殿軍 本多忠真
「肝を冷やしましたぞ」
郎党の一人が言う。
「まったくじゃ」
忠真は大きく息を吐いた。そして背後を振り返る。
甥である鍋之助は悔し気な視線を向けてくる。
危なかった。敵将目掛けて突っ込んでいった鍋之助だが、逆に討ち取られそうになった。忠真は慌てて追いつき、割って入って敵将を切り下げたのだった。
しかし、忠真の目から見ても鍋之助は武芸にも秀でていた。無論、その身を託された以上、文武両道の立派な士へ育て上げることが忠真の使命のようなものであった。
そんな甥だ。そろそろ自分の力量がどれほどか試したかったのだろう。
「お前を死なせたら兄者に会わせる顔が無い。良いか、鍋之助、無謀と勇気は違うものだ。左様心得て置くように」
「はっ、叔父上、心得ました!」
鍋之助は表情を一変させ、頷いた。いつまでも気持ちに流されず切り替えが早いのが鍋之助の良いところだ。
「よし! ではついて参れ、はぐれるなよ! 皆もすまんが、鍋之助のことよろしく頼む」
「応、お任せあれ!」
郎党達の返事が合戦上に木霊する。
ワシが見本にならねばならん。鍋之助の将来のためにも、徳川の未来のためにも。この子には素質がある。
忠真は馬を進めながらチラリと甥を振り返り、そう己自身の心も改めたのだった。
二
徳川の未来のため、戦は続く。
鍋之助も奮迅し敵の刃を弾き返したりもしていたが、郎党達がその補佐を忘れなかった。
そろそろ鍋之助にも武功を立てさせてやりたい。
合戦中にそんな余裕があるのかは分からない。
忠真は一人の敵兵を斬った。
その雑兵の亡骸を一瞥した。
合戦の真っ最中だが、この戦いでやはり鍋之助には初手柄を立てさせ、徳川の未来の武士として自信をつけてもらいたい。
「鍋之助、この敵兵の首を取ってそなたの手柄としろ」
忠真が言うと、甥はかぶりを振った。真剣な双眸がこちらを見据える。
「叔父上、そのお心遣い感謝いたします。ですが」
「ん?」
「私は私自身の手で手柄を立てとうございます。御免!」
鍋之助が馬を走らせた。
「こら、鍋之助!」
そうして敵陣から鍋之助は一つの首級を取って戻って来た。
その姿を見て忠真は感激し思った。天の兄上よ、見ておられますか、鍋之助は立派な男に育ちましたぞ。
「敵の首でございます」
「うむ、ようやった!」
この年にしてこの胆力。鍋之助ならば、徳川の未来を託せる武将になるだろう。再び心が熱くなる。
「皆、鍋之助に負けるでないぞ、突撃!」
忠真はそう下知し、自らも勇躍して槍を振るい敵陣へと躍り込んだ。
三
平八郎忠勝。
鍋之助の新たな名だ。
不意にその姿が威風堂々大きく見えた。
うむ、ワシもまだまだやれる気でいたが、老いたのやもしれんな。
忠真は自嘲する。
そうして徳川のために忠勤に励んだ。
そんな中、武田信玄が西上するという報告が入った。
主君、徳川家康はこれを通せば織田との間に亀裂が入るだろうと予測し、三方ヶ原に陣を構え、武田を迎え撃った。
しかし、武田は噂通り精強だった。三河武士達が次々命を散らす。
劣勢、更に窮地に追い込まれた。
こうなれば退却するより他はない。
「殿軍はこの本多忠真にお任せ下され」
忠真の言葉に若い主君は頷いた。
「相分かった、忠真、頼んだぞ」
「はっ!」
自陣に戻ると、忠勝が駆けてきた。
「叔父上、この平八郎忠勝いつでも出撃できます!」
「おお、忠勝」
忠真はその姿を見て安堵する己に気付いた。
まったく知らぬ間に大きくなりおって。だからこそ、徳川の未来を安心して任せられるというもの。
「忠勝、お主は城へ戻り、家康様をお守りしろ」
「何と、仰せられます。それでは叔父上は」
「殿軍の指揮を取ることになった」
「ならばそれがしも戦います!」
忠勝が迫る。
その広い両肩を忠真は叩いて、いつ間にか大きくなった甥の顔を見上げた。
「行くのだ、忠勝。徳川の未来を安泰にするにはお主の力が要となるであろう。さぁ、行け、本多平八郎忠勝。ワシの自慢の甥よ!」
忠勝の不動の眼光が逸れた。
「分かりました」
「よし。では、行け」
「はっ!」
馬上で忠勝がこちらに背を向ける。
「叔父上」
「何だ忠勝」
「叔父上は私の誇りです」
「そうか。忠勝、お主もワシの誇りじゃ。自慢の甥よ。徳川のために後を頼むぞ」
「承知。では」
忠勝が馬を走らせて行く。その姿が見えなくなるまで忠真は見送っていた。
地鳴りを感じる。敵が近い。
「皆、すまぬが、ワシに命を預けてくれ」
忠勝が去り、悲壮な覚悟を決めた武者達が頷く。
「よし、ならば」
そうして前方、姿を見せる敵影を見詰めた。忠真は槍を地面に突き立て、刀を抜いた。
「さぁ、来い、武田の木っ端武者ども、ここから先へは一歩も通さぬぞ!」
忠勝よ、後は頼んだぞ。