横槍
「お疲れ。それじゃあ、いつものように行こうか。あまりくっついていると目立つから、俺はアンナと少し離れて後からついて歩くよ」
バラを購入した老紳士の客を最後に〝メリイ″は店じまいとなり、耕介とアンナが軒先で待っていると、裏口から傘を差した彩夏が現れた。彩夏がよろしくお願いしますと言って頭を下げると、肩までのびた髪がさらりと垂れた。
写真を見た時から美人だなと思っていたが、改めて間近で目にすると、写真以上の美しさだと思えた。
肌は艶があるし、ブラウスの下かでもわかる豊かな胸のふくらみは人目をひくものがある。性格も気立てが良くて明るい。
これで彼氏と言える男がいないのも不思議なくらいだと思った。 そんな彩夏に見惚れていると、傍からアンナの鋭い視線に気がつき、慌ててそれじゃ行こうかと彩夏を促した。
耕介の任務はあくまで警護である。気を引き締め直して彩夏の後を歩いていたが、自然と彩夏の後姿というよりも、いつの間にか尻へと視線が向いている。彩夏のひざ丈のペンシルスカートから、形の良い陰影がくっきりと浮かび上がっている。
――あいつも、良い仕事を回してくれたよな。
スカート越しからでもわかる稔りのある彩夏の尻を眺めながら、耕介は的場に感謝していた。
もちろん口に出しては言えることではないから、アンナにも言わず心の中に留めている。
警護自体はひどく簡単な仕事だった。
朝は店まで彩夏の後ろをついて歩き、彩夏が仕事中の間は店の向かいの駐車場に停めてある自分の軽自動車に乗り込んで、胡乱な人間が彩夏に近づかないか目を配る。そして彩夏が仕事を終えると、耕介とアンナは来た時と同じように彩夏の後ろをついて歩く。
すれ違い時、彩夏を見て振り返る男たちもいたが、それで何か起きたわけでもない。
帰ればそのまま外出するわけでもなく、〝メリイ〟を休むのも定休日の月曜日だけ。 そのうち、出掛ければ警護役としてついてゆくこともあるだろうが、休みの日は家で過ごすことが多いと言う。
終われば車を止めた駐車場に戻り、警察署で内容のない報告書をまとめ、ホテルに戻る前に途中のラーメン屋で一杯引っかけるというのが最近のパターンとなっている。
警護といっても、彩夏に怪しい人間が近づかないか気をつけるだけで、実質のところ彩夏を見張っているようなものだった。無事に五日も経てば当初の緊張感も薄れ、今では美人と会える気楽な仕事だと思えるようになっていた。
――これじゃ、国特も動かねえよな。
帰宅途中、彩夏は来た時のコースを外れてスーパーに寄るのだが、夕刻の町は雨にも関わらず人ごみに溢れ、うっかりすると彩夏を見失いそうになってしまい、耕介とアンナは急ぎ足で彩夏の傍まで近づいてついてゆく。
スーパーのある通りから離れ、三丁目の角を曲って自宅のある住宅街に入ると急に人気が少なくなり、周囲から聞こえるのは雨音だけとなる。アンナが最左翼を歩く形で三人は静かに歩いた。
「やっぱり、私を狙っている情報なんて嘘だったじゃないですかね」
彩夏が傘の下から太陽のように明るい笑顔をのぞかせた。
耕介は彩夏から食材の詰った重そうなビニール袋を受け取りながら、首を捻った。
「最終的にはウチのお偉いさんの判断になるだろうけど、まあ、虚報てとこだろうな」
「……」
「警察の特殊な捜査専門にやっている人にも怪しいところを捜索してもらっているんだけど、これといって収穫と言える情報もないしね。そろそろ、この任務も終わりかもしれないな。ストーカーみたいにつきまとって悪かったね」
「いえいえ、そんなことないですよ。……ちょっと、寂しいぐらいです」
「どうしたの」
彩夏が急に声を落としたのが気になって耕介が尋ねた。
「せっかく仲良くなれたのに残念だな、と思って」
「大袈裟だなあ。コブつきなんて面倒がられるだけだぜ。こんな生活じゃ友達ともまともに遊びにいけないだろ?」
「特に出掛けるところないんですよねえ」
「え?」
「私、友達と呼べる人がいないんです。〝あの〟斎藤優夏の妹ですから。高校の時は何人かいたけれど、今、つきあいあるのは幼馴染のタっくんと働いてるお店の松木さんくらいで、他はお姉ちゃんの親友だった宍倉さんという人から時々、連絡をもらうくらいかな?ひとりで過ごすことがほとんどです」
「……」
耕介は返答に詰まって頭を掻いた。
こんな時、どんな言葉を掛けてあげればいいのか、耕介にはあまり良い考えが浮かばない。
探偵事務所の営業や業務に活かすのために、『雑談力を高めろ!』『営業トークマニュアル』などといったビジネス関連書籍やハウツー本など読み漁っているものの、基本的に口下手な耕介にとっては、所詮は頭に詰め込んだだけの知識でしかなく、いまひとつ成果が表れてこない。
耕介ができるのは、せいぜい彩夏の次の言葉を待つくらいだった。
しかし、彩夏から次の言葉は無く、そのまま無言の行が続き、三人は町中に響く雨音を聞きながら歩いていた。
どうしてこんなに静かなのだろうと耕介が不思議に思うくらい町は深閑としていた。住宅にはまだ灯りも無く、これまでに人や車も通っていない。
三人の間に奇妙な沈黙の間が続いていたが、その沈黙を破ってくれたのは彩夏だった。
「……稲葉さんは探偵されているんですよね」
「うん。アンナと二人だけの小さい事務所だけどね」
「どうして、探偵になろうと思ったんですか?イーグル・ファイブを続けていた方が危険ですけど……。立派な仕事だし、何より安定しているじゃないですか」
安定ねと、不景気な世の中にありがちな疑問に耕介は思わず苦笑いを洩らした。
「憧れるじゃない、探偵て。シャーロック・ホームズやフィリップ・マーロウだとか、自由な生き方やズバズバと解決しちゃうヒーローに夢見たこと無い?
俺としては〝探偵物語〟の工藤俊作ベースでやっていきたいんだけどねえ。でもバイクより軽自動車の方が便利だし、一度は服装も真似てみたんだけど、派手すぎるてアンナにしかられちゃって。で、その探偵物語なんだけど、最終回のダウンタウン・ブルースてのが、またカッコ良いんだ」
「はあ……」
彩夏は松田優作という俳優がやっている以外知らないために、彩夏には話の半分もわからなかった。探偵になる人は子どもっぽいんだなあなどと、耕介の他愛も無い思い入れ話にぼんやりと耳を傾けている。
イーグル・ファイブを辞めたのは、隣にいるアンナを守るためという理由もあるが、探偵を選んだのはそれが本音にある。
だが、彩夏にはその本音が今一つピンと来ないまま首を傾げている。
彩夏にも子どもの頃に憧れたアニメや本の主人公はいるが、その時の記憶や気持ちは既に薄らいでいるし、幼いころから最も憧れていた仕事は花屋だった。
「ま、実際の仕事は、身辺調査とか浮気の調査だとか冴えない仕事ばかりけどね。時々、危険はあるけれど、イーグル・ファイブと違って、明らかに危険な仕事を無理してやらなくて済むし、どうしようもない自分の無力さを痛感しなくてもいい」
「無力さ……、ですか」
「うん。これまでに何人もの人を守れなかったし、仲間も失った」
「……」
「東京で闘った時もジ・アークの本部に突入した時も、敵を倒すのに必死で、目の前で傷ついて倒れていく人たちに俺は何もできなかったよ。情けなくて、悔しくてさ。俺はそれに耐えられなくて逃げたんだ。実際のとこはさ」
耕介の脳裏にイエローイーグルだった真田の顔が浮かんだ。
真田は本部ごと自爆しようとする、ジ・アークのボスと刺し違えて倒れたのだ。
何も出来ず叫ぶ俺たちに、奴は笑ってそのまま息を引き取った。
自嘲気味に笑う耕介に、そんなことないですよと彩夏が強い口調で否定した。
「稲葉さん、イーグル・ファイブの予備役をされてるじゃないですか。こうやって私を守りに来てくれているじゃないですか。予備役をやらなくても、この仕事を断る選択肢だってあったんじゃないですか?稲葉さんは逃げずに踏みとどまっているんだと思います」
「……」
彩夏の指摘は事実ではあったが、それほど立派なものではないと耕介は思っている。
予備役に登録しているのは退役隊員につく監視の目を緩めるためでもある。現役の頃から自身の活動報告もいちいちしていたから、監視も形式的なものになりがちで、そのおかげでアンナを一般人として生活させることにも成功している。
だが、耕介は口をつぐんでいた。彩夏の口ぶりから自分に信頼を寄せているのは明らかである。それなのに否定するなど無意味で馬鹿げた行為でしかない。
「私は稲葉さんが自分を責めるようなことを言ってしまうのは、責任感の強い方だからだと思います。だから、そんなに否定しなくても」
「……そうかな?」
「そうですよ」
「ありがと。でも、これじゃ、どっちが警護されてるかわからないな」
耕介が噴きだすと、釣られて彩夏も笑みをこぼした。暗い街並とは対照的に暖かな明るい空気が二人の間に流れ、気がつくといつしか彩夏の自宅前に到着していた。玄関先まで来た時、あのと恥ずかしそうに彩夏が口を開いた。
「もし、良かったら、これから一緒にご飯食べませんか?昨日つくった肉じゃがが余っていているし、いつもひとりだから、食事していても何だか味気なくて」
「……そうだねえ」
これまでのところ彩夏の身の上に怪しい人物の動きも認められない。報告書の内容もこれまでとほとんど変わらないから使いまわしで間に合い、作成を終えるまでに数分とかからない。
寄り道したとしても充分時間があるはずだ。それに彩夏の手料理の肉じゃがにも興味がある。
いいよと耕介が言い掛けた時、「ダメ」と鋭い声が二人の間を裂いた。
見るとアンナが、傘の下から刺すような視線でじっと耕介を睨み上げている。
「耕介はまだ勤務中。報告をきちんと済ませるまでが仕事。懈怠は許されない」
「そっかあ……、そうだよねえ」
彩夏は申し訳なさそうに小さな溜息をつき、寂しそうな笑みをたたえた。その姿があまりにも気の毒に思えたので耕介が慌てて手を振った。
「いやいやいやいや、いいんだよ。こいつのことなんか気にしなくて。せっかくの御誘いなんだし、このところ近くのラーメン屋ばかりでさ。うまいけど食い飽きてきたところだから、喜んで夕食を頂戴するって」
「ダメ。報告が先」
「アンナ、お前な……」
「ごめんなさいね。やっぱり次の機会に」
彩夏は迷いを見せながら、苦笑して言った。やはりアンナに言われたことが気になっているのだろう。
結局、そのまま夕飯の話はお流れとなってしまい、彩夏が玄関の戸を閉めるまで見届けると、耕介とアンナは来た道を並んで戻って歩いた。なんとなくうらみがましい気持ちを抱き、その不満がそのまま口にでた。
「……飯を食うだけなんだし、別に支障ないだろ」
「さっき言った。まだ仕事中。それだけ」
「浦部の肉じゃがくらい食いたかったなあ。最近、外食ばっかだし」
「帰ったら、私がたくさんつくるのに……」
一見、アンナの表情や声はいつもと変わらないように見える。だが、耕介にはアンナの言葉から微妙な変化に気づいた。わずかに声に険があり、どこかふてくされた口調となっている。
「……もしかしてさ、妬いてる?」
思いつきをそのままに耕介が唐突に尋ねると、一瞬アンナの傘が揺れた。薄暗い雨降りしきる夕暮れ時でも、俯き加減のアンナの頬がみるみる紅潮してゆくのがわかった。
アンナの白く細い指が、スッと耕介の袖をつかむ。
「いつもなら口を挟んでこないから変だなと思っていたんだ。仕事であの子より、もっと危なっかしい感じの女にも誘われたけど、お前は何も言わなかったじゃないか」
「あんな女たちと違う。浦部彩夏は良い人。それにコウスケ……」
「それに?」
「コウスケは浦部彩夏のお尻ばかり眺めていた。それに会話、楽しそうだったし……」
「それで、俺があの子に浮気しちゃうかもてことか?お前、変なこと考えすぎだよ」
尻の話はともかく、後半のアンナの言い分はあまりにも突拍子もないように思え、耕介は笑いとばしそうになったが、そのアンナが瞳を潤わせて耕介を見上げている目と向き合って笑顔が固まり、心苦しさが耕介を渋面にさせた。
「心配させたのは悪かったよ。最近は緊張感に欠けていたしな。これからは気をつける」
ゴメンなとなぐさめるように優しく言って耕介がアンナの肩を抱いて寄せると、アンナもそれに応じるようにして身体を預けてくる。
「……ゴメン」
「俺が悪いんだ。お前が謝らなくていい。でも、今度は浦部から誘われても断るなよ」
「うん……」
帰ろうかと改めて耕介が促すと、突然、ポケットから携帯が鳴り響いた。着信の表示を見ると相手は席を借りている神林警察署からとなっている。不審に思いながら電話に出ると、名前も名乗らず、『今、どこにいるの!』とあとで耳鳴りがするほどけたたましい若い男の声が電話口の向こうから響いてきた。
「なんです、そんなに慌てて。今、対象の自宅から戻るところですが」
『呑気にぼさっとしてんじゃないよ!早く署に帰って来てよ!』
「ぼさっと……てね。俺は任務として警護についているわけで、遊んでいるわけじゃないですよ。一人の女性を責任もって送り迎えしているわけでして……」
相手の一方的な物言いに憮然として反論すると、言い訳はいらないんだよと声を張り上げた。
電話の男が何者かはわからないが、調査官に対しての物言いではない。臨時で設けられた役職とはいえ、相手も調査官の地位を知らないわけではないだろうに、上からの物言いで耕介を軽く見るような口調は、やはり耕介の本業が知られているせいなのだろう。
耕介も耕介で警察の厄介に度々なっているため、強く言い返せないでいる。
『こっちじゃ、ジ・アーク絡みのせいでウチだけじゃなく県警全体が大変なことになってんだよ!アンタにやってもらわなきゃいけないんだから、早く戻って来い!』
若い男は再び一方的に言い終えると、耕介の返答もまたないまま、電話を切ってしまった。
「なんなんだよ……」
耕介は不通音が流れる携帯電話を憮然と眺めていた。
アンナが心配そうに見つめている。何が起きたのかは判然としなかったが、今夜の夕食はかなり遅れそうだという奇妙な確信だけはあった。
「それであんな物々しい連中がつけ回してんのか」
彩夏が説明を終えると、拓真は不快そうに後ろを振り返った。
後方には傘を差したスーツ姿の男二人が並んで歩いている。ビジネスバッグを手にし、一見サラリーマンを装っているが、おそろいのサングラスに傘からはみ出しそうな大柄な身体つきからは異様な雰囲気を醸し出していて、どう見ても普通のサラリーマンには見えない。
「プロなんだし、もっとわからないようにできないもんかねえ?」
「でも、相手がジ・アークだもの。あの人たちも緊張しているんだよ。きっと」
拓真が詰る男たちは、耕介が日本政府を通じて要請したSPで、二四時間体制で彩夏を警護することになっている。他にも援護として数名の護衛がどこかに身をひそめているはずだ。
だが、彼らが国から選抜された護衛であっても、その力を発揮できるのは相手が人間の場合であって、キメラや戦闘員のような人外相手では彩夏の盾となるのがせいぜいで、真正面からぶつかっては命の保障もない。
彼らから尋常でない緊張感が伝わってくるのもそのためで、責めることはできないと彩夏は思っていた。
「それで?あの野郎はどれくらいかかりそうなの?」
「あの野郎て誰のこと?」
「ひと……」
拓真は人殺し野郎と言いかけたが、以前に彩夏から注意されたことを思い出し、言い直そうとして口をつぐんだ。
「あの稲葉って奴だよ。あれから三日も過ぎてんだろ」
「私にもわかんない。向こうはかなり大事になっているてことくらいしか」
「これまで好き勝手やってんだ。ざまあねえよな」
拓真は痛快だと言わんばかりに嘲笑ってみせた。
「好き勝手て、私を護るためにやってくれているんだし、言いすぎじゃないの」
「違うよ。あいつら役人はな。護るだとか検挙だとか理由にして、俺たちからどうにか非違を探ろうと、必死に点数稼ぎをしてんのさ。良い給料もらうためにな」
「……」
「実際、見てみろ。弁護士連中に横槍入れられて泡喰って、稲葉もやること外れて書類書きじゃねえか。連中のやっていることは全部保身なんだよ、ホ・シ・ン」
「……ふうん」
なんでこうも出てくる言葉が、人の悪口なんだろうと彩夏は閉口していた
現在、耕介は警察署に缶詰め状態となっている。
ジ・アークの捜査のために県警本部は、国連特別調査官の名義で県内の各所に強制捜査を行っていた。
今回の件を耳にした弁護士や市民団体が「重大な人権侵害」「違法な捜査」と介入し、裁判も辞さない考えも示して県警本部や神林警察署に乗り込んできたという。
以前から、国特など特殊な組織が有する強大な権限については問題視されており、世界各国で反対運動も起きている。
その対策の一つとして、耕介は事件について書類を一から作成せざるを得ない状況となり、見分も調書も自分名義でやらなければならない。
三日前の夜、食事を断られひとりさびしく夕食をとっていた彩夏の自宅に、助手のアンナからしばらくの間警護から離れる旨の連絡を受けていたのだった。
「普通のSPじゃ、キメラに太刀打ちできねえだろ。こういう時、応援だとか来させるもんじゃねえの」
「ホントはそうなる予定だったらしいけど……」
そこで彩夏は表情を曇らし、声を落とした。
「……羽田や大阪も危ないみたいだし、イーグル・ファイブの隊員も割くことができないみたいで……」
昨日ジ・アークの戦闘員数名が空港内に侵入し、管制塔に潜り込むと職員数名を殺害し、機械類などを破壊して逃走、大阪では地下鉄に時限爆弾が発見されるという事件が発生した。新聞、テレビでも大きく報道され、爆弾は無事処理がされたものの、今は自衛隊や警察の特殊部隊も出動し厳戒態勢がとられているはずだった。
「だらしねえよな。なんのための国家権力なんだか」
拓真は苦い顔つきで舌打ちした。口の端を歪めて、さらに何か言おうとしたところに彩夏が苛立った口調で遮った。
「権力があるからって別に何でもできるわけじゃないでしょ。軍国主義だとか、大昔の王様が権力握っていた時代じゃないんだから。タっくんの言い方だと、ジ・アークより稲葉さんたちのが悪者に聞こえるんだけど」
「俺には一緒だよ」
拓真のその一言で彩夏はうんざりして立ち止まった。語気もつい荒くなる。
「こうやって、送ってくれるのは嬉しいけどさ、私はタっくんの愚痴を聞きたいわけじゃないんだよ?」
彩夏が憤然としたまま見上げると、拓真は真正面から静かに彩夏の視線を受け止めていた。
「……ゴメン。また悪い癖がでたな」
「それ、絶対に気をつけた方がいいよ」
それから二人は再び無言で歩き始めた。
同じ無言でも、稲葉さんの時とは随分違うなとぼんやり考えながら歩いていると、隣で拓真がジ・アークの動きがわからなくていらついちまってよ、と呟いた。
「向こうの狙いて何だろうな。でも、アークが彩夏を狙うのは優夏さんつながりなんだろ。何か心当たりないのか?研究データみたいなものとか」
拓真の問いには自然と熱を帯びていたが、彩夏は力なく首を振っただけだった。
これまでに何度も聞かれたことだ。黙っていたところで良いことなど何も無いし、そんなものを知っていれば、警察にもとっくに話している。
重苦しい気持ちを抱いたまま、やがて二人は彩夏の自宅の前に着いていた。
「……じゃあな。戸締りはしっかりしとけよ」
玄関先で優しい口調で言いながらも立ち去らず、拓真は彩夏をじっと見つめていた。
「どうしたの?」
「彩夏。これからご飯、どうするんだ?」
「どうするって……。今日は肉野菜炒めでもつくるつもりだよ?」
「久しぶりにさ、一緒に食べていっていいか?お前一人じゃちょっと不安だし」
拓真の問いに、彩夏は小さく首を振った。何故か稲葉耕介とアンナの姿が思い浮かんだ。仲むつまじく、寄り添う二人は夫婦のようにも親子のようにもみえた。
あんな風になれないだろうか。両親を亡くしてからの一人暮らしは寂しく、月日を重ねるごとに自分のなかから何か大切なものが腐り、損なわれてゆくような感覚に襲われている。彩夏にも誰かが自分のそばにいて欲しいという想いをいつも持っていた。
だが、今だけはそんな気分になれず、独りになりたかった。
「大丈夫。SPの人がいるから。ありがとう」
拓真はしばらくの間、じっとそんな彩夏を見つめていたが、小さな笑みを口元にたたえるとゆっくりと口を開いた。
「……それじゃあ、またな」
「うん、おやすみ」
玄関の戸が閉められても拓真はじっと玄関前に佇んでいたが、初夏にも関わらずポケットに手を突っ込み、背を丸めるようにして帰路へとついていった。
「ふられたなあ」
「ふられましたね」
遠目で彩夏らの様子を見守っていた二人のSPは、目の前で恋愛ドラマを見ている気分になり、遠ざかってゆく寂しげな拓真の背中を神妙な面持ちをしながら見送っていた。