36 夢
――宵闇の中、歩く少女の姿。……それは、愛美だと知っている。……知っていて追いかけるのに、愛美はずっと俺よりも歩きが早くて、俺は追いつくことが出来ない。
――そんなに早く歩いているようには見えないのに。
……それとも、……俺が遅いのだろうか……?こんなに必死に足を動かしているのに。
彼女は橋のずっと向こうに居る。……遠くから、……誰だろう、着流しを着た男性が提灯のような灯りを手に持ち愛美に近づいて。
―—愛美は、嬉しそうにその灯りを共に持ちそのまま宵闇に消えゆくように見えた。
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俺は、声の出ない叫びを上げて、跳ね上がるように、
目を開けた時、……そこはただただ静かな俺が今使っている2階の功労おじさんの部屋。窓の外からは蛙の鳴き声がし、少し生ぬるい夏の終わりの風がサラサラと薄い白のカーテンを揺らす。
……部屋は、あの夢の光景のように薄闇……宵闇の色に染まっていてそれでもそこは畳の匂いがするいつもの……部屋。……その筈なのに、薄闇の暗さも相まって、四隅が四角く閉じられているように思えて、……何故か、自分がたった独りこの世界に切り取られたようで。
―—けれど、……あのどうしようもない焦燥感と不安感を誘う光景は夢だったのだと、一呼吸して自らに言い聞かせて……それは、その思いはすぅっと俺の中に沁み込んでいく。
俺は、とんでもなく汗をかいていて、……それなのに身体の芯はひんやりと冷たく、……まるで海の底に落ちてしまったかのような気持ちのまま、……あの不安を誘う光景が夢であってよかった、と思った。
後ずさるように右手をぐっとひねるようにすると、……固いものに触れ、ぎょっとして身を縮めるようにそれを目で確認すると、それは、そこに投げ出したようにしてしまっていた賢治の短編だった。
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……どうしようもない心細さに襲われて、俺は、起き上がると、階下に降りていく。
……一階では、温かな黄色い光が滲むように漏れ出していて、ばあちゃんの料理をする音がした。同時に良い匂いも。コトコトと何かを煮詰めるかのような音、柔らかな温かな匂い。部屋を覗くと割烹着姿の料理をするばあちゃん。ホッとする筈の光景なのに、俺は落ち着けなくて、ばあちゃんに声をかけた。
「……ばあちゃん」
声をかけるとばあちゃんが、振り返って、ふくふくとしたしわだらけの顔をくしゃっとゆがめて俺を見て笑った。
「敏郎、随分 ぐっすりだったから、随分今日は疲れたんやねぇ。ご飯もう少しだから、もう少しゆっくりしとき。お風呂ば、入るか?」
俺は、頭を横に振ると、ばあちゃんに言って。
「……ばあちゃん、ちょっと、外、走ってくる。ばあちゃんのご飯出来るまでには帰ってくるから」
……ばあちゃんは、俺の何か焦ったような様子に何かを察したらしくて、気を付けて行ってきんさいと、そう言ってくれた。……俺は、何も考えずに、ランニングシューズに足を突っ込むと、どうしようもない不安感を消そうとでもするかのように、外に駆けだしていた。




