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旋律の怪物  作者: ときあめ
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第二章「交殺(こうさつ)」

 四月一二日、午後一二時近く、静まり返った警視庁の資料室に、清水はいた。


「えっと、これかな?」


 清水が手に取ったのは、三年半前の東京都爆弾テロ事件のファイル。

 なぜ三年半前のファイルを手に取ったかというと、前、水戸警部と捕まえた少年、如月 師恩のことが気になったからだ。

 如月 師恩は昔、中京都で起きた相馬一家殺人事件で逮捕された少年だ。そして、その子は、九頭竜会の一員であることが分かり、彼には死刑を宣告された。死刑執行の直前の日、彼が自殺する日まで彼は殺害を否認していた。


「確かあの時、時雨君は言った」




「あぁ、俺と如月って奴が避難するよう無理矢理説得したクラスです」



「偶然かな?」


 清水は小さい声で独り言を呟き、資料を開いた。



>二〇――年、一〇月一五日、午後一時三〇分、東京都千代田区皇居外苑の桜田門で第一爆発が発生。それから次々と公共の場で爆発。

死者は五千人を超え、負傷者は五万人近く。



 膨大なこのファイルの項目の題名を一つずつ見ていく。その中で一つ、読みたかった項目に目を移す。



>新帝都高校爆破事件

>死者五〇三人。負傷者二人。



「これしかないか」


 清水は、詳細が全くない資料にがっかりしつつ、ファイルを元の場所に戻し、資料室を出た。避難させたのは如月、捕まって自殺したのも如月…。

 清水は根拠もないが、避難させた如月は、九頭竜会の一員だと予想していた。


「清水警部補、相棒が探していましたよ?」


 資料室を出た瞬間に、二十代後半の若い同じ係の巡査部長に話しかけられた。


「時雨君が?そう。ありがとう」


 清水は微笑み、少し頭を下げ、5班のいる1係の部屋へと急ぐ。

 時雨君が読んでいるということは、何か事件でもあったのだろう。昼休憩中でも探すということは殺人事件の可能性が高い。そのため、清水は1係の部屋に急いだのだった。


「遅くなりました」


 1係の部屋に入って、すぐに謝りの言葉を入れた。三木班長の責めから逃れるためだ。


「構わん。昼休憩中だしな。それより、詳細を時雨から聞いとけ」


 三木班長は、清水が思わず驚嘆しそうな言葉を発した。最近の三木班長は、どこか部下思いになっていっている。その心境の変化に、時雨君が関わっていることは間違いないだろう。

 時雨君が来てから、三木班長の部下思いが始まったから。


「清水さん。遅いですよ。何をしていたのですか?」


 時雨君の目はどこか鋭く、清水は息を呑んだ。


「ご、ごめん、資料室で少し調べものをしていて」


「資料室?どうしてです?」


 少しずつ、時雨君の口調が強くなっていく。


「ま、まぁ、いいでしょ。それより教えてよ。今回の事件」


 今の清水の言葉に、時雨君の緩む顔。清水は時雨君の顔が緩んだことに安堵した。


「あ、すいません。変なことを訊いて。そうですね、聞いた事件の話をしますか」


 清水は大きく息を吐いた。

 自分が三年半前の事件を調べていることに、時雨君は良く思っていないのだろう。何もできなかった私が、今更調べたとこで何ができるのだ、とでも言いたいのだろう。


「時雨君、お願い」


「はい。あ、清水さん、俺のことは呼び捨てで構いませんよ」


 もう一週間くらい経ったのに、いまだに時雨君、いや、時雨のことを君付けしていたのだ。


「そしたら、私のことも呼び捨てでいいよ?」


「それは出来ませんよ。先輩なんですから」


 清水は子供っぽく怒ってみせた。しかし、時雨にはそんな戦法は通用せず、苦笑いしただけであった。


「それで、事件の話に戻しますけど」


 苦笑いの直後、真剣な顔に戻す時雨。その真剣な顔に、清水も自然と引き締まる。


「今日、午前一〇時八分、港区六本木7丁目―――のマンションの一室から、包丁で滅多刺しにされた男性遺体が発見されました。被害者は井上いのうえ 嘉数かず。六十五歳で妻と二人暮らし。死因は包丁で滅多刺しにされたことによる失血死。睡眠薬で眠らされたところを胸に一撃、即死だったそうです。そこから、何度も何度も刺されたようです。死亡推定時刻は昨夜の午後六時から午後八時。第一発見者は旅行から帰ってきた妻、井上 桃加ももか、三十八歳。現場には凶器となる包丁が残っており、付いていた指紋は該当者なし。荒らされた形跡がないのと、睡眠薬からの滅多刺しから怨恨の線と所轄は考えているようです」


 時雨は胸の内ポケットから手帳を取り出し、一字一句読みこぼしが無いように丁寧な口調で話した。


「怨恨で考えると、第一発見者の妻が、とても怪しく思えるね」


「取り敢えず、現場に行きますか」


 時雨は手帳をパンッと閉じ、清水に目線を移す。構いませんか?という疑問を目から投げかけてきているのが分かった。


「うん。行こう」


 清水は頷き、時雨と共に地下にある車のとこまで歩いて向かう。庁内のエレベーター前でエレベーターを待つ二人。その間ですら、清水は事件の話を続ける。


「時雨はこの事件、どう思う?」


 時雨はまだ、事件の全貌を見えていないのだろう。前回、佐藤 真矢の取り調べをした時よりもまだ、目の輝きは薄い。


「まだわかりませんが、怨恨の線だけではないと思っています」


「え?」


 清水は思わず素っ頓狂な声を出した。所轄の見解をいきなり否定したのである。

 そんな素っ頓狂の声と同じくらいに先程から待っていたエレベーターが到着する。


「どうしてそう思うの?」


 清水は時雨と庁内のエレベーターに乗り、地下へのボタンを押して、時雨の顔を覗き込むようにして訊いた。


「確信は持てないので、訊かない方がいいですよ」


 時雨は素っ気なく答えた。清水は予想だにしていなかった回答に、少し呻いた。


「そう。それは残念ね」


 別に嫌味を言いたかったわけではないが、どこか嫌味っぽくなってしまった。これでは、先輩失格だ。


「すいません。この仮説で恥をかきたくないんです」


 嫌味っぽく聞こえたのだろう。時雨は取り繕うように、慌てた声で言った。


「あ、ごめん。そんなつもりじゃないの。それよりも、所轄の捜査方針と違うのに、捜査、どうするつもり?」


 清水が言い終えるのと同時に、エレベーターは車がある地下駐車場に到着した。

 清水と時雨は、すぐにエレベーターから降りる。


「それは本来と変わりませんよ。俺達、本庁で、出来るだけ情報を得るだけです。犯人逮捕の時だけ、怨恨だけではない理由を説明できればいいんですから」


 時雨は清水がよく乗っている車のカギを出し、センサーで車のロックを開ける。

 清水はその動作を見て、すぐ自分の上着のポケットを手探りで確認する。さっき、いや、結構前に確認したカギが、いつの間にか無くなっていた。


「どうして時雨がそのカギを持っているのよ!」


「さっき上着から拝借しました。運転は俺がしますよ」


 いつの間に?

 清水が上着を置いたのは、昼休憩の間だ。その間に時雨が取って行ったのは間違いないだろう。清水はいつの間にか、推理していた。

 油断ならない子だ。

 清水は時雨に苦渋な表情を作ってみせたが、時雨は微動だにせず、運転席に入って行った。


「もうっ!勝手なんだから!」


 清水は渋々助手席に乗った。時雨は若い割に、運転準備の動作を素早く終え、赤色のサイレンを車体の上につけて、静かに車を発進させた。


「清水さん、寝不足なんでしょう?安全運転で行きますから、寝ていてください」


 清水は時雨の言葉に、顔が熱くなっていく。まさか、そんなところまで、見られていたとは思わなかった。

 清水は運転している時雨の横顔を横目で見る。時雨は何事も無かったかのように、ケロッとした顔で運転している。女性の恥かしいところを突いておいて、その顔はズルいだろう。


「いや、事件の話をする」


 清水は意地を張った。平然とした顔で、あんなことを言った時雨に負けたくなかったのである。


「無理しなくていいのに」


 時雨は小さい声で呟いた。時雨の呟きを清水は無視した。


「そう言えば、包丁から指紋が取れたって言っていたね。犯人は突発的に犯行を行ったと思う?」


「いえ、計画的だと思っています」


「どうして?」


「怨恨の線ならそうでしょう。しかし、この事件は怨恨だけではないと思っているので、計画的犯行だと思います」


 清水はどうしても時雨の推理に追いつけなかった。どうして、計画的犯行になるのか。どうして、怨恨の線だけではないのか。


「そっか」


 清水は曖昧に頷いた。


「絶対わかってないですよね」


 時雨は苦笑いした。


「だって、教えてくれないんだもん」


「清水さんなら、いずれ分かりますよ」


「いずれっていつよ」


 清水は少し笑い、自分を叱咤した。いつも時雨に教えてもらって分かっていたら、全く成長しない。少しでも水戸警部に追いつこうと思うなら、自分で頑張らないと駄目だ。

 車の中は沈黙が流れる。沈黙を破ったのは時雨だった。


「もうすぐ着きますよ」


「そう」


「清水さん、疲れていますね。やっぱり、寝るべきですよ」


「だ、だから、大丈夫だって」


清水はため息をついて、ドアに頬杖を突いた。少し目を閉じて、頭を整理させた。計画的犯行なら、指紋を残すはずはないのではないのか?あえて指紋を残したとでも言うのだろうか。そもそも、凶器を現場に置いておく必要もない。どうして、現場に置いておかなくてはならないのか。清水の胸中は疑問の嵐だった。

 車は現場近くの住宅街に入っていき、時雨は若い割に教習所の教官レベルの運転技術を持っており、素早い動きで車を左側に寄せて止めた。事件が起きて、まだそう時間が経っていないのか、もしくは、報道規制をかけているのか、黄色いテープ周りは、思ったよりも野次馬は少なく、前回よりも事件現場に入りやすそうだった。


「着きましたよ」


 着いていることくらい分かる。最近、時雨は清水のことを子ども扱いしていた。前回のことから少し学んだようだ。


「起きているから大丈夫よ」


 清水はムッとした顔を作った。


「子供ですね」


 時雨は清水を茶化し、車を降りる。


「もー、覚えてなさいよ」


 清水は子ども扱いされたことに、若干、居心地の良さを感じながら車を降りた。


「あ、清水警部補」


 降りてすぐ近くの、黄色いテープ付近にいた所轄の少し年を取っている三十代半ばの刑事。案の定、所轄に知られている清水。今回は同じ港区ながら、少し前と場所が違うので、麻布警察署の刑事だ。


「ご苦労様です」


 清水は小さく敬礼する。時雨も敬礼していたが、その所轄の刑事は、時雨のことを無視した。


「お疲れ様です」


 敬礼を仕返し、そう言い捨てて、その場を去る所轄の刑事。そのまま、麻布警察署に向かうのであろう。

 時雨のことを無視したことに、清水は少し怒りを覚えつつも、時雨は何ら気にしてない様子だったので、感情を抑え込んだ。


「ご苦労様です」


 今度は黄色いテープの前で立っている所轄の署員に敬礼する清水。同じことをする時雨。所轄の署員は私たちの捜査一課の腕章を見て、姿勢を正して、敬礼してきた。


「ご苦労様です!」


 新しく入ってきた署員なのだろう。現場慣れしていない表情。大声を出す若々しい顔。


「頑張ってね」


 一応、新人の署員に聞こえるように呟いて、事件現場に入っていく。自分で言うのも変だが、新人の署員は清水の言葉に感激してくれたのだろう。深々とお辞儀してくれた。


「最近、先輩風吹かせていますね」


 時雨は小さい声で言ってきた。


「遠回しに調子に乗っているって言いたいんでしょう?全く素直じゃないんだから」


 清水はそうぼやいて、事件現場にいるであろう彼女、火狭さんを探した。


「あれ、いないですね?」


 時雨も徐々に私たちの班がどういうものか熟知している。これで、負けず嫌いが無く、素直であったなら、言う事無しなんだけど。


「今、火狭、ここにはいないよ」


 またまた気づけば、近くに相馬がいた。本当に神出鬼没で困ったものだ。最近は少し慣れたが。


「そう。じゃあ、どうしよう」


 あくまで冷静に、今回は変な声も出さずに応対できた。


「俺が案内してやるよ」


 珍しく相馬が事件にやる気を出している。それどころか、他の人間に事件現場を案内するなんて、珍しいどころではない。もはや、奇跡のレベルだ。


「時雨に興味を持っているんでしょう?」


 相馬の新しい一面を見られて、清水は嬉しくなり、少し茶化す。


「あんたは黙ってろ」


 ダメだ。絶対に仲良くなれるような気がしない。少しも冗談が通じない。


「俺の推理を見たいから、教えるってことか?」


 時雨の表情に余裕はなく、相馬を強く睨み付けている。時雨も私と同じ心情なのだろう。というか、そう信じたい。


「正解だ」


「だが、俺はあんたの推理を訊いてからじゃないと推理を話すつもりはない」


 時雨と相馬の間に見えない火花が散る。清水は頭を抱えた。時雨と仲良くできる人間は、私たちの班にはいないのか。


「構わない。事件現場はこっちだ」


 相馬は時雨の睨み付けを一つも気にせず、事件現場を指さし、歩いていく。清水と時雨は顔を見合わせ、相馬の後を付いていった。


「ここだ」


 あるマンションの中に入り、三階のある一室に入った清水たち。現場はまだ、殺害された状況を残った血痕が物語っており、痛々しい光景が目に浮かぶ。

 現場にはまだ鑑識が、何人か残って作業を続けている。それと、未だ現場を見ていない所轄の刑事たちも現場に来ていた。


「どのあたりに包丁が落ちていたのかしら?」


 清水は作業をしている、一番年老いて見える鑑識に微笑んで訊いた。


「そこだよ」


 鑑識の指さす方を清水は見る。指を指された方は、死体があったであろう、血痕がびっしりと残った一人用ベッドから数センチ離れた床、番号が書かれ、チョークで印をつけられている場所を見る。


「なるほど。計画的犯行みたいね」


 凶器は、死体のあったベッドではなく、数センチ離れた場所にあった。


 どうして、ベッドの上に凶器が無い?


 なぜ持ち帰らなかった?もしくは、刺しっ放しではなかった?


「驚いたな」


 清水の小さな呟きに、いち早く反応したのは相馬だった。


「これを計画的犯行だと気づくとはな」


 相馬はそう続けた。


 時雨だけではなく、相馬すらも計画的犯行だと言った。間違いない。これは計画的犯行だ。


「あ、一応これ、時雨の考えだよ」


 清水は自分だけの考えでないことを否定する。後輩の手柄まで奪い取るほど、悪い先輩ではない。


「知っている」


 どこまでも人を愚弄して。また再び、相馬のことが嫌いになる清水。


「だが、それを理解するだけでも、あんたは優秀だろ」


 相馬の言葉は、少しも先輩と思っていない口ぶり。清水は込み上げる感情を抑え込むつもりで、目を瞑る。一応、頭の中を纏めたかったから目を瞑ったという理由もある。頭の中を纏めていく清水。しかし、纏めきる前に、時雨が言葉を発し、清水の纏めを邪魔した。


「あんたはどこまで読んでいる?」


 現実に視線を移した清水は、時雨の相馬に対する強い威嚇を感じ取れた。


「多分、あんたと同じくらいだろう」


 相馬から時雨に対する視線は、子供が何かを知ろうとする時の好奇心の目だった。


「だったら、被疑者である妻に話を訊きにいかないと駄目だな」


 時雨は相馬に対し、案内しろと、目で訴えていた。


「そうだな。案内してやる」


 私を抜きにして、何勝手なこと言っているの。

 取り敢えず、先輩刑事として、時雨のそばを離れるわけにはいかない。相馬の案内で、被疑者、井上 桃加がいる場所を案内してもらう。事件現場となったマンションから出る清水たち。黄色いテープの周りは、先程と違い、記者と野次馬により溢れかえっていた。つまり、先程少なかったのは、まだ、近隣住民と報道記者は、事態を把握していなかったのだろう。黄色いテープの前に立っていた、先程の新人警察官が苦渋の顔をして、野次馬、記者たちの相手をしている。

 彼じゃあ、力不足だろう。麻生警察署の連中は何を考えているのだ。


「心配するな。ああ見えて、彼は交通課の人間だから、記者や野次馬相手は手慣れたもんだぞ」


 私の視線を読み取ったのだろう。相馬が言った。


「所轄のことも知っているのね」


 清水は相馬が、どうして所轄の人事まで知っているのか疑問だった。


「彼は有名人だぞ」


 清水は頭を隅から隅へと探っていくが、記憶にない。清水は首を傾げた。


「分からない」


「単独捜査で現場を混乱させ、上司を困らせ、所轄に飛ばされた奴だよ」


 清水は目を丸くした。悪い方の有名人だと予想していなかったのだ。単独行動で失敗するのは、新人にはよくある失敗だ。舞い上がって、相棒の先輩刑事の話が頭に入らなかったのだろう。最近、いきなり本庁への新人が多いような気がする。時雨もそうだったし、その新人だってそうだ。私たち水戸警部や火狭巡査部長は、基本、所轄で経験を積んで、本庁に回される。本庁への無理矢理な人事は、何かの予兆のようにも思える


「ほら、乗れよ。送ってやる」


 気づくと、相馬の愛用している自車の前まで歩いてきていた。少し、事件現場と離れた位置に駐車されている、黒で新しい車。車体が鏡のように、よく自分たちの顔を反射している。


「私たちも車なんだけど。場所教えて、そこに向かうから」


 相馬の車で行くと、自分たちの車を回収するのが面倒になる。場所だけ訊いて、後々、相馬と合流すればいい。合流したくはないのだけれど。


「なんだ。あんたらも車か。なら、問題はない。場所は麻布警察署だ」


 清水は拍子抜けした。どこかのファミレスかと予想し、必死にこの辺りの地図を思い出していた行為がすべて無になった。麻布警察署なら、場所くらい良く知っている。時雨も同様に知っているはずだ。


「じゃあ、行こう。時雨」


 清水は時雨に目線を移す。時雨は小さく頷いた。相馬の止めている車と真反対の車道に駐車している清水たちは、そこを目標に歩いていく。その間も、清水は時雨に話しかける。


「時雨はこの事件、どこまで見えているの?」


 清水は、ふと思った疑問を口にした。


「まだ、少しです。まぁ、俺がどうこうしなくても、相馬が事件を解決しそうですけど」


 いがみ合っていても、相馬の実力は認めているのだろう。時雨の言葉は、嫌味っぽく感じられなかった。


「そうかな、時雨が解決しそうだけど」


 清水は、最後には絶対、時雨が事件を解決に導くような気がして仕方なかった。


「過大評価しすぎですよ」


 時雨は苦笑いして、車のロックをカギについたセンサーで解除する。


「そうかな」


 清水は小さい声で呟いた。時雨はため息をついて、運転席へと乗り込んでいく。

 今はまだ、情報が足りないんでしょう。目の色が何一つ変わらない。

 清水は外気を吸い込んで、車に乗り込んだ。

まだ、寝るわけにはいかない。


「麻布警察署でしたよね」


 時雨がこちらを見て、確認してくる。清水は小さく頷いた。


「場所は?わかる?」


「はい、大丈夫です。わかりますよ」


 時雨は車を発進させる。それなりにある運転技術に制限速度ギリギリを出す時雨。


「一応、サイレン鳴らしても大丈夫だと思うけど」


 制限速度ギリギリの運転を見かねて、清水は助言した。しかし、時雨は首を小さく振る。


「相馬より、後に到着したいんです」


 なるほど。どうして、相馬より遅く到着したいのかは、この際、聞かないようにしよう。清水は思い浮かんだ疑問を胸の奥にしまい込んだ。


「その相馬だけど、相馬のこと、どう思う?」


 疑問を訊くのは、こちらの方が優先だ。


「仲良くなれそうな方です」


 清水は驚きのあまり、椅子にもたれ掛かっていた背中を起き上がらせた。


「本気で言っているの?」


 清水は時雨を覗き込むように訊く。


「え、はい」


 時雨はこちらを横目でチラッと確認したものの、なぜ驚いているのか理解していない様子だった。


「時雨も不思議な子ね」


「清水さんに言われたくないですよ」


 清水は笑い、椅子に背中を預ける。結局、三人共変じゃないか。

 それから話題が無くなってしまった。二人の間に沈黙が流れる。沈黙を破ったのは、時雨だった。というか、毎回、沈黙を破るのは時雨だ。


「清水さん。もしかしたら禁句タブーかもしれませんが、その禁句タブーを少し、話していいですか?」


 時雨が聞いたことのない暗い声で話し始めた。清水は時雨に驚いて、すぐに時雨に視線を移し、唖然としていた。が、すぐに我に返る。


「え、えぇ、構わないわ」


「それでは…、清水さんは、母親が他界されていますよね?」


 清水は少し口ごもる。まさか、その禁句タブーを突いてくるとは、自分が一番嫌な過去。


「そ、う、だけど?」


 少し上ずった声になる。自然と時雨から目線を外し、復興された活気ある街並みに目線を移す。


「その原因は病死ではないですよね」


 清水の目が少しずつ怯える。過去のことを封印し、出来るだけ、父親との接触をも禁じてきたというのに。それに、時雨がどうしてそれを知っているのか、清水は分からなかった。あれは確か、極秘ファイルなはずだ。知れるのは、警視監レベルの人間しか見ることができないはず。


「そうだけど」


「父親、清水 翔参事官に殺されたんですよね」


 清水は目を見開いた。そして、時雨に目線を移す。それは、極秘ファイルにすら載っていない、私と父親しか知らない秘密。清水の背筋が凍る。清水は自分でも分かるくらい息が荒くなっていた。


「どうしてそれを?」


 清水は思いっきり時雨を睨んだ。時雨は一切表情を変えることなく、こちらに目線を移すこともなく、静かな声で、私が耳を疑うようなことを話した。


「俺も、同じですから」


 清水の胸中が疑問の嵐で渦巻いていく。混乱させられる頭。清水の息は全く整うことが無い。


「つまり、貴方も、父親に殺されたと?」


 時雨は一瞬、こちらを横目で見て、少し笑ったような気がした。その笑みに清水の背中が再び凍る。


「まぁ、昔の話ですが」


 時雨も同じ?どういう事だ。母親を私の父親に殺されたとでも言うのだろうか。もしも、もしもそうなら、私はますます父親を信じられなくなる。清水の握る拳がますます強くなっていく。


「少し喋りすぎました。話題を変えます。俺としては、そんなことよりも、三年半前の東京テロのほうが気になりますから」


 清水は時雨から目線を外す。そのことに関しては、恨まれていてもしょうがない。避難放送を私たち、警察で行えば、避難が間に合ったかもしれない。あの時の教師たちは、緊急時に対する対応力がまるでなかった。そのことが悔やまれる。


「九頭竜会、まだ捕まらないらしいの。ごめんなさい」


 清水は何とか、時雨の耳に届くような掠れ声で言った。


「問題はそこではありません。俺もですが、あの被害者全てが九頭竜会を恨んでいます。その九頭竜会に復讐を行う人間が必ず出てくる」


 清水は、どこまでも先を読んでいる時雨に驚いた。

 もしかしたら、時雨も九頭竜会に対して、復讐したいのではないのか?清水はそう思えてならなかった。


「早く捕まえないと、別の事件が起こるという事ね」


 清水はそう呟いた。そして、頭を抱える。警視庁内で九頭竜会対策部まで設立されたというのに、結果が挙がったことは一つも耳に入ったことが無い。一部の下っ端が捕まった程度しか聞いたことが無かった。そのことと、生徒を死なせてしまった責任感が、清水を焦燥させていた。


「まぁ、慌てても仕方がありませんよ。今は目の前の事件に集中しましょう」


 禁句タブーを切り出してきた時雨が、今、この話を終えようとしている。清水は少し意地を張りたくなった。自分だけ心の中を探られたような、時雨だけが得したような気がしたからだ。


「私も禁句タブーを話していい?」


 清水は覚悟を決め、時雨を覗き込んだ。九頭竜会対策部が当てにならない以上、自分も動かなくてはならない。清水は大きく息を吐いた。


「構いませんよ」


 時雨は淡々と答えた。今度は自分の番かと、気を張ることもなかった。

 その態度に少し、清水は負けたような気がしつつも、落ち着いて話す。


「あの三年半前だけど、如月って子、知っている?」


 時雨の眉が少し動いた。清水はその一瞬を見逃さなかった。


「如月は、少し話したことがある程度の後輩です」


 少し話したことがある程度で、名前まで憶えているものだろうか。清水はその疑問を胸中にしまい込んだ。まだ、それを訊く時ではない。


「時雨は言ったよね。クラスを避難させてきたのは、俺と如月って奴って。貴方たちはどうして、気付いたの。あの爆弾」


 水戸警部はあの時、時雨に詰め寄っていた。水戸警部の刑事の勘はよく当たる。私はあの時、避難を最優先させたが、今思い返すと、そのことが少し妙に思えた。


「清水さんは俺の父のことを知っていますよね?」


「うん、貴方は予想できる。父親から九頭竜会の危険性でも話されていたのでしょ?でも、如月は違うよね」


 清水の疑問は時雨に対してではなく、その如月って子に対してだった。どうして、あの爆音を爆弾と気づいたのか。


「それは、俺にもわかりません。あ、着きましたよ」


 気づけば、車はもう、麻布警察署内に入っていく。車は地下へと入って行った。


「話はまた今度ね」


 今は目の前の事件に集中する。清水はすぐ頭を切り替えた。警察署内の地下にはすでに、相馬の車が止まっていた。その車の傍に立って、私たちを待っている相馬。


「ずっと待っていたのね」


 清水は小さく呟いた。相馬はとても、時雨のことを気にかけている。待っているなんて、いつもならあり得ない。

 時雨が素早く警察署内の地下の駐車場に止め、時雨も清水も車から降りた。


「遅いぞ、付いて来い」


 相馬は不機嫌そうに言い捨て、麻布警察署のエレベーターの方へと歩いていく。清水は肩をすくめて、時雨と相馬の後を付いていく。

 相馬が連れてきたのは、取調室だった。マジックミラーから取調室を覗く。


「もう一度、昨日のアリバイを話してもらえるからな?」


 また取り調べをしているのは、三木班長だった。一緒にいるのは若い刑事。時雨と同い年に見える。


「あいつ、どうして?」


 時雨が大声を出した。そんな時雨を見たのは、初めてだった。何かに驚いた表情。


「だから、言っているじゃないですか。三日前から一人で海外に飛んでいて、帰ってきたのは昨日なんですよ?ちゃんと、パスポートにも記録は書いているじゃないですか。まさか、私が密航でもしたとでもいうんじゃないでしょうね?」


 ショートな髪をボサボサにして、疲労が読み取れる顔に怒りの表情を露わにしている井上 桃加は、机をたたいて怒鳴る。何度も何度も同じことを言わされているのだろう。三木班長は時間稼ぎをするとき、何度も同じ質問をする。ボロを出すのを待つのと同時に、裏取りが終わるまで解放するつもりが無いからだ。


「時雨、何に驚いていたの?」


 清水は、三木班長と桃加のやり取りを無視して、時雨が驚いた、疑問を優先して訊くことにした。


「あ、あの、高校、同じクラスだった奴が、三木班長と一緒にいるから驚いたんです」


 清水は納得した。若い刑事は時雨と同じクラスメイトだから、時雨と同い年に見えたのだろう。

 高校の同じクラスメイトということは、あのテロ事件の数少ない生存者。つまり、彼も九頭竜会を恨んでいる一人なのだろう。


「名前は?」


「桜井 善」


 桜井君か。顔は若々しく、明るそうな顔。誰とでも仲良くなれそうな雰囲気を出している彼は、取り調べにうってつけだろう。麻布警察署は若くても、使えそうな人間は誰でもすぐに使うのだろう。良い警察署だ。


「どうして海外に飛んだのだっけ?」


 取調室の三木班長の眼差しは鋭く、見ているこっちだって縮こまりそうだ。おそらく、まだ、犯人を追い込む材料が足りないのだろう。


「だーかーら、ちょっとした休暇だって」


 苛立ちを前面に押し出す桃加。


「ふーん、一人で海外にねー」


 確かに、桃加は怪しさ満点だ。途中から来た清水にとっても、それは感じ取れた。


「なに?文句でもある?」


 桃加は相当気の強い女性だ。三木班長の鋭い眼光に怯える様子もなく、怒声を上げている。


「事件が起きる前に海外へ行っているなんてね。偶然にしては出来過ぎているんじゃないのか?」


 三木班長も、桃加に負けじと対応する。桃加と三木班長が一歩も譲らない取り調べだ。


「なんで殺された被害者の家族が疑われないといけないわけ?そもそも、私が殺す動機は無いでしょう?」


 三木班長は鼻を鳴らし、少し笑ってみせた。


「へー、それじゃあ、四日前にいきなり、井上 嘉数さんが生命保険に入った理由は?いかにも、殺されるのを分かっているかのように」


「そ、そんなの知らないわよ」


 少し桃加の声が裏返っている。

 清水は、被害者、井上 嘉数が生命保険に入っていることを耳にしたことが無かった。刑事の誰かが、その情報を掴んで、すぐに三木班長に伝えたのだろう。おそらく、火狭さんだと思うけど。

なるほど、保険金目的の殺人か。三木班長はそう推理しているのだろう。

 そんな取調室を勢いよく開けたのは、麻布警察署の三十代前後くらいの署員。


「三木班長、ちょっと」


 三木班長が立ち上がり、三十代前後の刑事から何か耳打ちされている。

 おそらく、アリバイの裏取り結果だろう。三木班長はその耳打ちに、眉間にしわを寄せ、桃加に睨み付けるように見た。


「ありがとう。下がっていいぞ」


 三木班長の言葉で、先程の三十台前後の刑事は取調室から出ていく。


「おめでとう。君のアリバイは証明された」


 三木班長は大きくため息をついた。三木班長の言葉に桃加はニヤリと笑う。


「これで、出してもらえるよね?」


 桃加の笑顔は、怪し過ぎた。夫が亡くなっているのに、解放されると決まった瞬間、笑顔になるとは、本当に彼女は犯人ではないのか、清水は疑問に思う。


「必ずお前のトリックは見破いてやる。だから、家で待ってろ」


 三木班長は、椅子から立ち上がり、三木班長を素通りして、取調室を出ようとした桃加に発せられた。三木班長は桃加に背を向けている。


「無理だと思うけど」


 桃加は三木班長を見向きもしないで、取調室から出ていく。三木班長は取調室の机に歩み寄り、両手の拳を机にたたきつけた。


「どうなっているんだ!」


 取調室で三木班長が怒鳴る。傍にいた、あの桜井って刑事はその姿に視線を送ることもなく、取調室を出た。


「こりゃあ、振り出しだな」


 桜井はそう呟いた。その桜井に私と時雨は歩み寄った。


「桜井。久しぶりだな」


 桜井に話しかけたのは、もちろん時雨。時雨は、先程の落ち着いた大人びた表情ではなく、どこか子供っぽい表情をしていた。

 そうだ。彼はまだ二十歳近く。とても、二十歳のような素振りを全く見せないから、清水は二十歳近くのことをどこか忘れていた。


「お前こそ、どうしてここに?」


 時雨と桜井の感動の再会を静かに見守る清水。


「俺は今、本庁で刑事をやっている。お前は?」


「俺はここで刑事をやっているんだ。いやー、前から頭が回るとは思っていたけど、本庁で刑事とはすごいな」


 桜井は腕組をして、時雨のことを舐めまわすように見る。


「お前もその歳で刑事って凄いじゃないか」


「あの事件で、何百人ものの刑事が亡くなったからな。警察官になったら、すぐに急造刑事として呼ばれただけだよ」


 清水は少し、目を伏せた。自分にも責任がある事件。


 急造刑事、上手いことを言うものだ。


「俺も同じようなものだ」


 時雨と桜井の目は、どこか悲しげだった。やはり、あの、テロ事件は彼らにとって、とても大きかったのだろう。

 清水は彼らの感動の再会を邪魔しないように、少し後ずさる。すると、視界の端っこに映る相馬が、口元に手をやり、眉間にしわを寄せ、考え込む姿が見える。


「彼女はクロだ。だが、ただ殺人教唆をするだけの人物には見えない」


 相馬は小さい声で呟き、悩みこんでいる。


「相馬の考えは、彼女は少なくとも、この殺人事件に関わっていると考えるのね」


 清水は相馬に近づいて、時雨と桜井の会話を邪魔しないように小さい声で言った。


「誰かに殺人を依頼したというのが、一番考えられるのだが」


「その誰が殺人を実行したか?という事ね」


「実は、所轄が怨恨の見解を出したのは、井上 嘉数が、妻以外の知り合いが皆無と言っていいほど、いなかったからだ。引きこもりだったらしい。つまり、妻が殺害を起こすのは分かるが、他が起こすとなると、利益無しで殺害を起こしたことになる」


「小学校や中学時代とかそういう友達は?」


「その友達との交流は一切ないし、そうなると、その妻との接点が見つからない」


 清水は自分の頭にある事件の纏めた捜査資料を読み直す。他に疑う人間はいない。


「清水さん、ちょっと」


 物思いに耽っていると、時雨が呼んできた。清水は一瞬、相馬に視線を移す。相馬は顔を少し動かした。行けと言われているのが、清水は分かった。

 清水はすぐに時雨と桜井に駆け寄る。


「清水さん、桜井が重要なことを教えてくれました」


 時雨の目線が桜井に移る。自分で言え、と言っているのが分かった。桜井は小さく頷く。


「実は、本庁に知らせていない情報があるんです」


 桜井の言葉に、清水は目を丸くした。麻布警察署は本庁を嫌っているわけではないはず。どうして、情報を隠す?


「それが、桃加の不倫事情です」


 桜井はそう続けた。清水は驚きのあまり、口が自然と小さく開く。


「不倫事情はどういうものだ?」


 気づけば、相馬が近くにおり、この会話に割り込んで入ってきた。


「桃加は夫がいるにも関わらず、ある男と不倫しています。名前は阿部あべ 勇人ゆうと。歳は三十九で、こちらも結婚しています。阿部あべ 晴香はるか。歳は三十六で、あまり、良い仲ではないようです」


 また不倫、あ、いや、前の事件は不倫じゃなかったな。


「なら、そいつを引っ張って、指紋照合すれば、いいだけだろう」


 確かに。相馬のいう事はもっともだ。


「それが、任意の事情聴取に応じてくれなくて」


「それで、俺達本庁に動いてほしいから、お前は俺達に教えたんだろ?」


 時雨が口を挟む。


「そんなものじゃない。同じ警察官なのに、手柄を取るために情報を共有しないのは、間違っていると思ったからだ」


「あんたはえらいな。俺はすぐにその、阿部 勇人に話を訊きに行く。場所を教えろ」


 訊いたのは相馬だ。


「場所はあのマンションの近く、港区六本木7丁目の―――です」


「よし、俺は火狭と合流して、すぐにそちらに向かう。付いてくるか?」


 相馬の目線がこちら、清水に移る。清水は言葉に詰まる。どうすればいい?それを訴えるつもりで時雨に目線を移す。

 それに気づいたのであろう。時雨は小さく首を振った。

 え?行かないの?

 疑問に思いつつも、今まで時雨と一緒に来た清水は、それに従った。


「私たちは行かないわ。そっちはお願いね」


 相馬は、珍しく目を丸くしたが、すぐに頷き、走って行った。


「時雨、どうするつもりなの?」


 清水の疑問が時雨に投げかけられる。


「あの凶器の包丁がどこで売られているか、調べましょう」


 清水は目を見開いた。それを二人でするというのか。無茶苦茶だ。しかし、時雨の目は真剣だった。


「分かったわ」


 清水は頷いた。そして、何も予定が決まっていない桜井に目線を移す。時雨も桜井に目線を移した。


「お前はどうする?」


「俺は、三木班長を説得して、共に、包丁の売っている場所を探す。手分けしよう」


 時雨は頷き、こちらに目線を戻した。行こうという目だ。

 清水は小さく頷き、時雨と共に駐車場まで急ぐ。

 事件はまた新たな顔を見せたところだ。










 気づけば、辺りは真っ暗。闇に負けないように立ち並ぶビル街が光り輝いている。

 もう何件回ったであろう。デパート地下を何度も回り、凶器となった包丁を売っているか尋ねる。答えはどれもノー。どこのデパートでも売っていない品物らしい。

 普通の包丁に見えるのに、どうして売っていないの?

 今日の捜査はもう出来ない時間帯なので、取り敢えず、麻布警察署に戻る清水と時雨。


「これ、おかしくないかな?」


 清水はふと呟いた。運転していた時雨は、横目でこちらをチラッと見た。


「おかしいですね。どうして、普通の包丁を使わなかったのでしょうか」


 時雨は、考えていることが外れたのであろう、考え込んでいる顔をしていた。


「もー、どうなってるんだよー。こうなったら、相馬の方に期待するしかないね」


 清水は、Y字に手を目いっぱい広げ背伸びした。そして、欠伸をする。その欠伸を横目で見ていた時雨が口を開ける。


「相当疲れていますね」


 時雨の声も疲れているのが分かるくらい、低く小さい声だった。


「時雨も疲れているでしょ」


 今日は同じように、駆け回ったのだ。疲れてないわけがない。


「もちろんです。帰ったら、即ぐっすりですね」


 時雨の言葉に清水は微笑しつつ、窓の外を見た。光り輝く外は少し眩しく、三年半前のテロ事件など無かったかのようだ。


「昼間の話、蒸し返してもいい?」


 清水は未だに思っている疑問をぶつけるため、昼間した話の続きをやろうとした。


「構いませんよ」


 時雨は少しも表情を変えない。話をしながらでも、運転をしながらでも、今の事件のことを考えているのだろう。それでも、清水は時雨に訊くしかなかった。


「どうして、如月って子は、爆弾に気付いたと思う?」


 時雨は考え込む顔をやめ、目を見開いた。


「如月を疑っているんですか?」


 時雨の口調は強く、怒っているようにも思えた。しかし、清水はやめない。ここでやめては、折角の手掛かりが失いかねない。


「えぇ。彼が九頭竜会の可能性はない?」


 一般の子が大きな爆音だけで爆弾に気付くはずがない。


「ないでしょう。兄を誤認逮捕された上に、警察に殺されてしまったんですから。警察もですが、九頭竜会も恨んでいますよ」


 清水は目を見開いた。それと同時に大声を出す。


「水戸警部が間違っていたとでも言うの!?」


 清水は鬼のような形相で時雨を睨む。尊敬している水戸警部を悪く言われたくなかったのである。例え、それが時雨であったとしても。

 しかし、時雨は清水の睨みを一切気にせず、信号で車が止まっているから、こちらを軽蔑したような目で見てきた。


「えぇ、水戸警部は間違っています」




 パン。




 清水は時雨を平手で殴った。私が間違っているならともかく、水戸警部を否定することは許さない。清水は怒りを爆発させた。


「貴方に水戸警部の何が分かるの!」


 時雨は殴られた右頬を抑えた。そして、フロントガラスに視線を戻し、信号が青になったことを確認して、運転を再開する。


「いずれ分かります」


 時雨の冷静な言葉に、我に戻る清水。そして、反省する。後輩に手を挙げたことに対し、自己嫌悪したのだ。怒りに任せて、手を出したのは、良くない行為だ。

 一度、深呼吸をする清水。


「ごめん」


 清水は手で目を伏せた。申し訳ない気持ちで一杯だったからだ。


「構いませんよ。俺だって、それ覚悟で言っていますから。あ、もう到着ですよ」


 清水たちの車は麻布警察署の地下へと入っていく。地下は何台も車が止まっており、すでに帰ってきた刑事が情報交換しているのだろう。


「急ぐよ」


 清水はすぐに車から降り、エレベーター前まで走る。


「ちょ、待ってください」


 時雨もそれを付いてくるように、カギのセンサーで車をロックしてから、走ってきた。

 エレベーターの中や廊下、捜査会議室の前まで、時雨と清水の間には、気まずい雰囲気が流れており、それに疲労までもが重なり、沈黙だった。

 しかし、その沈黙は捜査会議室内の怒声で打ち消される。


「どうなっているんだ。推理が全て外れているじゃないか」


 聞こえてくるのは、三木班長の怒声。時雨と清水は顔を見合わせ、すぐに捜査会議室へと入っていく。


「遅くなりました」


「遅い!」


 清水の言葉にすぐ、苛立ち怒声が混じった回答をしてきたのは三木班長。


「申し訳ありません。こちらは成果なしです」


 遅れた上に成果なし。これは三木班長の八つ当たりを食らっても仕方がない。清水は覚悟を決めた。


「こっちもだ。ったく、あの包丁はどこで売っているんだ」


 三木班長は怒声を上げる。三木班長の怒声に先程から所轄の連中は、嫌悪な表情を滲み出している。


「こっちもはずれ。あいつ犯人じゃない。指紋照合したけど、一致しなかった」


 相馬はパイプ椅子に座って、指紋照合の結果らしき紙を右手でヒラヒラさせている。


「これじゃあ、振り出し…」


 清水は近くの椅子に座り込んだ。そして、頭を抱える。


「外れではないだろう。どうして、落ちていた包丁を凶器と決めつけているんだ?」


 時雨のその一言が、周りにいた捜査員の落ち込んだ空気を一変させた。

 そうか。そういう事か。落ちていた包丁は刺された形状と同じということで我々は勝手に凶器にしていた。しかし、良く考えれば、同じ包丁に血痕をつけて、その場に置けばいいだけだ。そうすれば、包丁につけられた他人の指紋は消えることが無い。手袋で擦れ、消えることが無いのだ。


「そ、そうか。そうだよ!どうして、これを凶器にしてしまったんだ。指紋が残っているからと言って、犯人が使ったものと決まったわけではない」


 相馬は今まで聞いたことのない大声を出した。そして、指を鳴らす。


「解けたぜ、この事件。あとは証拠だ。この包丁の出どころを探れれば」


 相馬の一言がまた私たちの気分を沈殿させる。全く包丁の出どこが分からないのに、どうすればいいというのだ。


「管理官!見つけました。あの包丁の出どころ」


 前の桜井が大声を出した。その桜井の周りに捜査員が集まる。

 包丁の出どこは、ネット上で売られている闇ネットショッピングだった。


>殺人トリックの包丁二丁。他人の指紋付。三万買い取り。


「このサイトは会員制で表向きは普通のサイトですが、トップ画面に六桁のある数字を入れると闇ネットショッピングが出ます」


 桜井のその言葉に所轄の刑事から感嘆の声が上がる。


「どうやって、その中に入れたんだ?」


 麻布警察署の管理官が桜井に訊いた。


「本庁5班の時雨巡査部長が包丁の出どころを探ると言っていたので、協力するために、もしかしたらこのサイトに売っているのではないかと思い、会員になってみたんです。このサイトのうわさは知っていましたから。すると、六桁の数字とトップ画面で打てという説明文が送られてきて」


「でかした桜井」


 管理官は桜井の頭をぐしゃぐしゃに撫でた。


「急いで、このIPアドレスを調べろ。管理者をとっ捕まえて、この包丁を買って行ったやつを吐かせる」


 管理官は所轄の刑事たちに指示し、こちら5班に歩いてくる。


「時雨巡査部長は?」


 管理官は三木班長に訊いた。三木班長は静かに時雨のところまで歩いていき、肩に手をのせた。


「我が5班のエース。彼です」


 三木班長の言葉は、清水の笑いを誘発させた。しかし、清水は一生懸命それを抑えた。いつから、時雨がエースになったのだ。


「時雨君。君のおかげで捜査が進みそうだ。ありがとう」


 管理官は手を伸ばし、握手を求める。時雨は何一つ表情を変えず、握手し返した。


「俺は何もしていません。桜井が頑張っただけです」


「君は本庁の刑事の癖に謙遜するんだな」


 本庁のことが嫌いなのだろうか?管理官は時雨以外の私たち5班に対しては敵意を向けてきた。別に気にすることは無いが。


「みんなそうですよ」


 時雨はそう答え、管理官の手を離し、私たちに視線を戻してきた。5班のみんなは小さく頷いた。

 ありがとう。

 そう心に込めて。


「とにかく、もう深夜一二時を回っている。今日はここで解散にしよう。こちらで管理者は捕まえておく。明日の朝にでも来てくれ」


 そして、捜査会議は終了し、捜査員がぞろぞろ出ていく。しかし、所轄の管理官と少数の刑事たちは残っている。

 手柄を横取りするつもりだろう。しかし、我々5班は元より手柄を気にしない班だ。管理官の言葉に甘え、今日は解散となった。












 清水と時雨は地下にある車に向かっていた。


「今日は大活躍だったね。時雨」


 清水は前のやり取りのことも忘れ、さっそく時雨を茶化す。


「そうでしょうか。活躍したのは、桜井だと思いますけど」


「それはそうだけど、時雨も活躍したのは間違いないよ。相馬も、時雨は天才だとかなんとか言っていたし、すごいじゃん」


 もはや、時雨のことを認めない人間は5班にはいないだろう。

 時雨は照れているのか、口元に手をやる。その口元は笑っているのか、清水は気になった。が、どうやら笑ってはいなかったらしい。


「清水さん」




 時雨がある事を私に言う。私は目を丸くした。まさか、この事件の真相はそうだなんて。




「それで、お願いしたいんですが」


 時雨は、この事件を本当の意味で解決するためにお願いしてきた。もちろん断る理由はない。それに、時雨には最後の仕事がある。これは私、清水 思織の仕事だ。


「もちろん」


 清水は笑顔で答えた。


            ☆


 四月一三日、午前六時二六分、所轄の頑張りによって、あの闇ネットショッピングサイトの管理者が逮捕された。その一報を聞いた相馬は急いで麻布警察署へ向かった。

 麻布警察署には所轄の刑事たちに三木班長に時雨に…。あれ?清水と火狭がいないが、興味はない。どうせ、寝坊とかそこらだろう。


「さて、重要な取り調べだが、ここはやはり、本庁の三木警部にお願いしたい。いいかな?」


 管理官は腕組をして、パイプ椅子に座りながら三木班長の方を見ていた。


「構いませんが、いいのですか?」


 三木班長が相馬も時雨も思っている疑問を口にした。今まで、手柄を独り占めしてきたのに、ここにきて、なぜ我々に手柄を渡す?


「いや、取り調べは大事な証拠となりうる。今、俺達の署は若い奴ばっかりで、取り調べをあまり知らないんだ。だから、三木班長に見本を見せてもらおうと」


 なるほど。三木班長から取り調べを若い刑事たちに学ばせるつもりか。良く考えられている。


「分かりました。相馬、付いて来い」


 三木班長はこちらに視線を移した。


「分かった」


 相馬は頷き、第一取調室へと三木班長と共に歩いて向かう。時雨がどう動くか少々気になったが、別段、普通の動きをしている。先輩刑事、清水がいなくても平気か。さすが天才時雨。

 相馬の中では、時雨に頭脳戦では敵わない人間として位置づけされている。すでに、時雨は特別な人間へとなりつつある。


「失礼する」


 第一取調室に静かな声を発し、中に入っていく三木班長、そして、相馬。第一取調室にいた所轄の若い刑事はこちらを見て、頷き、すぐに退出していく。

 向こう側でパイプ椅子に座っている、短髪で癖毛、丸眼鏡をかけていて、頭が良さそうな顔立ち。目に力がこもっておらず、悪いことをしたという意識があるような表情の男性。年齢は三十代前半だろうか、少し、しわが現れてきている。

 三木班長は正面に、相馬は三木班長の斜め後ろに座った。


「警視庁捜査一課の三木 雄也です。そして、こちらが」


 三木班長がこちらに視線を向けた。自己紹介しろと言っているのが分かった。


「同じく相馬 流星だ」


 すぐに三木班長が正面に座っている男に目を移した。


「申し訳ないが、あまり時間をかけるのは好きではないんだ。少しでも良心があるなら、話してくれ。君は殺人包丁というものの売買をしているね?それは直接会ったりするのか?」


 三十代前半の男、藤本ふじもと 隆志たかしは、自分のことを訊かれると思っていたのだろう。驚いた顔をした。


「どうしてそんなことを?」


 三木班長は椅子から立った。時間を確認する。まだまだ時間はある。


「昨日。一つの遺体を警察は発見しました。死体は包丁で滅多刺しにされており、現場には指紋のついた包丁が落ちていました。そう、貴方が売っていた包丁がね」


 藤本の手が震えている。


「ほ、本当に犯罪が起きるなんて」


 藤本は震えた片手を利き腕でない左手で抑えるも、手の震えは止まっていなかった。口元もどこか震えている。


「だから、君の証言が重要なんだ。あれは、直接会って売買しているのか?」


 三木班長の問いに、藤本は大きく首を振った。


「ごめんなさい。あれは、郵送で代金引換ですから、俺にも相手の顔は分かりません」


 郵送で代金引換―――。十分だ。それだけで証拠になりうる。


「住所、急いで」


 三木班長はマジックミラーにそう告げた。そして、前傾姿勢から椅子に凭れ掛かり、一息つく三木班長。


「証言ありがとな。おかげで、凶悪犯が捕まりそうだ」


 三木班長はそう微笑みかけた。これは罠だ。相馬はすぐわかった。犯罪にほんの一部とはいえ、関与している藤本にお礼を言うはずがない。ましてや、殺人用道具を売っているなど、なおさら許されない。三木班長は、彼の口を開きやすくするために笑顔を作っているだけだ。全てを吐かせたら百八十度、態度を変えるだろう。


「住所、これです」


 第一取調室のドアが勢いよく開けられる。来たのは、大活躍した桜井。メモ帳の紙らしきものを三木班長に手渡し、退出する。


「藤本さん。包丁を郵送した住所、ここにも送ったことがありましたか?」


 三木班長はメモ帳の紙を机の上に、藤本が見やすいよう逆に置いた。


「これ!最後に送ったお客の住所です!家のパソコンにも記録が残っています」


 三木班長はニヤリと笑い、マジックミラーを見た。そして、椅子から立ち上がり、勝ち誇った笑みを溢し、藤本に視線を送った。


「お前のやったことも犯罪だ。しっかり、反省しろ」


 そう言い捨て、取調室を出ていく。相馬も三木班長の後を付いて、出ていく。取調室の外では慌ただしく動いており、令状の準備と逮捕の準備で、捜査員が奔走していた。


「さすがだな」


 管理官は、三木班長の左肩に右手をポンッと置いて、純粋に感心していた。


「まだ終わっていませんから」


 三木班長はどこか、興奮しているのか、高い声を出した。

 相馬は時計を見た。まだ、午前七時少し回った程度。大きく息を吐いて、少し深呼吸をする。

 今回は何も手伝えることが無かった。

 相馬は自分の後頭部を右手で掻き、少し欠伸をして捜査会議室へと向かっていく。


「どこへ行くつもりだ相馬」


 三木班長は、疑惑の目を向けてきた。相馬は三木班長に振り向きもせず


「少し休みます」


 そう言い捨て、捜査会議室へと足を動かす。三木班長のため息が聞こえたような気もするが、興味はない。

 捜査会議室はある程度の捜査員が、慌ただしく動いている。その中を潜り抜けて、一番隅の邪魔にならないパイプ椅子に凭れ掛かり、天井に顔を向けて座る。そして、目を閉じる。

 捜査員の足音一つ一つが大きく聞こえる。話している声すら良く聞こえる。今回の事件は、時雨が事件解決の糸口を見つけだし、その時雨を一番理解している清水。証拠を押さえた所轄の刑事、桜井。そして、取り調べで大活躍する三木班長。火狭は、まぁ、いいや。今回は、俺以外の皆が活躍している。別に、この事件をなめて挑んだわけではない。それなのに、何一つ役立てなかったことに、相馬は歯軋はぎしりした。


「相馬」


 そう呼ばれて、静かに目を開け、ゆっくり背凭れから背中を離す相馬。呼んできたのは、時雨だった。


「なんだ?」


 急に呼ばれて、少し動揺していたが、すぐに落ち着かせた。


「まだ事件は終わっていない」


「三木班長みたいなことを言うんだな」


 もう事件が解決するのは時間の問題。阿部 勇人が井上 桃加から殺人するよう依頼されたことを供述すれば、事件解決だ。俺が出来ることはもうない。あとは、三木班長の取り調べに同行する程度だ。


「お前はあの時言った。彼女が、ただ殺人教唆をするだけの人物には見えないと。それに気づいているなら、まだ事件が終わっていないことくらい分かるはずだ」


 相馬は目を見開いた。聞こえていたのか、いや、そんなことよりも、その言葉を持ってくるということは、この事件は単なる殺人教唆でないということになる。


「お前…」


 相馬は何を言えばいいのか分からなくなった。時雨の目が、輝いてみえる。


「断言しよう。これはただの殺人教唆からの殺人ではない」


 相馬は固まった。そして、全神経を使い、頭の隅々にわたり、思考を巡らせていく。




 殺害動機が一人しかいない殺人事件。生命保険を掛けられている井上 桃加。その桃加と不倫関係にある、既婚の阿部 勇人。滅多刺しに凶器が落ちていることから、恨みによる突発的犯行に見える犯行現場。凶器を偽るトリック。完璧なアリバイ作り。

 ここまで計画的に進められていたということは、結構前から計画されていたと考えられる。

 どうして、阿部 勇人は殺害を実行した?お金か?そんなことで殺害を犯せるのか?

 いや、違う―――一つ、可能性を捨てている。彼が殺すことで、自分に利益をもたらし、そうすることで、警察が混乱させられる理由。




「そうか。これは交換殺人だ」


 ようやく真相が分かった。相馬の拳には力がこもっていた。まだ、俺にはやることがある。

 交換殺人。これは二人で行う殺人だ。まず、Aを殺したい人物BとCを殺したい人物Dがいたとしよう。Aを殺したい人物Bはそのまま殺してしまうと、普通に考えれば警察の追及を受けて、ばれやすくなる。しかし、BとDで手を組んで、AをD、CをBが殺す計画とする。もちろん、Aが殺されるときは、Bには完璧なアリバイを作る。Cが殺されるときには、Aが完璧なアリバイを作る。そうすることによって、警察はAが殺されたとき、Bを追及するが、追いきれるはずがない。仮にDを逮捕できたとしても、その場では交換殺人ではなく、殺人教唆と考える。しかし、そのDが捕まって、取り調べを受けている間に、BはCを殺せば、警察は混乱するし、たとえ、交換殺人をそこで見抜けたとしても、止められたはずの犯行を見逃したことになる。警察の信用は失墜する。


「時雨、ありがとう。俺、阿部 勇人の奥さんのところへ行ってくる」


 相馬はそう言い捨て、走って車のとこへ行こうとした。


「あ、ちなみに清水さんたちもいるから」


 時雨の言葉に少し相馬は立ち止まり、時雨を見て笑った。どこまでも、先を読んで、先輩刑事すら動かしている。怖いくらい天才な青年だ。


「分かった。合流する」


 相馬は物凄いスピードで、他の捜査員に当たらないよう走り抜けていった。


            ☆


「来たか」


 手をこすり合わせて、今か今かと待ちわびていた俺、三木は、阿部 勇人が署内へ連行されたことに喜びを感じていた。絶対に、彼を吐かせて、勝ち誇った井上 桃加の顔を歪ませてやろう。

 三木の心は少し黒かった。


「相馬は別件でいないので、今回の取り調べは俺が同行します」


 捜査会議室内のパイプ椅子から立ち上がった三木に近づいてきたのは、我がエースの時雨。


「そうか。分かった」


 三木は何一つ気にせず、目の前のことに集中する。彼を吐かせなければならない。

 一瞬、三木は時計を見た。約、午前一一時。昼飯前には終わらせたい。


「さて、行くか」


 三木は両手をパンッとたたいて、時雨を横目で見る。時雨はその視線に気づいたのだろう。小さく頷いた。

 三木と時雨は第一取調室へと入る。そこで待っていたのは、ぐったりしている、男の割に長髪で少し癖毛。しかし、その長髪が似合っており、少し頭の良さそうな雰囲気を漂わせる。とはいえ、その長髪である程度の顔を隠し、俯いている。


「警視庁捜査一課の三木 雄也です」


「同じく時雨 隼です」


 もちろん三木は、阿部 勇人の体面に座る。しかし、時雨はどうしてだか座ろうとせず、こちらを睨んでいる。

 まぁいい。時雨は時雨で考えがあるのだろう。我々の不利益になることは無い。

 三木は、時雨が座らないことを気にも留めることなく、少し強い口調で取り調べを始める。


「早速ですが阿部 勇人さん。なぜ逮捕されたのか、お分かりですよね?」


 阿部は俯いたまま、こちらを見ようともしない。長くなる―――。三木はそう直感した。とりあえず、独り言を続けるしかない。


「事件を初めから話しましょう。昨日、港区六本木7丁目―――で遺体が一つ発見されました。殺されたのは一昨日の夜。一昨日の夜のアリバイでもありますか?」


 阿部は俯いたまま、何も答えない。三木はため息をついて続ける。


「貴方は事件現場に凶器を偽るために同じ包丁を置きましたよね?他人の関係ない人間の指紋が付いた包丁を」


 未だ阿部は俯いたまま、何一つ身動きをしようとしない。


「では、ここからは私の推理を話しましょう。貴方は殺された井上 嘉数の妻、井上 桃加と不倫関係にあった。その彼女から殺人を依頼されたと、私は思っています」


 一瞬、ほんの一瞬だが、阿部の眉がピクリと動いた。攻めるならここだ。


「生命保険を掛けられている彼女には多大なお金が入るでしょう。しかし、貴方は捕まるだけで利益はない。黙っているのは損だと思いますけどね」


 またも阿部の眉が動く。しかし、阿部の眉はどこか強張ったわけではなく、表情を緩めたときの眉の動きだった。


「三木班長。ここからは俺に任せてください」


 先程まで黙っていた時雨がついに口を開いた。三木班長は時雨に目をやる。あの時と同じだ。目の色が輝いている。


「分かった」


 三木は頷き、斜め後ろにあるパイプ椅子に座る。時雨は空いた阿部 勇人の体面の席に座った。


「さて、阿部さん。そうやって、黙っていれば時間が解決してくれる。とでも思っているのですか?」


 三木は時雨の言葉を疑問に思った。時間が解決してくれそうなのはこちら、警察の方だ。長い時間をかければ、彼と井上 桃加の関係を洗い出せるし、問い詰めることもできる。彼は時間をかければかけるほど不利になるはず。どうしてそう思う?


「一つ一つ説明しましょう。事件が発覚したのは、旅行から帰ってきた井上 桃加さんが夫の死体を発見したからです。もしも、彼女が犯人もしくは共犯者ならば、凶器の包丁を残さないはずですし、現場をよく見る時間もあります」


 それは先程、自分が言ったことだ。時雨はまた同じことを言うつもりなのか。


「これは、三木班長が言っていたので省きますが、貴方は凶器を偽るというトリックを使った」


 結局省くのか。


「包丁をあえて置き、突発的犯行に見せかけ、怨恨の線を強くした。確かに我々警察は一度騙されました。井上 桃加が犯人だと思い込みました」


 騙されたことまで言わなくてもいいだろう。三木はそう思ったが、口にはしなかった。


「しかし、貴方と井上 桃加が不倫関係にあると聞いて、警察は貴方に目を向けた。これも予想していた上でしょう。そのために、先程の凶器を偽るトリックを使った。そのおかげで警察は混乱し、捜査が振出しに戻った」


 それを、時雨が見抜いた。


「それで、我々は包丁の出どころを見つけ、このトリックを見抜いたわけですが」


 違うだろ。お前が見抜いたんだろ。

 しかし、三木は黙ってみていることにする。


「これだけ殺人を緻密に計画しているのに、動機が見えないのはあり得ない。人間はお金だけで殺人を行えるほど愚かではありません。それなりの借金など追いつめられたときにしか殺人は行わない。貴方の、借金やお金に困っている話は聞いたことがありません。つまり、お金が殺害動機になったわけではない」


 それは三木でも分かる。お金をもらうことで、はい、殺人をしますというのは、殺しに慣れている人間だけだ。


「我々警察は今でも不倫関係であった井上 桃加から依頼されたと信じきっていますが」


 いますが―――?まさか、時雨は別の理由があると思っているのか。


「俺はこの殺人が、まだ、交換殺人の一部だと思っています」


 その時雨の一言に、つい三木は立ち上がった。立ち上がるのと同時に阿部は顔をついにあげた。全てを看破された顔だ。


「俺が一人で計画して、一人で殺ったんです。桃加は関係ない!」


 三木は頭を掻いて、時雨を見た。時雨は何一つ表情を変えていない。


「それじゃあ、こいつの妻は今、危険じゃないか。すぐに警護を」


 三木に被せるように時雨の口が開く。


「大丈夫です。清水さんと火狭さんと相馬が、今、罠を張っています。そろそろ罠にかかるでしょう」


 時雨の言葉に、半狂乱になる阿部。殺人を犯しておいて、自分の死んで欲しい人間は殺されないという恥辱、不倫関係の井上 桃加が捕まりかねないという不安から、暴れ始めた。三木と時雨は彼を抑える。


「早く、早く伝えないとぉぉぉ、これは罠だって伝えないとぉー」


 先程とはまるで別人。狂ったかのように暴れまわっている。すぐに所轄の刑事たちも第一取調室に入り、彼を抑える。


「公務執行妨害まで追加か。こりゃあ、可哀想だな」


 三木は独り言のように呟いた。犯罪者に同情していいわけではないが、殺したい相手も殺されず、ただ、利用されて殺しただけのようになってしまっている。しかも、お金も入らないだろう。

 三木は阿部 勇人を彼ら所轄の刑事に任せ、第一取調室を出た。外で待っていたのは、驚いた顔を全面に広げている管理官。口をポカンと開けて、所轄の連中と阿部のやり合いを見ている。

 三木の携帯が鳴り響く。相手は清水。すぐに出る。


「どうした?」


「三木班長。井上 桃加を殺人未遂の現行犯などで逮捕しました。右手を負傷しているので救護係もお願いします」


 そうか、これが時雨の言っていた罠か。

右手を負傷している…。三木は笑った。なんとなく予想できる。右手を負傷しているわけではなく、右手を負傷させたのだろう。彼女の性格なら自殺もあり得る。


「ご苦労様」


三木は電話を切ってすぐ、管理官にその事実を伝えた。


            ☆


 少し時は戻り、時刻は午前一一時一四分。

 昨日の夜からこの場で張っている、車の中の運転席に座っている清水は、ため息をついた。

 隣の助手席に座っている火狭さんは先程から欠伸が絶えない。


「あのー、やっぱり、来ないんじゃ…」


 後部座席に乗せているのは、阿部 晴香。時雨からの助言で、彼女に協力してもらい、井上 桃加が罠に嵌るまでずっと待ち続けている。


「いえ、必ず来ます。窮屈ですが、我慢してください」


 清水の答えに、晴香は肩をすくめた。何を言っても無駄だということが分かったのだろう。

 少し車内に沈黙が流れる。沈黙を破ったのは、先程合流し、コンビニへと菓子パンを買いに行った相馬が車に戻ってきたのだ。


「ほら、昼飯」


 相馬にしては気が利く、菓子パンだけでなく、サンドウィッチまでも買っている。


「さすが相馬。良く分かっているじゃない」


 清水は微笑んで、相馬の買ってきたサンドウィッチに手を伸ばす。その手を相馬は弾いた。


「ばーか、これは晴香さんのだ」


 相馬の目はニヤリと笑っている。こうなることを予測していたのかもしれない。


「えー」


 子供の用に口を尖らせる清水。


「それじゃあ、間を取って私かな?」


 火狭さんもニヤリと笑い、素早い手つきでサンドウィッチを奪った。


「なんでそうなる!」


 すぐに相馬は取り返し、晴香さんに目線を移した。早くサンドウィッチを貰ってくれという目をしている。清水と火狭さんの視線も晴香さんへと移る。食べないでという懇願の目だ。


「い、いえ、私は結構ですから。その二人の刑事に…」


 ばつが悪そうに、晴香さんは視線を外に移し、苦笑いした。


「やったぁー」


 火狭さんの声が甲高く聞こえる。


「ば、バカ。そんなことすると、あの二人は調子に乗るだけなんだぞ!」


 あの相馬が困っている。なんだか、微笑ましい光景だ。いつの間にか、強張っていた、晴香さんの表情は柔らかいものになっていた。

 和んだな。清水は相馬いじりの仕事を終え、フロントガラスに視線を移す。すると、晴香さんと隆志さんの家の玄関のドアの前に井上 桃加が立っていた。


「みんな、来た。相馬、付いてきて。火狭さんは晴香さんと共にここで残っておいてください」


 清水はコートの中に手を入れ、拳銃を取り出した。相馬も拳銃を取り出している。

 合鍵を貰っていたのだろう。井上 桃加がドアを開け、入り込んでいく。


「相馬!」


 清水は叫び、車を降りる。


「了解」


 相馬も車を降りた。


「急ごう」


 清水は走って、玄関に近づく。後を付いてきた相馬と顔を見合わせ、出来るだけ音がならないようにドアを開ける。少し、ギィーと鳴ったが、今の彼女の耳には届いていないだろう。

 清水は部屋へ入り、さっそく居間にいる包丁を持った井上 桃加に拳銃を向けた。相馬も井上 桃加に拳銃を向けている。


「そこまでよ。井上 桃加!」


 井上 桃加はすぐに包丁を背中に隠した。が、すでに遅い。


「あ、貴方たちは?」


 取調室を出てきた井上 桃加とは違い、今回は、少し声が震えている。


「警視庁捜査一課の清水です。井上 桃加、殺人未遂の現行犯と殺人教唆、銃刀法違反等による容疑により、貴方を逮捕します」


 清水の一言に井上 桃加は包丁を自分の左手首に突き付けた。手首を切って死ぬつもりなのか?


「え?落ち着いて」


 清水は急な出来事に頭が真っ白になった。そして、指が震える。


「落ち着くのは貴方たちでしょう?さぁ、このままなら死ぬわよ、私。いいざまね。世間からは被疑者を死なせたとして、責任問題に問われる」


 清水は息を呑んだ。井上 桃加なら自殺しかねない。清水は横目で相馬を見る。相馬の表情は何一つ変わっておらず、冷静な顔だった。


「清水!」


 急に相馬が大声を出すものだから、清水も桃加も驚いた。


「な、に?」


 できるだけ、心を落ち着かせるように、静かな声で答えた。


「あんたなら止められるはずだ。包丁を持っている右手を狙え」


 撃てというの?この状況で?

 清水は大きく息を吐いて、井上 桃加を睨んだ。

 これは責任問題に問われるわね。

 事後のことを考えると、清水は笑ってしまった。責任問題に問われるかもしれないというのに、全く気にしていない自分がここにいる。


「ほ、本当よ?死ぬよ?死ぬんだから」


 上ずった桃加の声が家の中に響く。そして、左手首に彼女の意識が集中した一瞬だった。ここしかない。



 清水は拳銃を発砲した。その銃弾は見事、彼女の右手の甲に埋め込まれ、彼女は包丁を落とす。その瞬間、相馬も清水も桃加に駆け寄り、彼女を確保した。



 清水は自分の腕時計を一瞬チラッと見た。午後一一時三〇分。


「相馬、手錠お願い」


 相馬に桃加の身柄を渡す。相馬は頷き、桃加に手錠をかける。桃加は右手の甲を抑えながら、唸り声を上げている。

 清水は携帯電話を取り出し、すぐに三木班長に電話を掛ける。数コールで出る三木班長。


「どうした?」


 三木班長の声はどこか興奮しているように思えた。


「三木班長。井上 桃加を殺人未遂の現行犯などで逮捕しました。右手を負傷しているので救護係もお願いします」


 出来得る限り、冷静に物事を話す清水。


「ご苦労様」


 短い言葉で労ってきた三木班長は、そのまま、電話を切った。

 清水は大きく息を吐き、相馬に視線を移す。相馬と桃加が何かを言い合っている。

 終わったな。たった二日での容疑者全員逮捕の上、一人の命を守ったのだ。これは、警視総監賞ものでもおかしくないだろう。


「終わってるじゃん」


 部屋の中に入ってきたのは、火狭さんと晴香さん。


「どうして来たのですか?」


 清水は火狭さんに訊いた。


「そりゃー、銃声したら、誰だって飛んでくるよ。周りはもう人が集まってきているよ?」


 火狭さんに言われて、間抜けな質問をしたことに後悔する清水。

銃を撃ったことすら清水は忘れていた。そうだ。銃を撃ったんだ。周りが騒ぎだす前に手を打った方がいいだろう。

 近くでパトカーの音が耳に届く。清水は頭を掻いた。

 あっちゃー、もう通報されていたか。


「清水ぅ、どうするの、これ?」


 火狭さんが私を苛めるような、ニヤついた笑顔をしていた。


「仕方ない。始末書書きます」


 寝てない上に始末書を書かなくてはいけないとは、今夜は地獄のような事後処理になりそうだ。


「始末書頑張れー」


 他人事のように相馬は笑う。


「相馬は、少しでもいいから、手伝ってね?じゃなきゃ、始末書に、相馬が強引に撃つように命じたとでも書くわよ?」


 清水は火狭さんがしてきたニヤついた笑顔を、相馬に向けた。


「おい、それはないだろう。分かった。手伝うから、それだけは勘弁してくれ」


 今日、合流してから、どことなく相馬の表情が明るい。時雨に何か諭されたのだろうか。何にしても、良い傾向だろう。清水は時雨が5班に来てくれたことに感謝していた。


「警察だ。中にいるやつ、出てこい」


 玄関近くで低いしわがれた声が聞こえる。たぶん、駆け付けた警察官が来たのだろう。


「私が説明してくる」


 清水は玄関の方へと歩く。そして、ドアを開けた。そこには何十人もの野次馬に警察車両が一つ、ドアのすぐ横に隠れていた警察官が拳銃を私に突き付けた。


「動くな」


 結構な歳の警官の鋭い眼光が清水を襲う。清水はそれに怯えることなく、年老いた警官を見返す。


「あ、稲葉いなば巡査長!この人、捜査一課です。それも本庁!」


 逆側に隠れていた若い警察官が声を荒げた。


「え?本当か?」


 年老いた警官、稲葉の緊張の糸が切れるように見える。ここで、私が犯罪者なら、一瞬で立場が入れ替わってしまうだろう。警察官としてはまだまだな彼らに清水は微笑みかけた。


「ごめんなさい。拳銃を発砲したのは私です。犯罪者の自殺を止めるため―――」


 清水の必死の言い訳が始まる。












 事件は結局、時雨の予想通りであった。二人は不倫中にふと入ったサイトから闇ショッピングサイトに入ることができ、殺人包丁を買う時に今回の殺人を思いつき、計画を立てて行ったらしい。最後の阿部 晴香の殺害は時期尚早だったらしいが、警察の早い阿部 勇人の逮捕に、彼らは事を急いだらしい。そのため、罠に嵌ったわけだが。

 時刻は昼時の事件から何時間も過ぎ、夜九時ごろ。清水は1係5班で、始末書を一生懸命、時折、唸りながら書いていた。


「清水さん」


 近寄ってきて、声をかけてきたのは時雨。どこが悲しげな表情をしている。清水はなぜ悲しげな表情をしているのか疑問に思った。


「どうしたの?」


 取り敢えず、疑問を訊く前に用件を訊く清水。


「管理官がお呼びです」


 時雨の言葉に、清水は少し嫌な予感を感じだ。未だに始末書を書けていないことをお怒りなのか、査問会議でも掛けられるのだろうか、どちらにしろ、良くないことなのは決まっている。


「分かった」


 覚悟を決め、管理官室へと歩き始める。すると、時雨も後を付いてきた。


「どうして、時雨も来るの?」


 清水は首を捻る。


「5班全員集合らしいです」


 あれ、私だけの問題ではない?もしかして、連帯責任とか?清水は息を呑んだ。

 清水は恐怖心から黙り込み、時雨は考え事をしているのか、一言も話そうとしない。管理官室前まで時雨と清水は沈黙のまま、管理官室へと、ノックして入っていった。


「失礼します」


 清水が入ると、三木班長、火狭さん、相馬が先に来ていた。というか、私たち以外全員来ていた。そして、その奥に座って、机の上に肘を置き、手を組んでいる時雨 隼管理官。


「清水警部補。今回は色々とやってくれたな、おかげでこっちは大忙しだ」


 時雨管理官はニヤリと笑って、嫌味っぽく話しかけてきた。

 いきなり本題か。清水の首筋に冷たい汗が流れる。


「申し訳ありませんでした」


 頭を下げて、謝る清水。


「あぁ、いや、それを責めるつもりではないんだ。あの場合、君の行動は正しいと思う」


 清水は目を見開いて、すぐ頭を上げた。

 私の事ではない?では、用件は何だというのだろう?

 時雨管理官は一度咳払いをした。今度こそ、用件に入った。


「実は、そこの時雨巡査部長の功績が認められてね、彼を特例の二階級特進にすることへとなった」


 時雨管理官の言葉に、私だけでなく5班の皆が目を丸くしたに違いない。


「どういう事ですか!」


 大声を出し、息が荒れる清水。


「相棒の君の気持ちはわかるが、これは、上が決めたことだ」


 清水の頭の中が疑問の嵐になっていく。たった一ヵ月も経たないうちに異例昇進などと聞いたこともない。どういうつもりなのか。


「彼が二階級特進になるということは、階級は警部です。その場合、どこへ異動となるのですか?」


 冷静な相馬が、時雨管理官を睨むように訊いた。

 時雨管理官は、相馬の睨みも気にせず、先程から厭らしい笑みを浮かべている。


「君は冷静なようで助かる。彼は1係係長の任に就く。それに伴い、5班では大規模異動が行われる」


「急ですね。何かあったのですか?時雨管理官」


 三木班長が今まで見たことのない鋭い眼光で時雨管理官を睨み付けている。


「何か問題でも?」


 三木班長の睨みを全く気にせず、笑みを崩さない時雨管理官。

 ここまで来ると、流石に悪者みたいに思えてくる。


「それで、全ての異動を教えていただけるのでしょうか?」


 今度は相馬が訊いた。相馬は冷静だ。


「もちろん。まず、先程言った時雨巡査部長は二階級特進からの係長。三木班長は九頭竜会対策部…いや、名称も変わり、特務部へと異動になる。因みに、私も特務部へ異動だそうだ」


 九頭竜会対策部が、特務部?九頭竜会だけを対策しないということだろうか。


「まぁ、その為、班長が不在となる。そこで、清水警部補。君が5班の班長へと就任するよう辞令が届いている」


 清水は目を見開いた。私が、この5班の班長?


「ついで、二人も班からいなくなるのだ。新しい奴が二人、君の班に異動されるらしい」


 時雨管理官はそう続けた。


「わ、私が班長って、大丈夫だと思いますか?管理官」


 清水の言葉に、この場にいる全員が清水に視線を集めた。

 誰もが驚いた顔をしている。


「自信が無いんですか?清水さんほど適任はいないと思いますけど」


 時雨が清水の涙を誘発させるような言葉を発する。その時雨の言葉に、相馬も火狭さんも、三木班長ですら頷いた。


「俺も、お前ほど適任はいないと思う」


 時雨管理官は先程浮かべていた厭らしい笑みではなく、子供に向けるような笑顔をしてきた。

 清水は溢れ出そうな涙を必死に踏ん張り、大きくなる心臓の鼓動に、息が整わなくなる。それを全て分かって上で、無理矢理笑顔を作り、清水は返事する。


「はい」


 火狭さんと相馬は何度も頷き、二人とも清水に微笑みかけてきた。

 私は良い同僚を持った。一度目を瞑り、大きく息を吐いて、一度唾を飲み込み、息を整えた。


「班に配属される新人の名前は?」


 清水は絶対に今日中に訊いておきたい疑問を訊いた。


「あぁ。名前は桜井 善巡査部長と川辺かわべ 隼人はやと警部補だ」


 清水はその名前を一瞬で覚えた。桜井 善。今回の事件で大活躍した刑事だ。彼は確か、時雨と同級生であのテロ事件を潜り抜けてきた人間だ。待って、相馬も家族を九頭竜会の一員に殺されている。


 清水はふと思い出した。


「―――九頭竜会に復讐を行う人間が必ず出てくる」


 今、警視庁に新人が何人も呼ばれる不自然さ。その新人たちは、九頭竜会に恨みを持っている。



 考え過ぎか。清水はあまり深いこと考えないようにした。


「取り敢えず、今日はもう解散だ。異動は明日だから、新しい奴も明日来るぞ。明日を楽しみに待っておけよ。ほら、早く出ていけ出ていけ」


 清水は時雨管理官の言葉に笑った。時雨管理官に言われて、全員、管理官室を出た。五人全員でエレベーターに乗り、みんなで5班の部屋に戻る。


「そう言えば、時雨は今回の事件、いつから交換殺人と知っていたんだ?」


 エレベーターを乗ってすぐ、相馬は時雨に訊いた。確かに、清水も訊いてみたいことであった。


「事件の概要を聞いた時から」


 その時雨の言葉に驚く清水、というか全員。相馬なんか、顔が引きつっているようにも見える。

 清水は時雨に一杯喰わされた。要は騙されたのだ。概要を説明してもらったとき、事件をどこまで読んでいるか訊いた。あの時確か、時雨は、まだ少しと言っていた。嘘つき。だが、変なことに、嘘をつかれたことに怒りを覚えることは無かった。


「うそだろ。じゃあ、あの時、あんたと同じくらいだろうとか、調子乗ったこと言うべきじゃなかったな」


 相馬の顔がみるみる赤くなっていく。清水は相馬が、そんな顔をしたことに驚き、そして、笑ってしまった。


「でもさ、どうして、訊いてから交換殺人を予想できるの?」


 今度訊いたのは火狭さん。


「簡単です。睡眠薬で眠らせているのに、一撃で即死にしてから、わざわざ滅多刺しにする理由と凶器が落ちていた理由からです」


 それを訊いても全く分からない。清水は首を捻る。


「どうして、その理由から?」


 火狭さんも同じことを思ったのだろう。


「まず、滅多刺しにする理由は恨んでいるからだと予想できますが、きちんと一撃即死状態にしてから殺すということは、恨んでいるのではなく、恨みに見せかけるため。そして、そんな計画的犯行をしているのに、凶器が落ちているわけない。だから、トリックをすぐ見抜きました。つまり、凶器を持ち帰っていることから、包丁は少なくとも二本以上ある、まだ殺人を計画している、つまり、交換殺人を実行しようとしているのだと予想しました」


 時雨の言葉にみんな唖然とする。彼の頭脳には追いつけるものではない。


「あ、着きましたよ。降りてください。あれ?どうしました?」


 数秒程度、私たちは、頭を働かせていて動けなかった。


            ☆


 5班の五人が帰った管理官室では、一人、時雨 じゅんがため息をついていた。


「ついに動いたか」


 ガラにも無く、独り言を呟いてみる。自分が特務部の二番目の地位にある参事官に就くことになったのはいいが、一番上は土屋警備部長、いや、特務部長か。

 安易に部下を動かせることがなくなる。時雨は天井を仰いだ。

 この人事を命令したのは、警視総監だ。俺にも、清水にも止められることは無い。唯一助かったことが、清水の参事官からの異動はなかったというところ。俺が動けない分、あいつなら動いてくれるはずだ。


「頼んだぞ。清水」


 時雨は目を瞑った。明日から起こる激務を予想して。

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