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国間、宵の語り

作者:


 日が暮れて、橙の色が薄く暗い夜空に残る頃――ようやく国間(くにのあわい)の時は動きだす。

くっきりと山々の稜線が見渡す限り続いている。豊かな自然に囲まれたこの土地は、古くから国を追われた者たちが隠れ暮らす場所として機能してきた。止むを得ず盗みを働いた者、元盗賊、殺しを犯した者、騙りを働いた者、その他色々。世間に顔向けできないような行いをしたものが集まる、溜まり場。そして隠れ里。いつしかそこは国間の呼ばれるようになった。

人間、そしてヒト成らざるモノが交わり暮らす場所という意味合いを含めたここは、法も何もない荒れた土地だった。


(ひの)縁魔(えんま)姐さんは、ここの元締めのようなもんさね」

 豪奢な煙管をぷかり、吹かして、()(だれ)の姉女郎である五月雨太夫は気だるそうに言った。

飛縁魔姐さん、と呼ばれる人のことを、斑雪はあまり覚えていない。ここに来てからずっと、斑雪は五月雨に慈しまれて育ってきた。他の女郎たちとはよく話し、お世話にもなったけれど、飛縁魔と呼ばれるここの楼主とは一度二度、会っただけだった。

斑雪は本名を九々(くくり)という。国間で生まれ、この世界しか知らない。幼い頃に母親を亡くし、野垂れ死ぬ寸前だった彼女を救ったのは、まだ振袖新造になったばかりの五月雨だった。

あれから時が過ぎ、九々璃はやっと五月雨のお陰で振袖新造になれた。突出しも終わり、今度は太夫になるだけ――そんな順風満帆な生活が出来るのも、ここを男衆から護ってくれる飛縁魔の存在があるからなのだ。

飛縁魔という名前は、勿論源氏名である。彼女の本名を知る者はいない。いたとしても、それはとても位の高い殿上人たちなのだと、斑雪は聞かされている。飛縁魔の上客は国間の外、人ばかりの住む場所と、あやかしばかりが住む場所からやってくる裕福な者たちばかりだという。彼女の手練手管はすべてのモノを魅了し、陥落させ、懐柔する――。

ここの荒くれな男どもから女たちを守る者でもある彼女は、国間の君主とも言える存在らしかった。

現に、ここの無頼漢どもは絶対に、飛縁魔の廓の女郎には手を上げない。彼女の所有物たる女郎に無体を働いたが最後、国間にはいられない。存在を否定され、また法の支配する外へと戻される。そして捕らえられ、命を散らす憂き目に遭う。

国間に存在する廓は、飛縁魔花魁が仕切るこの「耽幽楼(たんゆうろう)」のみ。唯一、女が安心して暮らすことが出来る場所。駆け込み寺のような存在だった。身を売る苦痛さえ受け入れれば、あとの災厄からは完全に隔離される。飢えも、暴力も、差別もない、まさに楽園だった。


耽幽楼の目覚めは夕刻から始まる。

破落(ごろ)(つき)の町である国間の目覚めも夕方から始まるので、一気に町の中は活気づく。静まり返っていた小路や大通りに人が溢れ、色んな場所で市が立つ。酒臭い息を吐きながら色んな無頼が大股でうろつき、弱い者を嘲笑しては過ぎていく。棒手振りがその合間を通り過ぎては大声で叫ぶ。子どもたちが楽しげに走り回り、それを母親が怒鳴って連れ戻す。

外の暮らしぶりとなんら変わらない風景でも、あやかしと人が混在して暮らす光景は少しだけ違和感がある。獣化けや虫化け、鳥化けやら色々な種類が普通に通り過ぎていき、その中を人間がすいすいと歩いて行く様は、外では決して見られないものだった。

斑雪はすでに一端の遊女として店で働いていた。五月雨とは別に部屋を貰い、もうすぐ太夫になるのでは――と噂されるほど、店での評判も良かった。

斑雪という源氏名は、彼女の毛並から飛縁魔花魁が名づけたらしい。

 斑雪は狐化けと人のハーフで、髪の色が純白と灰色を混ぜたような斑模様だった。瞳は獣のような艶のある吊り目、くすんだ金色でとても婀娜っぽい。伏し目がちにお客を見上げれば、大抵の者はころっと騙される。雪のように白い柔肌をこの手でなぞりたいと、彼女の金色の瞳で見つめられたいと、逆上せあがった男衆がこぞって金を落としていく。

斑雪の評判と玉代は鰻登りで、今度早くも禿を抱えることになっていた。

稼ぎも増えて、贅沢も出来る。禿も持てる。嬉しい筈なのに、斑雪の心は晴れない。夢にまでみた五月雨太夫と同じ場所に立てるのに、ふわふわとした不安が揺蕩っていた。

何が不安なのか。

何が引っ掛かるのか。

一体――この心に蟠るものは何なのか。

斑雪にはわからない。なにがそんなに気になるのだろう。幸せな筈なのに……ひもじさや、虐げられることもないのに、斑雪はそれでも胸に疼く何かに呻いた。

もうすぐ、お勤めが始まる。年季が明けるまで、飛縁魔花魁から受けた恩を返すまで、斑雪の毎日は続く。

年季が明けたら? 五月雨太夫にも聞かれたけれど、そんな先のことは分からない。

耽幽楼の主、飛縁魔花魁は楼に逃げ込んできた女性たちにまずはここで働くか否かを問う。遊女となるのか、それとも下働きになるのかは本人の意思に委ねられる。身を売ることを拒んだものは雑用や遊女たちの世話役になる。そして、遊女になる――と決めた者には、年季を決め、それ相応の教育を施してくれる。禿となり、姉女郎について教えられる様々なことを吸収して初めて、一人前の遊女となれる。

斑雪は最初から遊女になると決めていた。

煌びやかな着物を纏い、舞を披露し、ころころと笑う五月雨をずっと傍で見ていた斑雪は、飛縁魔花魁に呼び出され、今後の身の振り方を聞かれた途端に遊女になりたいと――太夫になりたいと言っていた。もやもやと曖昧な飛縁魔花魁の顔だったが、その時の驚いた顔は少しだけ覚えている。

「己から、太夫になりたいと言う者はね、大概が大人になってからの女ばかりさ。小さい娘は多くが下働きになる。薹の立った女ばかりでは遊郭が成り立たないから、私は時折非情な楼主になるんだが――お前は、己からなりたいというのか? 遊女の本来のお勤めを、知っていて言っているんだろうな?」

 飛縁魔の真剣な視線に、斑雪は躊躇うことなく頷いていた。

幼い頃から禿ではないのに、斑雪は五月雨太夫にくっついて、色んな遊女の仕来りを教えてもらっていた。将来は五月雨太夫のような素敵な遊女になるんだと、瞳を輝かせる斑雪に、五月雨は一瞬なんとも言えない複雑な表情を浮かべた。その表情の意味がなんだったのか、今なら理解できる。五月雨のあの顔は、斑雪に対する罪悪感と憐憫の情だったのだ。

五月雨太夫は斑雪の遊女に対する憧れを、早々に壊してしまおうとした。彼女は斑雪に現実を見せつけ、やめるのなら今の内だと、暗に示した。

「九々璃、ちょいとそこの隙間から、うちが今からすることをしっかり見ておくんだよ」

 五月雨の部屋の隣、斑雪や他の禿たちが寝起きしていた部屋に押し込まれて、最初は戸惑っていた斑雪だったが、五月雨の真剣な視線に、こっくりと無意識に頷いていた。

障子戸を少しだけ開け、そこに斑雪を座らせた五月雨は、馴染みのお客が待つ己の部屋へと入っていった。

五月雨が部屋に入った途端、酒と肴を愉しんでいた馴染みの客が下卑た笑みを漏らす。その笑みに何か言い知れぬ邪な感情を感じて、斑雪は思わず息を呑む。

男は最低で下品な生き物なのだと廓の遊女たちに教えられて育った為、斑雪の中には少なくない異性への恐怖心があった。それはしかし、五月雨の巧みな客あしらいを見ている内に、己もあんな風に男を翻弄してみたい――という感情に変わる。あれだけ清々しく、男を弄ぶことが出来たら――五月雨のように、華麗な蝶のように遊べたならば――。

五月雨の着物を、男が慣れた手つきで脱がしていく。その光景を目の当たりにして、斑雪は漸く五月雨が言わんとしていること、伝えようとしていることに気付いた。

嬌声が聞こえる。慣れ親しんだ子守唄のようなそれは、斑雪には当然に思えるもので。

しなやかな五月雨の裸体が撓る。淫靡に笑む彼女は余裕そのもので、男の方が切羽詰まったような呻きを上げている。五月雨の整った乳房が、彼女が腰をくねらせる度にたわわに揺れる。くすくすと、嘲笑とも取れる笑い声を漏らして、五月雨はひたすらに男を蹂躙していた。

遊女であるから、男の好き勝手にされるのではない。逆に客に余裕を持たせることなく、至上の悦びを与えて翻弄する――これが出来てこそ、一人前の遊女だと名前も知らない花魁が言った。己を守るため、傷つかないために、自分を磨いて経験を積む。それが大事だと、斑雪に言ったのは誰だったのか? 五月雨ではなかった。思い出せない……。

直接目にしたことはなくとも、斑雪は遊女の本来のお勤めを知っていた。それを知ってさえ、斑雪の遊女への憧れは消えない。この羨望はどこから来るのか。幼い頃から目にし、間近に感じていた遊女そのものに、斑雪はずっとなりたかった。

それを五月雨に話したのは、彼女のお勤めが終わったあと、泊まりの客も帰った夜明け頃だった。

ちゅんちゅんと、幼い小雀が庭で鳴いている。

「なんだい。初心な娘だと思ってたのに、とんだ耳年増だね」

 五月雨の表情が苦笑に歪む。気だるげな所作で窓辺に寄りかかり、彼女はすっかり中毒になっている刻み煙草をふかしている。

「死んだ母も、女郎だったから……」

 斑雪の母も女郎だった。耽幽楼に拾われるまでは、鴉片依存だった母とともに暮らしていた。ひどい場所で夜鷹のような最低な生活をして、少しの日銭を稼いではそれを鴉片に換えていく母は、斑雪のことなど眼中になかった。ひたすら鴉片、鴉片――。満足な食べ物も手に入らず、斑雪はいつもお腹を空かせた痩せぎすな子どもだった。

そんな汚らしい子どもなのに、五月雨は斑雪を拾ってくれた。ただでさえ、人の血が混じった半妖は馬鹿にされる存在だ。妖力も少なく、頭に生えた狐の耳の毛並も悪い。斑模様の髪も見栄えが悪い。そんな子どもを、五月雨は綺麗だと言って身体を拭き、髪を梳き、食べ物を与えてくれた。満足に文字も書けなかった斑雪に読み書きを教え、一般教養もつけてくれた。禿でもない小娘に、五月雨は惜しむことなく愛情を注いでくれた。

一生、斑雪は五月雨に感謝し続けるだろう。命の恩人として、育ての親として……姉として。

「うちはね、昔子どもを亡くしてんだ。ここでは遊女でも地獄腹なんて呼ばれない。自由に子どもを産んでもいい。そしてその子を育てながら生きていけるんだ」

 普通の廓なら、遊女が身籠ることは禁忌とされていた。すぐに堕ろせと、遣り手婆に無理矢理中条流などを呼ばれてしまう。妖しい薬を飲まされたあとは、二度と子どもの出来ない体になってしまうことが多かった。

しかし、耽幽楼は違った。

飛縁魔は決して女、子どもを見捨てない。破落戸の町の過酷な環境の中、生き続ける弱い存在を守る者である彼女は、廓の遊女たちにかなりの自由を与えてくれる。

子どもを産み育てる自由、仕事を選ぶ自由、種族に関係なく、分け隔てなく暮らす自由――虐げられることの多い存在を助ける飛縁魔は、まさしくこの町の救世主だった。

廓に匿い、契約したものへの無礼狼藉は罷りならぬ――。

耽幽楼の表に、堂々とそう記した看板が下がっている。これは国間に住む者ならばすべてが知っていることで、これを知らない余所者が、たまに無茶をやらかす。その途端、この町では生きていけない。飛縁魔の逆鱗に触れるからだ。


「これからお前は、太夫を名乗っていいよ」

 いきなり御内証に呼び出され、飛縁魔花魁の前に座らされた斑雪は、そう告げられた。

飛縁魔は滅多に己の廓の表にも出ないし、遊女たちの前にも姿を現さない。彼女の姿はまるで霧か靄のようだと、遊女たちは苦笑する。今まで会話し、顔と顔を合わせていたのに、御内証を出た途端、どんな顔をしていたか、どんな声で話していたかを忘れてしまうのだと。飛縁魔が何のあやかしなのかは誰も知らない。本来の姿を見せるのは弱点をさ曝け出すのと同じで、純血のあやかしは決して己の正体をすすんで明かしたりはしない。

それを思えば、半妖の斑雪は中途半端な恰好をしている。獣にもなりきれず、尻尾と耳以外はヒトの形。本来の姿にも変化はできない――。チカラはヒトとなんら変わらないのだ。

斑雪の前に座り、牡丹と椿の彫金を施した値の張りそうな煙管を吹かしている飛縁魔は、とても言葉では言い表せない魔性の美貌だった。思わず不躾な視線で見つめてしまう。整った柳眉を寄せて、煙を鬱陶しそうに払う姿まで様になっている。朱色の紅を差した唇が煙管の吸い口を食む度、斑雪の背筋に悪寒に似た痺れが走った。

こんなに――妖艶な人だったろうか。

初めて会った時も、遊女になるのだと契約した時も、他の者と同様、御内証を出た途端に斑雪は飛縁魔の顔を忘れていた。美しい人だという思いしか残らず、他は馥郁たる麝香の残り香だけを思い出す。

今も御内証には麝香の香りが漂っている。殿上人が愛用する高価なものなのに、飛縁魔は惜し気もなく焚き染めている。甘く煙たい室内に、暫時沈黙が落ちる。

「不安なのかえ、斑雪」

 紫煙を吐き出しながら、飛縁魔が問う。

心の中を見透かされたような問いに、斑雪の心臓が跳ねる。俯かせていた顔を上げれば、しっかりとこちらを見つめる飛縁魔の紅い瞳とかち合う。射竦めるような強烈な視線に、今度こそ心臓が悲鳴を上げる。

「どうして……」

「わかるさ。あたしだって、昔は禿になって振袖になって、そして太夫になったんだ」

「姐さんも?」

「ああ。ここは昔から続く由緒ある廓だ。あたしのちっこい時からある」

「そう、なんだ……」

「お前さんの不安もわかってるさ。でもね、それは時を追って乗り越えるしかないよ」

 わかっていた答えだった。すぐに理解できる苦悩だった。それを認めたくなくて、斑雪は感情を曖昧なまま放っていた。

飛縁魔は気づいていたのだろうか? 斑雪の甘えを。最後の躊躇いを。

「年季明けのことなんか気にするな。あたしがお前さんを見捨てるとでも? 自分で選んだものだろう、この道は。後悔しても遅いのはわかっているんだろ」

 こくり、頷く。

後悔しているのではない。

五月雨のようにお客あしらいはできなくても、斑雪も最近は随分と経験を積んで少しはましなお客あしらいが出来るようになったと自負している。遣り手婆にも褒められたことは、純粋に嬉しくやる気も上がった。

「そんなら、何も悩むことはない。お前らしく、お勤めをすればいい。そしてお前の身請けを考えてくれる人が出てくればいいけどな」

「でも私は――」

「嫌な相手に身請けされろとは言ってないだろ。好いた相手に貰われるんなら、本望なのにな――と思っただけだ」

「はい――」

「じゃあ、お前は今日から太夫だぞ。禿も二人ほど預けるから、頑張れよ」

飛縁魔が手を緩く振った。それが退室しろという合図だと気づいた斑雪は、そっとお辞儀してから御内証を出た。その途端、ぼんやりと先刻まで鮮明だった飛縁魔の顔がぼやけていく。

残り香と仕草は思い出せるのに、どうしてか顔だけが曖昧になっていった……。


国間の夜更けは賑やかだ。

耽幽楼に訪れるお客が増え、座敷のほとんどが埋まる。どんちゃん騒ぎに拍車がかかり、遊女の嬌声も混じったそれは、お祭りのような賑やかさだ。酒と肴、遊女の舞い、太夫たちの小唄や都都逸が絶頂を迎える。

そんな快楽(けらく)の宴の中で、事は起こった。

「お前、女郎の癖に俺の相手が出来ないっていうのか?」

 膳に置かれた酒盃がひっくり返る。ガシャン、と盛大に零れたそれは、畳に酒の染みを作る。

 興が削がれた宴は一瞬で静まり返り、男の胴間声を響かせた。

斑雪はじっと、男を見上げた。

今夜は斑雪が太夫になった祝いの宴だ。飛縁魔花魁がすべての費用を負担するそれは、無礼講ということで赤前垂や仲どん、妓夫(ぎゅう)太郎(たろう)も飲めや歌えの大騒ぎだった。

そんな中での、静寂。じっと男の行動を注視している店の仲間の視線が、段々と冷えていく。

『余所者か――』

『ああ、余所者だ――』

『誰か、飛縁魔姐さんを呼んでこい!』

 男の顔は屈辱で真っ赤だった。下卑た視線で斑雪を睨み、拳をぶるぶると震わせている。完全に、我を忘れている風である。

「お客様、うちの廓のルールをご存知ですか? 一見さんはまず初会で顔合わせしてもらいます。そして裏を返してもらい、その後で馴染みになってもらいます。太夫を買うのなら、それくらいは常識でございましょう」

「都会の廓ぶりよって、この田舎の女郎が……金は払うと言っているだろうが! 俺は客だぞ! さっさと部屋に案内しろ!」

 斑雪のことを、そしてこの廓のことを端から馬鹿にした口ぶりに、かっと頭に血がのぼる。見れば、男は狼化けのようで、人型の変化が半ば解けかかっている。腕や胸から黒々とした毛が覗き、爪も獣然とした鋭いものに変わっていた。大男が唸る。しかし、斑雪は臆することなく視線を返し続けた。

女をただの玩具だと思っているような男――性の消費物としてしか見ない男は、国間では通用しない。ましてや耽幽楼は、外界の殿上人から「公式」に認められた遊郭なのだ。田舎の破落戸の町にあるとしても、立派な高級遊郭の一つだった。

「この売女が! さっさと立て!」

 我慢の限界が来たのか、激昂した男が斑雪の腕を強い力で握りしめた。みしりと嫌な音がして、斑雪の顔が苦痛に歪む。周囲の視線が更に鋼のような硬質で冷徹なものに変化した刹那――大座敷に突風が吹き荒れた。

「――!」

麝香の香りが漂う。

男が滑稽な悲鳴を上げて、斑雪の腕を離した。彼の腕は深く切り裂かれ、畳に尋常ではない血を撒き散らす。怯えた様子で座敷の入り口を見た男は、余りの恐怖に腰を抜かした。

男の視線の先には――九尾を怒りに膨らませ、真っ赤な瞳を燃やした飛縁魔が――己の性を余す所なくあらわした銀狐が――立っていた。それはまさに圧巻。畏怖のみを凝縮し、体現した姿で、飛縁魔は男をひたすらに凝視している。

斑雪は、妙な既視感を覚えた。

彼女は、本当に飛縁魔花魁なのか? 少なくとも、瞳の色は合致している。しかし、斑雪は目の前の九尾の狐が――

「お帰りなんし、この下郎。主はわっちの廓に相応しくないでありんす。切り刻まれたくなきゃ、即刻、国間から逃げ帰りなんし」

 麝香の香り、優しい雰囲気、母のような、姉のような……。

「五月雨姐さん?」

 男は声にならない声を発しながら、脱兎のごとく耽幽楼を逃げ出した。

飛縁魔花魁のお詫びの口上が終わり、再び座敷はどんちゃん騒ぎが再開された。

隅に座って煙管を吹かす飛縁魔花魁に、斑雪はにじり寄ってそう囁きかけた。

ちらっと斑雪を一瞥し、飛縁魔――五月雨は、ふっと口元を笑みに歪めた。

「大したもんだねぇ、斑雪。いつうちがそうだって気づいた?」

「さっき。麝香の香りで気づけばよかった」

「ふふ、幻滅したかい?」

「そんなわけないでしょう。益々姐さんが好きになった」

 いつも間近に見てきた美貌なのに、どうして忘れることが出来たのだろう。しかしそれは、妖狐である五月雨の幻術の成せる技なのかも知れない。今までずっと、飛縁魔として五月雨として、彼女は生きてきたのか。

「うちが、お前を次の飛縁魔候補に見ていると言っても――幻滅しないかい?」

「えっ……」

 斑雪の目が真ん丸になる。

その様を眺めて、五月雨は可笑しそうに声を上げた笑った。

「お前はね、昔のうちにそっくりだよ」




国間に夜明けが訪れた。

泊まりの客を見送り、斑雪は夜明けの空の下、澄んだ空気を胸一杯に吸い込む。酒気と煙管の紫煙で汚れた肺が、綺麗になるような気がした。

眠気を訴える思考に、斑雪は無理矢理昨日の五月雨の言葉を反芻させる。

『うちが、お前を次の飛縁魔候補に見ていると言っても――幻滅しないかい?』

するわけがなかった。むしろ光栄で、幸せで、昨日は声も出なかった。

年季が明けてからの自分が不安だった。何者でもなく、耽幽楼が世界の中心だった斑雪は、ここから離れることなんて考えられなかった。

ずっと、ここに居ていいのだと言われたような気がして、心が弾む。斑雪の存在を認め、肯定してくれる場所は、この耽幽楼以外はあり得ないことだ。

まだまだ未熟な身だけれど、五月雨が――飛縁魔が望むなら、斑雪はずっとここで働いていきたかった。

「斑雪!」

 透明で無邪気な五月雨の声が、斑雪を呼ぶ。それを合図にして、口から大きな欠伸が漏れた。

眩しい朝日が昇ってくる。睡眠不足の目が痛みを訴える。

斑雪は一人微笑んで、下駄を鳴らして廓に駆け込んだ。ここが己の生きる場所なのだと、心を新たにして……。




後に、斑雪太夫は飛縁魔花魁を継ぎ、立派な楼主となって遊女をひたすらに見守り救ったという話は、国間でも人気の昔話となった。

代々、斑雪の源氏名も人気なものとなり、遊女になった暁にはその名が欲しいと切望する少女もいたらしい。

同じく、五月雨という名前も人気で、斑雪と五月雨と名乗るのは、姉妹のように仲のいい遊女が多かったそうな。




畢 




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