海の香
「源さん!海に行きましょう!魚を釣ってください!」
うだるような暑さを吹き飛ばすような清々しい声が、船内に響き渡る。
その声に反応して、この海賊船の船長である源太は、ゆっくりと瞼を上げた。
半年程前に拾ったこの少女、空は、故郷を戦で焼かれたそうだ。
何もかもを失っていながら、それでも明るい笑顔を向けてくれる彼女が、眩しくて仕方なかった。
「聞こえてますか!源さん!」
「お、おぅ!聞こえてるぜ!」
「じゃあ、早く行きましょう!魚が逃げてしまいますよ!」
『…なんで急に魚が逃げだすんだ…?』
少女の独特の感性が面白くて、吹き出しそうになりながらも、源太は応の返事を返す。
「確かに、こんな蒸し暑い所にいたんじゃあ、気がどうにかなっちまうぜ。魚?任せときな!」
ずかずかと歩いていく源太の後を、空は嬉しそうに跳びはねながらついて行った。
――――……
――海も空も
限りなく青く、広く
清々しく吹き抜ける風は
優しく髪をなびかせる
『まるで、源さんみたい』
釣り糸を垂らしている源太の横顔を見つめながら、空はそんなことを考えていた。
日に焼けた彼の髪は、温かな陽の光のようで
思わず、そっと触れてしまった。
ふと気がつくと、目前の源太が、両目を見開いて、こちらを凝視していた。
やっと自分のしたことに気がついた空。
「あ、あのですね、これはその、深い意味があるわけではなくて…えと…すみませんでした!」
頭が激しく混乱していた空は何故か謝り、その手を急いで戻した。
堪え切れずに、源太は盛大に笑った。
「謝るこたぁねぇだろ!おもしれぇ奴だな!」
その笑顔は、まるで太陽のようだった。
その後、魚は次々とかかり、持ってきた籠はいっぱいになってしまった。
「すごいですね!源さん!大漁じゃないですか!」
そう言って、本当に嬉しそうに笑う空はやはりとても眩しくて…。
これまでの迷いが綺麗に晴れていくような錯覚に陥る。
『…いい加減、女々しいよな』
覚悟を、決める。
「なぁ、空」
源太が、急に真剣な表情になったので、空は自分が何か悪いことをしてしまったのではないか…と勘繰ってしまう。
「はい!なんですか…?」
「…俺はな、あんたがずっと眩しかった」
だから、その言葉はあまりにも予想外だった。
「え?」
「俺は最初は、不思議でならなかったぜ。あんたが全く泣かねぇもんだから、よっぽど故郷が嫌いだったのか…ただ、薄情なだけなのか…正直どうすりぁいいのか、わかんなくてな」
源太は本当に困ったように笑いながら、空の髪に触れた。
「だが、あんたは、泣いてたんだろ?」
空は息をのむ。
何故、ばれてしまったのだろう…。
「…俺は海の荒くれ者どもを束ねる鬼だ。
こんなことを言う権利なんてねぇのかもしれねぇ。
けどよ、あんたには、ずっと傍にいてもらいてぇ」
空は一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐに嬉しそうに笑った。
「もちろんですよ!これからも変わらず傍にいます!」
『こいつぁ恐らく、意味を履き違えていやがる…』
源太は腹を括る。
これを言えば、もう戻れない。
だが、戻りたいとは思わなかった。
「空、俺はあんたを愛してんだ」
時が止まったように、辺りが静まり返る。
二人の耳に聞こえてくるのは、ただ、波の音だけ。
暫くののち、空はおずおずと口を開いた。
「私もずっと…源さんが好きでした…けど…本当に…私なんかでいいんですか…?」
『家族とともに死ぬことすら許されなかった、ただ一人生きながらえてしまった、本当に…こんな私なんかで…?』
源太は、思わず、目の前の少女を抱きしめた。
「俺にはあんたしか見えてねぇ。もう、これ以上我慢すんなよ」
その声に、
自分は幸せになっても良いのだろうか、という不安も
死んでいった故郷の人々への後ろめたさも
全て溶けていってしまった。
強まる腕の力が更に安心させてくれる。
『私は…幸せになってもいいんですね…』
空は、源太に応えるかのように自らもまた腕をまわした。
『なんて安心する声なんだろう。まるで、波の音のよう』
――戦火に焼かれた故郷に一人、膝を抱えて泣いていたそのとき――
「…他に行くとこねぇなら、俺と一緒に来るか?」
その声音に、どれ程救われたことか。
『なんて安心する匂いなんだろう。まるで、海辺の風のよう』
もし、あのとき、あの声を聞いていなければ、私は今、どうなっていたのだろう…
「源さん…ありがとうございます…源さんは、まるで…海みたいです」
少女の顔は見えないが…その声音には確かな幸福の色が滲む。
彼女は今、きっとこれまで以上に眩しい笑顔を浮かべているはず。
「そういうあんたは…まるで太陽だ」
――時がゆっくりと流れていく…
聞こえてくるのは
…波の音
見えているのは
…輝く紺青
この香は
…海の香