形で、朝も、昼も、夜も。早朝も、黄昏も、午夜も。春夏秋冬、変わることはなかった。
両親は忙しい人で、私はお手伝いさんに面倒を見て貰っていた。その為、人と接する機会は極端に少なく、友達というものも居ない。もしかしたら、この容姿のせいで、そういう幼少期を過ごすよう強制されていたのかもしれないが、当時の私にとって、家の中と、窓から見える景色だけが世界だった。
高層マンションから見える河原には、いつも黒い犬がいる。私は間近で見たこともない彼に恋い焦がれ、大きな窓の前で真似ばかりをしていた。
お手伝いさんが、たまに連れてくる飼い犬なんかよりも彼の方が美しい。撫でるのなら彼がいい。いつしか好奇心が私を蝕み、言いつけを破らせた。
所謂、悪魔に憑かれた状態だったのかもしれない。黄昏時に、お手伝いさんの目を盗むのは簡単で、初めて一人で乗ったエレベーターも特に昂揚感を覚えることはなかった。
「ねぇ、犬さん」
河原には散歩中の犬が沢山いる。此方をチラチラ見てくる者はいたが、私はそれよりも彼に気を取られていた。
コッチを見て。君はどんな目の色をしてるの。ねぇ、ねぇ、ねぇ。
脳漿を巡るそんな想いに惑わされていく。手を伸ばして触れようとすると、それまで置物のようだった彼が後方へ撥ねた。
「お前、俺が視えるのか」
「え?」
「帰れ。二度と来るな」
私とお揃いの眼が敵意を映し出す。恐怖を覚えた私は、大声を上げて喚き散らかした。子供が一人で泣いていれば人が寄ってくるというもの。すぐさま大人達に囲まれた私は、初めての感覚に萎縮した。
怖くて言葉を繰り出せない。そのうち私の容姿について言及する者が現れた。やれ肌の色がおかしい、だの。やれ、目の色が怖い、だの。言葉の意味は分からずとも、悪意というのは何となく感じ取ってしまうものである。ワンピースの裾を掴み、爪先を見つめ続ける。そうやってジッとしていれば誰かが私を抱き上げた。疑問符を浮かべ相手を確認する。そこには見たことのない青年がいた。
「すみません。妹が迷惑をお掛けしました」
それが私とアッシュの出逢いだった。人に化けた彼だと分かるわけもない私は硬直する。それを安堵からくるものだと勘違いしたらしい大人達は「良かったね」と声を掛けてくれた。
何がなんだか分からずいれば彼が舌打ちをする。肩を震わせて表情を確認すると、明らかに怒りを浮かべていた。