曇りなきまなこ
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毎朝見る光景なのだが、通勤路の道路脇に一人の女性が立っている。
車のアクセルを気軽に踏める、周りが田んぼだらけの田舎道。視界を一瞬で通り過ぎるだけの彼女は、少女にも見えるし大人の女性にも見えるのだが、
彼女の容姿から年代を特定するのは其れ程重要な事では無いし、むしろどうでも良いと思っている。
重要なのは必ず同じ時間にそこにいて、いつも背筋をピンと伸ばしながら、目の前のアスファルト道路の一点を、穴が開くほど見詰めていると言う事だ。それも毎日同じ場所を。
『何故?』『何を見てるの?』『何か面白いものでも?』
疑問に思ってもそれに明確な回答を得られる訳が無い。彼女とは全く接点が無く、互いに互いが単なる風景の一部であるからだ。
多分、彼女は障害を持って生まれたのだと推察される。そして福祉系の企業に勤めているのか、それとも福祉系の学校へ通学しているのか、彼女を迎えに来るバスをただ待っているだけ。
桜が咲いて鼻腔が新緑の香りに満たされる時期も、焼けたアスファルトが肌に刺さる灼熱の時期も、渇いた風が落ち葉を躍らせる時期も、白くて冷たい悪魔が身体を芯から凍えさせる時期も。
雨の日も風の日も、どんなに北風と太陽が自分の主張を互いに繰り返しても、彼女は微動だにせずそこに立ち、アスファルトの一点だけを見詰めている。
彼女にとって何が幸せで何が不幸なのかは推し量れないし、心無い者が彼女を評するならば、人と違うからなどの心無い言葉の羅列が吹き出て来るだろう。
だがもし彼女が、心無い者たちから愚者と評されたとしても、そんな連中を遥かに凌駕する素晴らしいものを持っている。邪念や邪推など微塵も無い、ただ一点のみを見詰めるだけの曇りなき聖なる瞳だ。
もし逆に、それを持って彼女を聖者と讃えるとするならば、今度は逆に布教も祈りも放棄してしまった愚者の瞳を持つとも言える。
愚者の持つ聖なる瞳
聖者が抱く愚かなる瞳
そう言葉にしたところで、彼女には何の影響も無いし、彼女の日々が変わる事は無い。むしろ彼女について考えれば考える程、それに比べて自分自身がいかに汚れた人間なのかと、自責の念に押し潰されそうでもある。
だが、当たり前の話、他人の自責の念など彼女にとっては全く関係無い話。
今日も明日も、これまでもこれからも……
そこに立ってただひたすら、曇りなきまなこで道を見詰めるだけなのだから。