ゆうな いない〜 ゆうな いない〜
「ゆうな いない〜 ゆうな いない〜」
七歳になる娘が春休みを利用して、しばらく他県の実家で過ごすことになった。
その姉の不在に弟のあおいが反応した。
普段は、姉を気にも留めていない素振りだったので、意外だった。
あおい。娘のゆうなが付けた名だ。
「こどものなまえは、あおいだよ」
妻が妊娠五ヶ月くらいの頃だったろうか。
当時二歳の娘が、夜、寝付く前に何の脈絡もなく言った。
その時のことは、表情からイントネーションまで鮮明に覚えている。
だからと言ってスピリチュアル的な何かを感じたわけではない。
自分で名づけたのだから愛着がわくのではないか、そんな姑息な計算もあってのことだ。
「ゆうな いない〜 ゆうな いない〜」
息子は二月に生まれた。その年は雪が多かったことを覚えている。
夜、携帯が鳴る。妻が切迫で入院していた病院からだった。
緊急に転院となった。早急に来て欲しい。とのことであった。
娘を妻の実家に預け、吹雪の中、車を走らせた。
医師の話はこうだった。
炎症が進んでいる。このままだと胎児は保たない。未熟児だが出産させるしかない。
だが、胎児は千グラムに満たないと予想する。NICU・新生児集中治療室が設置されている施設へ転院が必要とのことだった。
よくぞ転院先が見つかったものだと、安堵したことを記憶している。
到着前に転院の支度を整え終わっていた妻はベッドに横になり、しきりに娘のことを気にしていた。
転院先の病院で、即、帝王切開が施された。
深夜二時を過ぎた頃、息子が保育器と呼ばれるガラスケースに入れられ運ばれてきた。急いでいる様子が窺われる。
それでも、スタッフは自分の前で止まり、息子に会わせてくれた。
炎症が進んでのことか、はたまたチアノーゼによるものなのか、どす黒い。
骨に皮膚が張り付いているだけのような、細い四肢。浮き出た肋。そしてとても小さい。
風で倒れ剥き出しになって、そのまま朽ちた、木の根のように思えた。
目に収めるとすぐに頭を下げた。急いで治療を施して欲しかったからだ。
午前四時。まだ暗い。
医師が自分のもとを訪れ、同意書の記入も兼ねた現状と今後の説明がなされた。
生死は五分五分とのことだった。
施設それぞれの文化がある。医師個人の矜持や習慣もある。だから一概には言えない。
だが、五分五分と言われた時は大概、五分はないと見ている。
落胆したのを覚えている。だが取り乱すこともなく妙に頭の中は静かだった。
その後、治療の方針へと話が進んだ。
内容は、水が徐々に増してくる井戸の底から細い糸で引き上げるような、作業であった。
引く力が足りないと押し寄せてくる水に浸かる。かと言って引き上げる力を強めると糸が切れる。
この塩梅が難しく、万全を期すが運も作用するとの事だった。
午前五時、家路へと向かう。途中のパーキングエリアで父親に電話した。
偶然にもその日は父親の誕生日でもあった。おめでとうと最初に一言添える。
そして子供が生まれたことを告げた。
おめでとうと告げる受話器の向こうの声は、少し上ずっているのを感じた。
だめかもしれん。その一言を言おうとしたが、声帯が拒否しているかのように、音として発することが出来なかった。
二ヶ月が過ぎた。
近くの病院へ転院が決まった。障害も今のところ見られず順調とのことだった。
転院の説明があった時、医師がポツリと言った。炎症が進んでいた。だめだと思っていた。運が良かった。
そうではないと思った。運だけではない。この人たちは、遥か高みにある運をつかめる場所まで押し上げてくれた。だから助かったのだ。
「ゆうな いない〜 ゆうな いない〜」
娘がいなくなって三日。さすがに感づいたらしい。
昨日まではおとなしかったのだが、今日はずっとこれだ。
息子は三歳の時に発達障害と診断された。体も心もすべての物事において、発達が遅れているとのことである。
現在も発する言葉は単語のみである。せいぜい二語が続く程度。
周囲は落胆した。だが自分はそれほど困惑せず受け入れられることができた。
あの木の根のような姿を見たせいだろうか。あの姿は自分しか見ていない。
いやそうじゃない。ただ呑気なだけなのだろう、自分は。
「ゆうな いない〜 ゆうな いない〜」
そんな息子も四歳になった。
こうも続けられるとさすがに煩わしい。
息子を車に乗せ、ドライブで気を紛らわせる。
そう言えば、夕食がまだだった。この不安定な状態で連れ出せば、どうなることやら。
ドライブスルーで済ませることにした。
「マック行くよ〜」
息子に告げる。すると、
「まっく いかない かっぱずし いく〜」
驚いて、呆けた。
三語をすっ飛ばして、初めて四語が連なったのだ。
いや、単に二語、二語が続いただけかもしれない。だがそれでも初めての事だった。
大声で笑った。感情表現に乏しい自分にしては、珍しい出来事だった。
バックミラー越しに、快挙を成し遂げた男の表情を伺う。
誇らしげな表情は微塵もない。何事もなかったかのように、いつもどおり。
心の底から懇願している子供特有の表情である。
車のウインカーを右に点灯する。
「かっぱ寿司、行こうか」
「いく〜」
親って単純ですよね〜。