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逃げる探偵

「待てコラァ!クソ野郎!」


「……待てと言われて待つ馬鹿いるかよ」


 いずれも人相の悪い、いかつく凶悪な顔をした男から、怒号や罵声を背中に浴びせかけられながら、稲葉耕介は毒づいて雨降りしきる歌舞伎町の歓楽街を疾駆していた。


 一張羅のスーツは既にびしょ濡れとなり、左手だけにはめた革手袋も雨で台無し。

 革靴に溜まった水もグズグズと気味の悪い感触が伝わってきたが、今はそれを気にしている暇がない。


 水たまりがしぶきを上げると、続いて複数の男たちが激しく水たまりを踏み散らして行った。

 周りの通行人も呆然と、あるいは好奇の目で駆け抜けていく彼らを見送った。

 ――ヘマしたよなあ。 耕介は自分を呪いながら、目の前を飛び出してきた白いセダンを軽々と飛び越えた。

 その跳躍力に、周りにいた通行人や後ろの男たちも仰天したが、男たちはすぐに気を取り直し、通行人を押しのけて追いかけてくる。


 依頼人から妻の浮気調査を依頼され、証拠を抑えようとマンション五階一室のベランダに忍び込んだまでは上手くいったのだが、マナーモードにし忘れた携帯電話がけたたましく鳴り響いてバレてしまった。


 しかも運が悪く、依頼人の妻の浮気相手がヤクザで、その場からはなんとか逃げ出したものの、結局は見つかって追いかけ回され、現在に至っている。


 ――こんな無遠慮な束縛があるから携帯は嫌いだ。


 と、不始末の責任を携帯電話に押しつけ、耕介は見えてきた路地を右に曲った。


 耕介は足の速さには自信があり、まともに競争すれば男たちの中で耕介に敵う人間はいないだろう。しかし、耕介とは違って男たちは新宿の地理を熟知していた。


 他の地域に比べれば被害は僅少とはいえ、ところどころに倒壊した建物の瓦礫のせいで思わぬところで行き止まりがあり、歌舞伎町は一種の迷路のようになっている。


 男たちはしばしばそんな地理を効果的に利用していたし、足の速い耕介を逃さず、時には先回りして逃走を防いでいるのもそのためだった。

 彼らの一人は内心ほくそ笑んでいる。

 クソ野郎が、その先は袋小路だ、と。

 男たちの期待通りに、耕介は綾瀬ビルという古い建物を右に曲り袋小路に逃げ込んだ。


「おい、クソ野郎。もうおしまいだよ」


 男たちはぜいぜいと肩で息を切らしながら勝ち誇った笑みを浮かべた。比べて、男たちに背を向けて周囲を窺っている耕介は、息も乱した様子も無い。


「おい、テメエ。誰から頼まれた?どうせ、こんなことするのは探偵あたりだろ?」


「いやあ、お相手があなた達みたいな方々とは思わなかったんで……。見逃してもらえませんかね?」


 耕介は肩を落として振り向くと、頭を掻きながら言った。

 男たちの数は六名。

 切り抜けるのは容易と思えたが、バレてしまった以上は騒ぎを大きくし、一般のサラリーマンでしかない依頼人まで飛び火する事態は避けたい。


 そうなれば依頼も未完了で、契約上、掛かった経費以外受け取れないことになるが、命あっての物種なのは、依頼人にだってわかるだろう。浮気の事実は判明したのだから、あとは向こうの問題だ。


 下手に出てこの場を済ませたい。もちろん相手が手を出してきたら止むを得ないが。


「カメラのデータは返しますから、お手柔らかに願いますかね?こちらも引き上げますんで」


 耕介はデジタルカメラからカードを取り出し、それを男たちに示してニッコリと微笑んだ。 耕介が自分の笑顔が武器になると知ったのはこの仕事を始めてからだった。


 武器といってもマイナスにならない程度だが、耕介の気弱そうな微笑みは人に優越感と憐れみを誘うものらしく、このような危機的状況に陥った場合に見逃してもらった経験が数度ある。


 それに命の駆け引きをしていた日々は、遠い昔の話。生活できれば充分で、命を掛けてまで無理をする必要はどこにもない。

 それが探偵稲葉耕介の信念と言えば信念だった。


 男たちはしげしげと耕介を見ていたが、耕介の微笑み戦術が功を奏したのか、向こうもそれで納得したのか、一人が前に出ておもむろに耕介に近づくと、メモリーカードをもぎ取るようにして奪い取った。

「よし、まあいいだろ……」


 男の声がそこで途切れた。人の気配がし、男たちは通り側を一斉に振り向いた。誰かが立っている。耕介と同じスーツ姿で、金髪のツインテールをした女だった。ただ、女と表現するには身長が低く、背があまりに小さすぎた。

 それに琥珀色の瞳に透けるように白い肌は外国の人形を連想させるものがあった。


 

「……コウスケ、どうしたの?」


 抑揚の無い口調で彼女は呟くように言った。

 そして睨んでくる男たちに構わず、ツインテールの女は無造作に、耕介に向かって近づいてきた。


「馬鹿、アンナ。車の中で待っていろと言っただろ!」


「なんだ?お前の仲間か?」

それがアンナ独特の構えから〝念〟を使うつもりだと耕介はわかっていた。


「馬鹿野郎……!」


 思わず口走った罵声は誰に向けたものか耕介自身でも判然としなかったが、このまま撃っておくわけにもいかない。

 耕介は両者の間におどりこむと、アンナの一番近くにいた男を右の拳一発で昏倒させ、続いて殴りかかって来た相手の腕を掴み、背負い投げでアスファルト製の地面に叩きつける。


「この……!」


 鉄パイプを所持した男が背後から横殴りに叩きつけて来た。振り向くと耕介は避けもせず、左腕を上げてガードをしようとした。まともに受ければ骨折するだろうに、鉄パイプを正面から受けた。

 ガキンと金属と金属のぶつかるような、奇妙な音がビルの間に響き渡った。本来なら骨が折れてもおかしくないくらいの衝撃だったが、耕介は平然とした顔つきで男の顔を見つめている。


「おい、あぶねえだろ」


 耕介と対照的に、驚愕と恐怖の色に強張った男の金的を蹴り上げ、うずくまったところを右のハイキックで男は地面に崩れ落ちた。

 仲間の一人が携帯電話を取り出したのを視界に捉えると、耕介は応援を呼ばれる前に叩き潰した方がマシだと判断し、残りの男たちに向かって疾駆した。


 耕介は地面に転がっていた鉄パイプを拾い上げて、滑るように間合いを詰めると、携帯電話を持つ手を鉄パイプで下段から弾き飛ばし、

すれ違いざまに男の逆胴に叩きこんだ。


 白目をむいて男が崩れ落ちるのを見届けると、その隙に、残る一人がわめき声をあげて逃げようと背を向けたのが見えた。耕介は所持している鉄パイプを、男の背中に向かって投げつけた。

 フオンと空気を裂く音を立てながら回転する鉄パイプは、男の背中に見事にヒットし、勢いよく転倒して呻きながら地面でのたうちまわっている。


 耕介は残った一人にゆっくりと近づき、男の襟首を掴み上げた。カメラのメモリーカードを渡した男だ。

 その男はもがいて逃げようとするが、耕介が持つ万力のような力で、身体がろくに動かせないでいる。

 おい、よく聞けと耕介は押し殺した声で言った。

「俺はアンタにメモリーカードを渡したよね。だけど、あの子に先に手を出してきたのはオタクらだ。だから、俺も止むを得ず反撃をするしかなかった。それはわかるよね?」


「……」


 男は黙って耕介を見上げていたが、耕介が男の瞳に反抗の色を認めると襟首を掴む手に力を込めた。男は増した力に促されるように慌てて頷いた。


「デジカメのデータは返してもらおうかね。この写真やアンタらのことだとか、依頼人に事情を説明しておきゃなきゃいけないだわ。まあ、今後の話し合いは向こうの問題だけどね。んで、それでだな……」


 雨でべっとりと張り付いた前髪の向こうで耕介の眼光が鋭く光った。それまで優男という印象が一変し、

剥き出しの刃が迫ってくるような圧迫感に男は思わず息を呑んだ。

 男の額からは、雨の滴に紛れて球のような汗が噴き出している。


「今後、依頼人に手を出したり、依頼人の話に介入したり、特に俺たちを探るような真似したら、こっちもそれなりの対応をするからな。……おたくらの組、二年前にジ・アークと関わったよな?銃の密輸で」


「なんでそれを……」


「これでも探偵なんでね。俺みたいな腕利き探偵にはな、ちゃんとした情報をつかむことができるんだよ。俺を舐めるなよ?これをどっかに漏らしたら、おたくらどうなるかねえ?反逆罪じゃ済まないんじゃないの」


「おい、よせよ……。たかが銃数丁だろ」


「おたくらにとっては〝たかが″な銃でも、ジ・アークと関係をもったらどうなるのか。シンパがどうなったのかもう忘れたのかよ。〝タ・カ・ガ″数年前だぜ。組は潰されて、一生、おたくや家族に監視もんだな。肩身狭あい一生。それでもよければ俺はこの情報を流すだけだけど。警察も近くにあるしねえ」


「……」


 静かに圧し掛かるような口ぶりと鋭い眼光に気押されて、男はすっかり怯えきってしまっていた。


 男が喘いだまま激しく頷くと、耕介は掴んでいる手を緩めた。男は糸が切れた人形のように路上にへたりこむ。


「親分さんによろしくな。ちゃんと約束を守れよ」

 耕介は立ち上がると、雨に打たれながら傍らでじっと見守っているアンナを促し、急ぎ足でその場から離れた。


 耕介が男に告げた内容は事実ではあったが、耕介が言ったようにきちんとした情報源があるわけではない。


 どちらかと言えば情報漏洩に等しい行為だった。事実があるにも関わらず相手の組が罪に問われないのは、当時の上層部の判断で、いつかそれをネタとして活用しようという魂胆からだったが、男たちはそれを知らない。


 耕介はそれを利用した。

 それでも追手が来ないかと内心冷や冷やしていながら道路を渡り、弥生町の有料パーキングに止めていた自分の軽自動車を出す際も、絶えず周囲を窺っていた。

「コウスケ、問題ない。誰も追って来ていない」


 と言って、アンナは上着を脱ぎながら車に乗り込んだ。

 アンナの言うことだから間違いはない。


 だが念のために耕介は遠回りして高円寺を経由し、高井戸のインターチェンジから市川方面の高速道路に入ったところで、漸く耕介は口を開き、溜めこんでいた息を吐いた。送風を全開にしているせいで小声だとすぐにかき消される。そのため、いつの間にか耕介は僅かに声を上げていた。


「アンナ。お前には車で待っていろと言っただろ?何で来た?」


 待っている間にアンナがどこかで購入してきたらしいタオルで、片手で顔や身体を拭いながら隣の助手席に座るアンナに訊ねた。

「少し遅いから探していた。それに、あんな連中、倒すのは容易」


 アンナは髪留めのリボンを解いて髪を拭いていた。アンナの抑揚のない口調から、得意気な響きがあるのを耕介は聞き逃さなかった。


 それまで、ねぎらいの言葉をかけるつもりだった耕介だが、そこで考えを改めた。


「そうじゃなくてさ」


 アンナとのズレに少し苛立ちを感じ、耕介は煙草を吸いたいと思ったが、脱いだ上着の内ポケットにしまってある。煙草はすっかり雨で水浸しになっているのだろうと想像し、忌々しげに舌打ちした。


「穏便に事を済ますという手もあるだろ。ここは俺達が戦った戦場じゃない。ただ、相手を倒せば良いてもんでも無いんじゃないかな?」


「……」


「これで逆恨みして、もしも依頼人に手を出してきたらどうするんだよ?あいつらには脅しかけたし、約束を守らないなら潰すけどさ。でも、力任せばかりにやっていたら、こういう世界だからすぐ知れ渡るし、仕事どころじゃなくなるぞ」

「……」


「もうお前は〝ナイトメア″じゃないんだからよ」


「……ごめん」


 アンナは拭く手を休めて、タオルを頭に掛けたまま窓の外を向いた。むくれているのではなく、反省しているのはこの二年間の付き合いで伝わってくる。


 説教タイムはこれでおしまいだなと耕介は思い口調を和らげた。

「次、パーキングエリアに寄ったらお前が運転してくれるか?依頼人に連絡をとりたい。免許証、ちゃんと持ってきているよな?」


 アンナはうんと頷いて、自分の鞄から〝アンナ・クローデル〟と記名された運転免許証を提示した。先月、免許を取得したばかりだ。


「いや、わざわざ見せなくてもいいから」


 耕介は苦笑いして隣のアンナを一瞥したが、アンナの向こう側に浮かぶ景色が視界に入ると、耕介の表情はすぐに曇って視線を正面に戻した。


「……?」


 アンナも釣られて窓の外を眺めた。

 外には一面、焼け野原、廃墟といった光景が広がっている。

 車は東京都中央区付近に差しかかっていた。

 中央区や隣接する千代田区、台東区はもっとも甚大な被害が受けた地区で、無数の高層ビルがそびえ立つ光景も数年前までの話で、今は国会議事堂や銀座の街並も瓦礫の一部と化し、廃墟となった建物と荒れ果てたアスファルトの道路の広がる光景が代わりを務めている。


 これまで、局地的なテロゲリラ行為を繰り返してきた秘密結社ジ・アークが、『浄化の日』と称して全世界に宣戦布告をし、各主要都市に総攻撃を開始したのは二年前。


 ジ・アーク本部から発射された長距離ミサイルによる爆撃と、〝キメラ〟と呼ばれる生物兵器やキメラに従う戦闘員たちによって、世界の都市は破壊され多くの人命を失っていた。

 その戦争も今は終結し、日本でも復興作業が始まってはいるものの、ほとんどは手つかずの状態で墓場のような光景のままだった。

 加えて、このところの長雨のせいで工事も中断しがちで、工事用のトラックやショベルカーがあちこちに放置されている。


 アンナには彼らが寂しく雨に打たれながら、持ち主の帰りを待っているように見えた。


「……カワイソウ」


「なんか言った?」


「ううん。なんでもない」

 耕介は不思議そうに横目でチラチラとアンナを見ていたが、その時、後部座席から携帯電話の着信音が鳴り響いて意識を変えた。


「アンナ、携帯を確認してくれるか」

 アンナは耕介に言われた通り、後部座席に放置した上着を探ると、一瞬、アンナの顔に不快な表情が過った。取り出した携帯とアンナの手に、水でふやけた煙草の葉がべっとりとくっついている。


 いくら防水だからって横着しすぎだとアンナは何かぶつぶつ言いながら、携帯電話を確認した。


「電話、誰だ?」


「電話の相手、的場彰から」


 的場彰。耕介にとって戦友と呼べる人間の一人だった。


 今は道を違えているが付き合いは現在も続いており時折飲みにも出掛ける。電話は珍しいことではない。

 的場とは見舞いの約束をしている。おそらくその関係かもしれないと耕介は思った。


「電話、私がかけ直そうか?」

 アンナは的場とこれまでに何度か面識がある。アンナの抑揚のない口調にも慣れている数少ない人間の一人だった。


「そうだな……」


 と掛け直そうと一旦は考えたものの、見えて来た鬼高のパーキングエリアが目に入ると考えを改めた。少しは休憩したいし、それに徐々に身体に冷えを感じ始めている。注意してきたつもりだが、このまま放っておくと風邪をひくかもしれない。


「とりあえず、着替えてから用事済まそうや」


 そう言って耕介が軽くハンドルを切ると、小さな軽自動車は慌ただしげに方向を変えてパーキングエリアに入っていった。


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