第1話「椿色の香り」
カーテンを開ける音がアラームの代わりに響く。窓から注ぐ陽光から逃れるかのように、私は布団の中に潜った。ベッドのスプリングが軋むと同時に身体が揺れる。鼻孔を擽るのは味噌の香り。それと同時に、嗅ぎ慣れたシャンプーの匂いが近付いてきた。
「起きて、椿」
「んー」
睡魔に勝つ気などない。起こしてくれる彼は、一度の声掛けで目覚めないことなど分かっている。だからこそ布団を持ち上げ、中に潜り込んでくるのだ。
「あったかい……」
「毎日飽きないねぇ」
「でもフワフワじゃない」
「毛並みは最高でしょ?」
「私が育てたからね」
「育てられた覚えはないし、自分で育ってんだけど。でもアンタが言うなら、そういうことにしてあげる」
「ゴールデンレトリーバーがいい」
「ラブラドールで悪かったな!」
「寒い……」
「早く起きて。朝ご飯が冷める」
布団を剥ぎ取られた私は、眉を顰めながら瞼を持ち上げる。さすればラブラドールレトリーバーの顔面が至近距離に在った。
黒い毛並みが艶々している。左耳の毛が鈍色の彼は、犬にしては美しい様相をしていた。拗ねたような口吻に似つかわしくないほど、緋色の瞳は優しさを映している。それに対して笑みを零したつもりだったのだが、微笑を浮かべたのは彼の方だった。
「なに笑ってんの?」
「笑ってるのはアッシュでしょ」
「椿が笑ったから笑ったんだよ」
ベッドの上で身体を起こした彼が人へと姿を変えた。肩で切り揃えた髪が嫋やかに揺れている。鈍色の耳はアッシュカラーのメッシュに変わり、右側の横髪はバツを模したピンで留められていた。美青年と称するに相応しい彼は、切れ長の目元を緩めたまま口唇を綻ばせている。それに首を傾げていると、〝早く起きるように〟と頭を撫でられた。
「今日は和食の気分でしょ? 味噌汁と、ご飯と、ホッケと、ほうれん草のおひたしを用意してあるから」
「ダシ巻きは?」
「それ今食べたくなったでしょ」
「うん」
「はぁ……じゃあ今作ってくるから。椿はちゃんと着替えてキッチンに来ること。いい?」
「分かった」
首肯しながら欠伸を一つ。身体を起こす様を見届けた彼は「ちゃんと起きてよ」なんて念押しすると部屋を後にした。
バーゲスト。
不吉の先触れと言われる彼は、その名を冠する悪魔だった。呼び名は他にもあり、バーゲストの他にブラックドッグ、ヘルハウンド、黒妖犬などと呼ばれている。伝承の中のバーゲストは、燃えるような赤い目に黒い体の大きな犬の姿をしているらしい。各言う彼は、黒の毛並みを携えたラブラドールの容をしていた。
伝承は多岐にわたり、バーゲストは主に夜中、古い道や十字路に現れると言われている。真偽のほどは定かじゃないが、私が彼と出会ったのは逢魔が時の河原だった。
言伝えでは鎖を引きずり、角と鉤爪のある赤い目の黒犬の姿を好んでとると言われているが、熊の姿であったり、首のない人間の姿で現れることもあるそうだ。
しかし、彼は赤い目を携えている以外、普通の犬だった。いや、人語を話す時点で〝普通〟とはかけ離れているのかもしれない。けれども、私の容姿は既に常人と違えている。そんな自身が、彼を指差し笑うなど有り得なかった。