アンナ、馳せる
アンナ・クローデルにはよく見る夢がある。
夢のなかでアンナはいつも見知らぬ場所にいて、どこかの店内だとおぼろげに把握できたが、それがどこなのかはわからなかった。店内は暗く灯りも点いていない。あまりに異様な静けさで、店内には自分一人だけかと思っていたのだがそうではなく、よく目を凝らすと客席には既に客が座っていて満席の状態だった。
彼らは皆無口で、俯いたまま何も無いテーブルを前にして黙りこくっている。座る場所も見当たらず、案内係も現れないまま、アンナは一人、店内を所在無げにさまよい歩いていた。
やがて、彼らから視線が自分に向けられていることに気がついた。
いつも夢を見る時の共通点のひとつとして動かないのは、視線を向けてくる彼らは、かつて〝ナイトメア″であった頃のアンナによって殺された人間たちであることだった。
責めるような視線が一斉にアンナに向けられる。
彼らの目は窪み、闇の底のように虚ろで瞳等確認できない。だが、その視線は明らかにアンナに向けられていた。彼らのなかには子どもの姿もあった。
言葉を発することもなく、何の反応も示さずじっと窪んだ眼で見ているだけだ。
そしてもうひとつの共通点として、アンナは彼らに向かって何か叫んでいる。何を言っているのかは夢が覚めるのと同時に忘れてしまい、思い出すことも出来ないのだが、卑屈になっている自分が何か必死に言い訳して訴えている姿はありありと思い出される。
必死に叫んで叫んで、そして息が切れ、耐え切れなくなった時にアンナは夢から覚める。
アンナが覚醒して最初に目に飛び込んだのは、薄暗い天井だった。
胸がしめつけられ、酷く息が乱れながら喘いでいる自分に気がついても、アンナは金縛りにあったように天井を見つめたまま動けないでいた。
長い時間を掛けてようやく呼吸が治まり、胸の落ち着きを見せる頃になってから、ここはどこかと思える気持ちが漸くできて、ゆっくりと周囲を見渡した。左手には点滴の管がつけられている。
ここが病室だと認識すると、記憶が次第に戻ってきた。
「……そうか、爆発に巻き込まれて」
記憶を呼び起こしながら、アンナは身体の状態を確認した。節々に痛みはあるし、派手に包帯が巻かれている箇所が幾つかあるものの、せいぜい擦過傷と打撲程度で、〝念〟を使ったおかげか致命傷は免れたらしい。
ほっと安堵の息を洩らす傍らで、気持ちはさきほど見た夢へと戻っていった。
ここ数年、アンナがいつも見る夢だった。
原因はわかっている。アンナが身にまとっていたナイトメアの強化装甲は、細菌兵器や毒ガスから身を護るものでもあったが、一方でアンナの思考を拘束する装置でもあった。その呪縛から解放されたことで、アンナは人としての自我を取り戻したが、それは同時に罪の意識に苛まれることでもあった。
コウスケ、と孤独感からの寂しさに思わず呟いてアンナは身を起した。
窓の外は、相変わらず薄暗い空が広がっていたが、雨はやんでいるようだった。
改めて室内を見渡すと、壁のフックに替えのスーツが掛けられている。その下には革靴がおいてあった。どうやら耕介が滞在先のホテルから持って来たらしい。今まで着ていたスーツや、お気に入りのハイヒールは爆発に巻き込まれたせいでボロボロになって使い物にならなくなったらようだった。
携帯電話も壊れてしまったのか、どこにも見当たらない。
腰に小さな鈍痛を感じてはいるものの、かといって立ち上がれないほどでもない。アンナはそろそろ邪魔に感じてきた点滴を外し、慎重にベッドから降りてスリッパを履いた。
アンナは入院用のパジャマからスーツに着替えている最中、ふと病室の外から小さな声が耳に入ってきた。静かな病室棟だからか押し殺したようなぼそぼそとしたやりとりではあるが、不穏な雰囲気が扉越しでも伝わってくる。どうやら男二人のようだった。朱音はYシャツのボタンをとめながら扉の前に立ち、聴覚を集中させて二人の音声を拾った。
困ったことだと男の声が聞こえた。
『……だから、向こうは稲葉一人で来いと言っているんですよ。愚痴を言っても仕方ないでしょう。この行動はやむを得ない。稲葉だって、正しいと思っていないからこうして手紙を残したんでしょう?早くこちらも態勢を整えないと』
『だが、下手に動けばマスコミの連中に勘付かれて大混乱になるぞ』
『いまさら何を言っているんですか?そんなの一階のロビーに行けばわかるでしょう。もうすでに町は大混乱ですよ』
二人の間にしばし沈黙が流れる。
『……とにかく、イーグル・ファイブが大阪と羽田から動けない以上、こちらで何とかしないと』
『今、自衛隊を動かせば、ここも東京の二の舞だぞ。どうしたって大規模な戦闘になる』
男の呻く様な声が扉に響いた。
『では、どうするんです?稲葉耕介が特撮ヒーローのように、悪の組織を倒して、さらわれた浦部を無事救出しハッピーエンドを演出してくれると期待して待っているんですか?もし稲葉が救出に失敗したとしても、向こうは約束通り見逃してくれると思っているんですか?本部長』
『……』
『我々は我々で、するべきことをしないと……』
それから再び長い沈黙が続いた。男たちの深い呼吸音だけがアンナの耳に届いて来る。わかった本部長と呼ばれた男が立ち上がる音がした。
――本部長?
おそらく県警の本部長ではないかと見当をつけたが、そんな立場の人間が、何故ここにいるのだろうかとアンナは首を捻った。犠牲となったSP数名がこの病院に収容されていることから、事後の措置や遺族の弔問のために病院まで駆け付けたのだが、アンナはそこまで把握していない。
わかったと本部長と呼ばれた男が小さく言った。
『稲葉耕介が手紙に書いたとおり、一〇時までに彼からの信号弾による合図がなければ、南雲の工場への突入は同時刻に開始できるように、態勢を整えよう……』
その言葉を最後に、二人の足音が遠ざかっていった。
浦部彩夏が敵の手に落ちた。
コウスケが一人で救出に向かっている。
メモリーカードがどうなったかは不明だったが、耕介が他には黙った形で救出に向かったというからには、おそらく所持したままなのだろう。データの解析も待たずに、取引に持ちだしたのは正しい行為とは思えなかったが、この切迫した状況下で自分も同じ立場に置かれたら、おそらく耕介と同じことをしたかもしれない。
それよりもアンナにとって、問題はこれからだった。
「一〇時……。南雲の廃工場……」
アンナは扉に寄り添った姿勢のまま、何度も口の中で反芻していた。アンナの頭の中に神林市内の地図が浮かんでくる。神林町六丁目の工業団地の一角にある南雲自動車整備工場の名前と場所を思いだしていた。
だが、次に移動手段をどうするかと思い至ってその場で考えこんだ。
アンナはこの数週間の間に神林署の職員、主に女性職員とは随分と親しくなっていたが、ナビシステムで居場所把握されている公の車両を使用するのは、動きを知られるために無用な混乱を招き、この緊急事態では危険な行為だと思えた。
かといって、警察の関係者に耕介を手助けにいくだとか連れて行ってくれと正直に申し出たところで、正気を疑われて病室に戻されるのがオチだろう。
車両を強引に奪うことも可能だが、現在のナイトメアに、『力ずく』という選択肢は存在していない。
思案がまとまらぬままアンナは病室を後にした。エレベーターで一階に降りると、ロビーは人で溢れ返っていた。報道や家族の関係者から事件を知った人達が、夜が明けてどっと病院に押し掛けて来たらしい。血相を変えた多くの人々が受付に集まり係員に怒鳴っていた。
耕介と応対した女性係員もその中にいて、休む間もないまま青い顔をしながら来客の対応をしている。そんな光景をカメラやマイクを携えた報道関係者が無遠慮なレンズで人々を背に、作ったような神妙な面持ちで何か語っている。
訪問客は病院の外にも溢れ、そこかしこに深刻そうな面持ちで集まり、ある者はひそひそと会話し、ある者は携帯電話やネット端末を使用してすこしでも情報を集めようと躍起になっていた。
「よっ。アンナちゃん。こんなとこで何やってんの?」
不意に後ろから野太い声を掛けられ、振りかえると髭面で恰幅の良い大男が立っている。
「古沢良明……?」
「相変わらず、人の名前をフルネームで呼ぶんだなあ」
古沢はまいったと言わんばかりに豪快な笑い声を立てながら辺りを見回した。
古沢良明は『スクープ』という週刊誌の記者で、彼からは何度か依頼を請け負ったことがある。仕事でなくてもたまに事務所へ遊びに来る。
古沢はキョロキョロと周囲を見渡しながら言った。
「今日はアンナちゃんの旦那はいないの?」
「……コウスケは依頼人と出かけた。私はコウスケから頼まれてここにいる」
旦那という表現をスルーしてアンナは答えた。
古沢は耕介が元イーグル・ファイブということも、予備役ということも知らない。ただ、やたら腕っ節の強い探偵くらいにしか認識していない。
記者なのに人に余り関心を示さない男で、おそらく耕介が今回の事件の中心にいるのも知らないだろうと思い、アンナは探偵の仕事で来ているような口ぶりで言った。
「凄い事件が立て続けに起きちまったよなあ。俺は芸能人のスキャンダルに掛かりきりだったから、こっちの事件のことを知らなくてさ。テレビで初めて知って、慌てて来たとこなんよ」
「大変ね」
アンナは表情を変えないまま、へぼ記者とアンナは内心毒づく。
神林町でジ・アークの事件は数日前から全国紙でも大きく取り上げられたのに、この男は新聞に目を通していないのだろうかと呆れていた。
古沢の気さくさは的場と似た雰囲気を持っているが、的場が豪放なのに対して、古沢はどちらかと言えば横着な人間だった。現在の職場や仕事にも不満があるらしく、スキャンダルの取材には不熱心で腰が重い。
その辺りが人の後ろ暗い部分を探るのが苦手な耕介と気が合うようで、映画や格闘技について談義しているほうが仕事の内容よりもよほど熱を帯びていた。
男ってよくわからない。
この二年間、〝ナイトメア〟アンナ・クローデルこと斎藤杏奈が、彼らから最も学んだことだった。
「よく、ここに来られたわね」
「それが大渋滞。でも、バイクを使ってて良かったよ。スルスルと自由なもんでさ」
「バイク?」
アンナの目に鋭い光が宿ったのだが、古沢はそれに気がつかないでいた。
小さいバイクなんだと古沢が答えると、即座に、アンナはそれを少しの間貸してほしいと言った。何故かと呑気な古沢もさすがに怪訝な表情を浮かべた。
「日用品や着替えとか色々と必要になりそう。でも移動手段が無い。タクシーでも渋滞がひどい。ホテルまで取りに帰りたいから、貸してほしい」
「それは構わないけど……。アンナちゃん運転出来るの?」
「私は運転免許を取得している。原付だって運転できる。問題無い」
アンナはポケットに手を忍ばせたが、携帯電話と共に免許証の入った財布も紛失していたのを思い出し、免許証の提示を諦めた。
古沢に案内され駐輪場まで行くと、一般的にイメージするスクーターと異なり、もっと小さな玩具のようなバイクが置いてある。
「エイプ五〇。アンナちゃん知ってる?」
「名前だけは」
ある程度説明を受けてから、ペダルを踏んでエンジンを掛けると、小気味の良いエンジン音が周囲に響く。五〇CCの割に意外とパワーがありそうなバイクだった。巨漢の古沢が使用している半キャップのヘルメットのサイズが、自分の頭にぴったりなのは気に入らなかったがぼやいている暇はない。
「では、少しの間借りる」
「ああ、気をつけてな」
古沢は心配そうに見つめている。ただ視線の方向からアンナを心配して言ったのではなく、バイクが壊されないか不安に思っての発言なのだろうとアンナは察した。
「もし……」
バイクにまたがり、エンジンをふかしながら前を向いたままの姿勢でアンナが言った。
「うん?」
「もし、このバイクを壊すようなことがあったら、ちゃんと弁償する。心配しないで」
「何を言ってんだよ。警察までだろ?あんな距離なら気をつけて運転していたら、事故らないって」
「もしもの場合」
「アンナちゃんは、時々変な事を言うよねえ」
古沢は性質の悪い冗談と受け取って乾いた笑みも引きつっているが、アンナとしては真剣だった。ジ・アークのアジトに突入するのだから、バイクも無事では済まないだろうとアンナは思っている。
古沢が冗談と思っているならその方が都合は良い。気をつけるとだけ言って頷きアクセルを廻した。軽快なエンジン音と共に、アンナを乗せたバイクは風を切るようにして神林の町を疾走していった。




