56.本当の姿
ほんの数分前――フエンが飛び出していったパーティー会場には、グリムロールが残っていた。
割れたガラス扉を見ながら、グリムロールはくすりと笑う。
「やれやれ、マスター君にも困ったものだ。ここは私に任せるなどと――普通は僕に任せて、というところじゃないかな? やはり、彼とレイアはお互いに必要とし合っている存在ということかな」
「一人逃げちゃったかぁ……じゃあ、一人殺そうかな」
「ひっ……」
騎士によって剣を向けられた女性が悲鳴を上げる。
黒印魔導会を名乗る少女はそんな女性を見てにやりと笑う。
子供のように無邪気な笑顔で、けれども邪悪な雰囲気は隠し切れていない。
「恨むならさっき逃げた子を恨んでよ? あたしは別にここにいる人殺すつもりはないんだからさぁ」
女性は震えて動くことができない。
グリムロールはちらりと横目で確認したのは、今にも動き出そうとしているフィナとヘイズの姿だった。
フエンの知り合いであり、他にも紛れこんでいる冒険者達が少女の下へと駆け出そうとしている。
(無理だね、間に合わない)
グリムロールは冷静だった。
冒険者達の距離から見ても、仮に今から駆け出したとして、女性を助けることは叶わない。
目の前で女性が無残に殺される――どころか、動いた冒険者達も狙われるだろう。
他の人質達も無事で済むとは限らない。
(随分な状況に残してくれたものだね)
「ちょっと、そこのあんた」
「ん、私かな?」
少女が指差したのは、グリムロールだった。
ピタリと冒険者達は動きを止める。
まだ、女性は斬られていない。
騎士はギリギリで動きを止めていた。
「何かな」
「さっきの子の執事でしょ? 連れ戻してよ、空気の読めないあんたの主」
「なるほど、君みたいな可愛い子に命令されるのも悪い気分じゃないね」
「は?」
少女は威圧するように言うと、騎士が女性の首元に剣を突き立てる。
ツゥ、と赤い血が流れ始めた。
グリムロールは無言のまま、それを見る。
「ふざけてんじゃないわよ、本当に。この状況が分からないの?」
「ああ、分かるとも。君は今優位な状況に立っている。優越感でいっぱいなのだね? そういう子はとてもいじめがいがあるということもよく知っている」
「あははははははっ!」
グリムロールの言葉を聞いて、少女は大きく笑い出した。
バサリとマントが翻り、黒竜の印象が露わになる。
少しして、少女はゆっくりと身体を起こす。
「一人殺すわ」
「い、いや――」
騎士が動いた。
冒険者達も間に合う距離ではなく、無残にもその剣は振り下ろされる。
ふらりと女性は態勢を崩すが、
「大丈夫かい?」
「……え?」
剣で斬られたはずの女性を支えていたのはグリムロールだった。
その場にいた誰もが驚きを隠せない。
たった今まで部屋の隅の方にいたグリムロールが、一瞬にして女性のところまで移動したのだから。
そして、剣を握っていた騎士は力なくその場に倒れ伏す。
その剣は――綺麗にへし折られていた。
「は……今の、なに?」
少女は驚きを隠せない。
目を見開いて、グリムロールを見る。
瞬間移動――そうとしか思えないほどの速さだった。
グリムロールは少女に目を向けることもなく、女性に声をかける。
「首元から血が……もったいないね」
「あ、あの……」
「もらってあげたいところだけど、私の食事は決まっているのでね。君のように美しい女性はその身に綺麗な血を宿したままにしていてほしい」
「無視してんじゃあないわよっ!」
ダンッと少女がテーブルを踏みつける。
魔法陣が足元に出現し、音を立てながら水が渦を巻いて出現した。
それはやがて竜の形となり、五匹の竜がグリムロールを睨みつける。
「ダメ上司に従ってここに来たのに、あんたみたいな空気の読めない奴本当に嫌い。あんたごとそいつも殺してやるわ」
「やれやれ、血の気が多い子だね。可愛い顔が台無しだよ」
「うるさい、死ね――」
ヒュンッと、風を切る音が響いた。
その瞬間、少女の作り出した水竜達は跡形もなく消滅する。
「嘘……」
少女は驚きを隠せなかった。
グリムロールの方は余裕の笑みを浮かべたまま、少女へと一歩近寄る。
少女は一歩後ずさる――だが、身体が思うように動かなくなる。
「な、なに……なんで……」
「やっぱり、君みたいな子は怯えた顔の方が素敵だよ」
「な、何なのあんた……あ、あたしが誰だか分かってるの!?」
「いや、分からないな。そうだ、名前を聞かせてほしい」
グリムロールの目が赤色に変化していく。
少女はそれを見て、小さく悲鳴を上げた。
グリムロールがまた一歩近づく。
「聞こえなかったかな、名前を聞かせてほしいんだよ」
「シュ、シュリム……」
「シュリムちゃんか、とてもいい名前だね」
にやりと三日月のような笑みを浮かべるグリムロールに、少女――シュリムが身震いをする。
先ほどまで確実に優位に立っていたはずなのに、目の前にいるグリムロールの雰囲気に圧倒される。
だが、シュリムにはまだ大量の人質がいる。
洗脳された騎士達は、シュリムの命令なら何でも聞く。
シュリムが命令を出す。
「こ、こいつを殺しなさい!」
だが、その命令と同時に、騎士達がその場に崩れ落ちる。
突然の出来事に、シュリムはさらに混乱した様子を見せた。
「は、はあ……? な、なんで……」
「どうやらマスター君がやってくれたようだね」
「マ、マスターって、さっきの女の子……?」
「まあまあ、私の話が聞きたいのならゆっくりと聞かせてあげるよ」
黒い影が大きくなっていく。
グリムロールの身体を包み込むと、その姿は異形へと変化していく。
同時に周囲も暗闇へと包まれていった。
ズズズッ、と姿を現したのは大きな口を持つ黒い魔獣――背中からは黒い羽を生やし、棘の生えた尻尾を持つ。
「ワタシト、アソボウカ?」
「や、やだ……!」
シュリムの怯えた声が周囲に響く。
暗闇が晴れた頃、シュリムとグリムロールの姿は会場から消えていた。
残された人々は、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。




