アンナの想いは
稲葉耕介の朝は早い。
平日、朝5時には起床する。
目覚ましだと音がうるさいので、耕介は義眼に搭載されたアラーム機能を利用していた。
目を覚ますと、耕介の腕のなかで、パジャマ姿のアンナ・クローデルが背を向けまま小さな寝息を立てている。
狭い部屋だから、置けるのが本来一人用の小さなベッドしかないせいもあるのだが、二人はいつも寄り添い、抱き合って眠るのが常だった。パジャマか裸身かと違いはあるものの、それ以外はいつもこの姿勢のままで眠っている。
部屋の隅に小さな段ボール箱が置いてあるが、そこにはアンナが拾ってきた子猫の寝床となっている。
耕介はアンナと、段ボールの箱の中で眠る子猫を起こさないように、身体を起こすと慎重にベッドから降りると、ジャージに着替え、部屋の隅に立て掛けてある素振り用の重い木刀を手にして部屋から出ていった。
事務所は自宅を兼ねていて、『私室』と表札が貼られたドアの奥が、耕介とアンナ・クローデルが共に寝起きする私室である。
元々は倉庫だったものだが、事務所を購入した際に改築した。倉庫なだけあって、ベッドと冷蔵庫、洋服タンスを置くだけで一杯となってしまうが、耕介たちにはそれで充分だった。
耕介は事務所を出ると、屋上に繋がる階段を軽い足取りで駆け上がった。屋上は柵で囲まれていて、鉄柵扉もあるのだが、普段から鍵はされていない。
耕介はそこで、みっちり2時間の稽古で汗を流すのだった。耕介の義眼にはアラーム機能以外にも、訓練メニューや数十パターンの戦闘シミュレーション等の機能が搭載されている。訓練はみっちり行われるので、2時間くらいはあっという間に過ぎるし、終わる頃には大量の汗が水溜まりのように地面を濡らしている。
依頼の内容や天候次第で必ずしもというわけではないが、探偵事務所を拓いてからこの2年余り、耕介は鍛練を欠かしていない。
今日という日が、アメリカの国防長官視察となる日ではあっても、それは変わらなかった。
稽古が終わり、事務所に戻るとアンナはすでに起きていて、朝食の用意にとりかかっていた。みそ汁の良い香りが室内に満ちている。
「おはよう。いい匂いだな」という耕介に、アンナは小さく頷くように「おはよう」と挨拶をしてくる。一見、無愛想だが耕介は馴れてしまっている。
「着替え、ベッドに用意してある」
「サンキュ」
このようにアンナは、見た目は無愛想でも、細やかな気配りがあるからだ。
耕介は私室に戻ると子猫はまだ段ボール箱の中で丸くなっていたのだが、室内に流れ込んだみそ汁の香りに反応して鼻をひくひくさせ、やがて目を覚ますと体を伸び上がらせてミーと鳴いた。
「おっす、ねぼすけの食いしん坊さん」
耕介は子猫の前にしゃがみこみ、義手の指先でちょんと子猫の鼻に触れると、チタン合金製の冷たさにうれしいのか戸惑っているのか、ミーと鳴きながら身をよじらせた。
※ ※ ※
「それじゃ、そろそろ行くわ」
朝食をすまし、耕介はジャケットを手にしてベッドから立ち上がると、アンナはまだ食事の途中だったが、玄関まで見送りに来た。アンナの後ろを子猫がついてくる。
耕介たちの食事は昼飯以外、いつも私室で済ます。
自宅が職場を兼ねているだけに、仕事とプライベートをわけにくくなる。
耕介のそういう理由で朝食夕食時は私室をするときめていた。食事の時はキャスター付きの長テーブルを使い、ベッドを椅子代わりに2人は並んで座り、家族ゲームの沼田一家のような食事をしている。
「……ハンカチと携帯、忘れてない?」
「うん」
「コウスケ、前も“うん”と返事して忘れた。出かける前の声だし確認、絶対」
「うん」
「コウスケ、聞いてる?」
「うん」
「……コウスケ、私のことをどう思っている」
「愛してるよ」
「……」
アンナの足が止まった。
耕介が振り返ると、アンナは顔を真っ赤にしてうつむいてしまっている。子猫がミーミーとアンナの周りを歩き、アンナは子猫をそっと抱き上げた。
「聞いているなら、ちゃんと返事を……。ずるい」
「まだまだ甘いですな。アンナさん」
耕介はアンナの額をツンとつついた。滅多に表情を崩さないアンナの変化を見るのは、耕介の楽しみのひとつでもある。
アンナは頬を紅潮させて耕介を上目遣いで睨みつけていたが、本心で怒っているわけではないことくらい耕介にもわかっている。ただ、照れているだけだ。
耕介は、上着やズボンのポケットを探りながら、ハンカチ携帯オッケーと言った。
「視察といっても、いつもの訓練日通りだろうから、晩飯はいらねえや。留守番頼むな」
「問題ない。今日は一件、ここで依頼人への報告するだけ。それに……」
「それに?」
「大丈夫、この子がいるから」
アンナは子猫の足を持って小さく振り、「バイバイ」という仕草をさせた。子猫はきょとんとした表情のまま、アンナにされるがまま、耕介に向かって手を振っている。
「2人で頼むな」
耕介は子猫の小さな手を、軽くつまみながら言った。細くて柔らかく、そして頼りない子猫の手に触れていると、いとおしくて堪らなくなる。アンナの気持ちもわからないではなかった。
「うん」
と瞳を輝かせるアンナに、軽く口づけをして耕介は事務所から出ていった。階段を降り、階下の駐車場に止めてある車に乗ろうとして、2階の事務所を見上げると踊り場から子猫を抱き上げて見送るアンナの姿があった。もう一度、手を挙げてから車に乗り込み発進させた後、サイドミラー越しに後ろを見ると、ミラーの隅に佇むアンナの姿が映っていた。
「やっぱり、あれかな……」
路地を曲がり、アンナの姿が見えなくなったところで耕介は小さなため息をついた。
耕介だって猫は嫌いではない。ましてや生まれて間もなく、人懐っこい子猫である。可愛くないはずがない。
しかし、それでもアンナの子猫に対する接し方は、少し度が過ぎているように思えた。あくまで拾い物だと耕介が言っているから段ボール箱の中に住まわせているが、普段のアンナは子どもをあやすように子猫と接する。だが、耕介にはその理由がなんとなく推測がつくのだ。
――赤ちゃんと重ねているのかな。
その推測に至ると、あまりのやりきれなさに、耕介は首を振った。
アンナ・クローデルは、かつて斎藤杏奈と呼ばれた少女のクローンとして生まれた。しかし、その過程においてジ・アークによって遺伝子操作をされ、クローン兵器“ナイトメア”として世界を震撼させた。
アンナ自身は普通の一般人として暮らしているが、だからといって次世代までも保証するものではない。
改造された身体が、産まれてくる子どもにどう影響するかは、耕介にもアンナにもわからないことだった。
もし、キメラのような子が産まれてしまったら。
その恐れと将来への虚しさが、2人を家族として暮らすことを躊躇させていた。そうしたアンナの鬱屈した想いが、子猫を通して表れたようだった。
交差点付近のトンネルで停車し、どうしたものかと、耕介はフロントガラスに映る自分に語りかけた。だが、返事はない。
困り顔で、俺にもわかんねえよと言っているようにも見える。
「……そうだよなあ」
耕介は深いため息を吐きながらハンドルをまわし、車は県道に出る交差点を右に曲がった。




