29.舐めた事
とても可愛らしい犬のような鳴き声を発したのは、とても大きな身体をした魔狼――《フェンリル》だった。
あまりのギャップに、正直どう反応していいか困ってしまう。
いや、そもそも僕が知らないだけでフェンリルってこういう鳴き声なのかもしれない。
「えっと……ポチ?」
「わんっ!」
僕がその名前を呼ぶと、見た目とは裏腹に嬉しそうに吠えた。
身体は大きい上に威圧感も凄いけれど、声のおかげで何だか和む雰囲気があった。
「聞いての通り、ポチの名前の由来はこの鳴き声です」
「や、やっぱり? フェンリルってこう吠えるわけじゃないよね?」
「どうでしょう……このポチも拾ったものですので」
「拾ったの!?」
「はい。以前マスターが聞きたがらなかったので言いませんでしたが、ポチは拾ったんですよ」
「いや、どういう経緯で――まあ、いいか……」
「聞きたいですね」
「断定系!? 別に聞きたいとは言ってないけど!」
「マスターは怖がっているようですが、別に私が管理者を仲間に加えた経緯に怖いものはありませんよ?」
「いや、死霊術使えるようにしてデュラハンを仲間にしたとかは立派に怖い経緯だからね?」
そもそもレイアはそういう系統の魔法を使えなかったはず――僕の知らないところで、レイアが単独で習得した事になるのだ。
ブレインに苦戦していたのもそういう魔法を複数――そして常時使っているから負担がかかっているものだと僕は考えていた。
その事をレイアに聞くのも忘れていた。
「レイア、そういえば――」
僕が話し始めようとした時、ベロンと大きな舌でポチが僕を一舐めする。
たった一回ペロリとされただけで、涎まみれになった。
ポチはというと、涎まみれになった僕を見て「ハッ、ハッ」と息をはきながら、尻尾をぶんぶん振りまわしている。
その勢いだけで、風が強めに巻き起こっているのが分かる。
そんなポチをレイアが叱りつけた。
「ポチ! なんて事をするんです!」
「い、いや、いいよ。懐いてくれてるのなら――」
「そうではなく、私ですらまだマスターを舐めた事がないのにあなたから舐めるとは何事なのですか。舐めた事してくれますね!」
「そこ!? 色々飛び過ぎじゃない!?」
僕の突っ込みに対して、レイアはちらりと僕の方を見る。
普段通りの優しげな微笑みを浮かべているが、
「ポチが舐めるのを許容するなら私がする事も許容してくれますよね?」
案の定、聞いてくる内容はそんな事だった。
僕は特に迷う事もなく答える。
「しないけど……」
「何故ですか!?」
「驚くところじゃないよ。ポチは犬――じゃなくて狼なんだし、そういう事もするよ」
あやうくポチという名前ではあるとはいえ、フェンリルを犬呼ばわりするところだった。
実際ほとんど言いかけていたけれど、ポチは特に気にする様子もなくこちらをじっと見ている。
いわゆる『待て』の状態なのだろうか。
レイアはというと、僕の言葉を聞いて何故か恥ずかしそうな表情を浮かべて、
「そ、それはつまり……私に犬のようになれ、と」
「言ってない!」
「マスターが望むのなら私は犬にでもなりますよ……?」
そんな風に言ってきたのだ。
いつもなら、ここで僕もしないと言い切るところだけど――このままだとポチの紹介まで時間がかかりそうだ。
少しだけ乗ってみよう。
「別に望みはしないけど……じゃあ、お座り」
「!」
僕からそういう風に言ってくる事が珍しかったのか、レイアは少し驚いた表情をする。
だが、レイアが自分から言った事だ。
僕の指示通りに、レイアはスッとその場に座り込む。
「こうですか?」
「うん、そのまま静かに」
「まさか放置プレイ……? 私を犬にするに飽き足らずそこまで――」
「解釈がおかしいよ! 僕はポチの話を聞きたいから座ってほしいってだけで……」
「でもお座りって言いましたよね」
「い、言ったけど……」
「言いましたよね?」
「深い意味はなくてね……」
「イイマシタ、ヨネ?」
「怖っ! 『待て』、『待て』だよ、レイア!」
「必死に命令するマスターの姿もかわいいですね」
どの視点から言っているのだろう――やはり、主導権は結局レイアに握られてしまった。
そんな僕とレイアのやり取りを見ていたポチは、ノソノソとレイアの方に歩いていて近づいていく。
一歩一歩、地面を踏み締める事に足音が聞こえた。
「どうしました、ポチ。私とポチの仲の良さを見せつけて、マスターから嫉妬を買おうっていう作戦ですか?」
「わんっ!」
「頷いているように聞こえなくもないのが嫌だな……」
「ふふっ、ポチは――」
「あ」
レイアが言い終える前に、ポチがぱくりとレイアを咥えてしまった。
そのままモゴモゴとしばらく口を動かした後、ベッとレイアを吐き出す。
僕が舐められた以上に、本当の意味で『舐められた』事をされているように見える。
「レ、レイア? だ、大丈夫……?」
僕の問いかけに、レイアは涎を払いながら立ち上がる。
その表情は変わらずに笑顔だった。
だが、目は笑っていない。
「ふふっ、ポチはこれで遊んでいるつもりなんですよ」
「あ、そ、そうなんだ……」
「ですが、マスターを舐めた時から思っていましたが……ポチも少しはしゃぎすぎですね。少しお仕置きが必要なようです」
「まあ落ち着いてよ。怪我するような事をしてきているわけじゃないんだし……」
「いえ、マスター。普段のポチはこんな事はしません。それなのにここで許容してしまっては、今度もこのような出来事を許容してしまう事になります」
「それを許容したら問題になるの……?」
「例えば一国の王と面会している時に、ポチが乱入してきてペロペロしてくる事を許容しかねないという事になります」
「なにそのシチュエーション!?」
「とにかく、ポチには一度お仕置きを!」
「い、一旦落ち着いて――あっ」
ポチの方に近づこうとするレイアを制止しようと、僕はその手を引いた。
だが、二人ともポチの涎で身体のぬめり気があがっている。
足を滑らせて、バランスを崩した。
咄嗟にレイアを庇うような形で倒れた――つもりだったけれど、
「マスター……そんな、ポチが見ている前で……」
「滑っただけ! スリップだから!」
転んだ状態で、丁度レイアの胸のあたりに手を置く形になる。
レイアがいつになく恥ずかしそうにしながら、それでも抵抗する様子もなく僕の手を取る。
だが、そんなレイアでも少しの間の後にぽつりと呟いた。
「涎まみれで抱き合うシチュエーションは、ちょっと特殊すぎませんか……?」
「別に僕も望んでないけどね!?」
「わんっ」
倒れた僕とレイアを見て遊んでいると思ったのか、ポチは再び僕達をペロペロと舐めはじめた。
結局全身ずぶ濡れという奇妙な状態で、僕はレイアと共に風呂に向かう事になる。
ポチの紹介という紹介は受けなかったけれど、とりあえずよく舐めてくるという事と、声が犬みたいだという事だけは分かった。
***
およそ四百年以上前の事――レイアが子供だったポチを森で拾ったのだ。
その時はまだ本当に小さく、サイズも犬と遜色はなかった。
レイアとしては、フエンが目覚めた時に可愛らしい犬がペットにいるというのも悪くない――そんな気持ちで「わんっ」と鳴く犬にポチと名付けて飼う事にしたのだ。
ヤーサンを住まわせてからすぐの事だ――だが、ものの数年の間にはポチは驚異的な成長を遂げる。
「それが、こんなに大きくなるとは……」
「わんっ」
「パンチが効き過ぎている気もしますが、マスターならフェンリルでも許容してくれるでしょう」
レイアの中で、フエンという存在は勝手に捻じ曲げられ始めていた。
ただひたすらにレイアが守りたい存在であり、愛すべき存在であり――《七星魔導》と呼ぶにふさわしい器をもっている、と。
だからこそ、フェンリルの一匹や二匹では動揺したりしないだろう。
仮に動揺する事があったとしても、レイアはそれでフエンに幻滅する事はしないが。
フエンの年齢もすでに百を超える計算になるが――実力のある魔導師ならばその年齢でも問題なく生きている。
およそ三百年生きたという魔導師もいるほどだ。
いつの間にか最強の《魔物使い》としても知られるようになってから五十年は経過しているフエンは、相変わらず自身を封印したまま目覚めていない。
それでも、着々とフエンも周囲の戦力は強化されていたのだ。
そんなフエンの事を――狙う人間は何年経とうと存在している。
かつて、《ガガルロント》という国の軍隊がフエンの操る魔物によって壊滅させられたという話は有名だった。
そのガガルロントの残党が――フエンの暗殺をとある部隊に依頼したのだ。
「ターゲットは《七星魔導》の《七星の灰土》と呼ばれた男、フエン・アステーナだ」
「どんな野郎か興味あるぜ。誰も姿を見た事がないって言うじゃねえか」
「姿など関係ない。我々は《七星魔導》だろうと仕事を全うする。そのための部隊だ」
黒いローブに身を包んだ五人の男達――どこの国にも属さない暗殺部隊《影落とし》。
彼らが見つめる視線の先には、遥か遠く離れた場所にいるレイアと大きなフェンリル――ポチがいた。
「あの付近にフエン・アステーナの拠点があるはずだが……あの狼もフエンの操る魔物か」
「おいおい、じゃああの小娘がフエンか? 男だと思ってたけどよ」
「いや……フエン・アステーナは男のはずだ。だが、一説によれば女という話もある」
「おいおい、どっちなん――」
一人の男が振り返った時、そこにいたのは遥か遠くにいたはずのフェンリルだった。
背後を取られた男の方は、まだその存在に気付いていない。
暗殺部隊として経験を積んだ彼らだからこそ、離れていても警戒はしていた。
それでも気付かせないほどの速さを――ポチが持っていたのだ。
全員がポチの存在に気付く頃には、すでに戦いは終わっている。
否、戦いにすら発展していない。
その場にいた者達を前足で軽く弾き飛ばすだけで、終わってしまったのだから。
彼らに敗因があるとすれば――フエンを狙うという仕事を受けてしまった時点まで遡る事になるだろう。
「わんっ」
ポチは口にくわえた骨をぺろりと舐めまわす。
それは、まだ改良途中のギガロスが投げ飛ばしたもの――レイアが暗殺者達の存在に気付いて、ポチを送り出すために骨を投げたのだ。
「しっかりやってくれた――ようですね」
レイアからも確認する事はできない。
背後に立つギガロスが重低音で答える。
「――」
「ええ、あの子は優秀ですね。将来マスターを守る良い番人になる事でしょう」
レイアはそう確信していた。
それが、現在では二人揃って舐められる事になるとは想像もしていなかっただろう。




