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スペシャル・ホリデイ

作者: 霧途雲

学校をずる休みした朝は妙に清々しい。僕はふとんに隠しておいたカイロで体温計をごまかして、その嘘つき体温計をお母さんに渡す。お母さんは不機嫌な顔で玄関口まで歩いていって、学校に欠席の電話を入れている。僕はふとんを頭からかぶって壁の方を向き、両目を閉じる。お母さんはぶつぶつ言いながらおかゆを鍋に作って、昼にはそれを食べるように言う。それからスーツに着替えて、化粧をして、がちゃんとドアを閉める。「知らない人がチャイムを鳴らしても出ちゃ駄目よ」。

パジャマ姿の僕はふとんを出て、お母さんが本当に会社に行ってしまったことを確認する。大丈夫、もう家には僕しかいない。頬が上がる。今日はまるごと僕だけの一日だ。僕はどうしてだか知らないけれど、家じゅうの家具を一つ一つたたいて回る。洋服ダンスとか、お父さんの書斎の机とか、電気炊飯器とか。とん、とん、とん、…。観葉植物が目についたから、ついでにそれの葉っぱもたたいておいた。葉っぱの上の朝露で僕の人差し指がちょっと濡れた。

部屋は、どの部屋もしぃんとしていた。それはまるで世界中の沈黙を目の細かい網で集めてきて一か所に閉じ込めたみたいな、とても濃くて、純粋な沈黙だった。僕は黄緑のカーテンの隙間からベランダの外を見た。産みたての卵みたいに新鮮な陽射しがまちを隅から隅まで照らし出していた。陽射しはあまりにも眩しかったから、まちを見るのに僕は目を細めなくちゃならなかった。迷ったけれど、僕は結局カーテンをそのままにしておくことにした。僕は僕より何倍もあるソファの真ん中に腰かけて、テレビのリモコンのスイッチを入れた。どのチャンネルもたいていニュースだった。僕はテレビのニュースが嫌いだった。メインキャスターの男の人は朝からむずかしい顔をして暗い記事を読んだ。でも芸能の記事になると彼はとても上手に笑った。世界のどこかに暗い出来事があるだなんて、もうすっかり忘れちゃったみたいだった。僕はテレビのニュースをうまく信じることができないのだ。ニュースは大人向けのテレビなのだ。仕方がないから、僕はNHKをしばらく見ていた。がんこちゃんやおはなしのくにを見ていると、急に胸のところが変な気持ちになった。苦しいんじゃないし、痛いわけでもないのだけれど、ちょっと変なのだ。僕はソファから立ち上がって三回屈伸をしてみた。それで少し楽になったけれど、胸のやつはすぐ元に戻った。僕はテレビを消した。

僕は換気をしようと思った。カーテンはそのままにして窓をちょっとだけ開けた。ちょっと冷たい空気が部屋の中に入ってきて、嗅いだことのあるにおいがした。しばらく考えるとそれが何のにおいなのかはすぐに思い出すことができたけれど、僕はそのことについてはやっぱり忘れることにした。だって空気は学校の下駄箱のにおいだったのだ。

自分の部屋に戻るとベッドの上の掛けぶとんは僕が這い出したままの形で、まるで雪のかまくらみたいになっていた。僕はその穴の中にまたお尻から入って、うずくまった。かたつむりみたいな気分だ。かたつむり。僕は昔お母さんが読んでくれた『でんでんむしのかなしみ』という絵本のことを思い出した。   

主人公のでんでんむしは背中の殻の中にかなしみがいっぱい入っていて、それを友達のでんでんむしに話すと、友達は私の殻の中にもかなしみはいっぱいありますと言う。またべつの友達のところに行くと、そのでんでんむしもやっぱり殻の中にたくさんかなしみが入っている。それで、とうとう最初のでんでんむしはそのことを気にするのをやめてしまうのだ。確かそんなお話だった気がする。でもあんまり詳しくは覚えていなかった。だってそれを読んでもらったのはもっと小さい頃だったし、僕が眠るとき枕元で読み聞かせてくれたやつだったから、僕はうとうとしながらそのお話を聞いていたんだ。僕はだんだん眠くなってきた。家具をたたく音が頭の中に響いた。とん、とん、とん、…。おもちゃ箱からいろんなおもちゃが飛び出してきて、台所にあるさいばしとか、おたまとかを使って、ひとつひとつ家じゅうのものをたたいて回るのだ。ウルトラマンと仲間たちはきれいに列を作ってマーチしたし、怪獣たちは好き勝手に家具をたたいて、出したい音を出していた。合体ロボなんかは、腕のボタンをじぶんで押して、お母さんの化粧だんすにジェットパンチをお見舞いした。とん、とん、とん、…。とん、とん、とん、…。とん、とん、とん、…。


買ってもらったばかりの青いマウンテンバイクだったけれど、色なんて何だってよかったみたいに泥だらけになっていた。ほんとうに夢中になって一日中走りまわれば、どんな自転車だってだいたいそんなところだ。僕は右のハンドルの付け根ちかくのギアを5から6にあげる。6はマックススピードが出るのだ。とっくに日は落ちていて、僕ら四人は最初は野良猫を追っていたはずなんだけれど、いつの間にかターゲットがチョウチョになって、その次はすずめになって、とうとう今は「何か」を追っていた。辺りが真っ暗になっちゃったから、野良猫やチョウチョは見つけられないのだ。四人のうち誰かが家から懐中電灯を持ってきて、あとの三人はそれをまねして懐中電灯を家に取りに帰った。自転車のライトを使うのは、僕らの中で何となくタブーなのだ。僕はお母さんに叱られながらやっと大きい非常用の懐中電灯を手に入れた。単二の電池はお父さんがこっそりくれた。片手でハンドルを握り、片手で懐中電灯を照らす。四つの光の柱が闇の中を自由に泳ぎ回るのが楽しかった。くねくねと折れ曲がった坂道だって平気で乗り越えた。僕らはもっと遠い所にある「何か」を追いかけるので夢中だったのだ。僕が大きすぎる懐中電灯に気を取られて転んだ。それを合図にみんなの気持ちが立ち止まった。僕らは家に帰りたくなった。畦道でカエルがいくつも鳴いている。鈴虫の声もする。知らない鳥の鳴き声だって聞こえてくる。見覚えのない真っ暗闇の中で、僕らは四人そろって迷子だった。四つの自転車を引いて、四つの光の帯を引きずって、四つの声で励まし合って、僕らは夜を歩いた。一時間も二時間も。もう夜は明けないかとさえ思えた。ぎりぎりのところで歯を食いしばって、泣くのを我慢していた。会社から帰ってくる近所のおじさんが偶然、奇妙な四つの光を見つけて僕らをまちに戻してくれた。おじさんの足音は何故だかとても温かかった。とん、とん、とん、…。とん、とん、とん、…。とん、とん、とん、…。


目が覚めたとき、部屋の時計はちょうど十二時だった。深い沈黙の中で時計だけがこつこつと針を動かし続けている。どうやらいつのまにか眠っていたようだ。僕はゆっくりふとんから出て、大きくあくびをして体を伸ばした。ずっとカタツムリのかっこうで寝ていたから、背中が少しだるかった。おなかの虫が鳴いた。おなかはまるで僕のおなかじゃないみたいに急に鳴ったから、僕は少し驚いた。洗面所で顔を洗って口を水でゆすいでから、台所に行って鍋のおかゆを茶碗によそった。冷蔵庫からペットボトルのお茶を出して、ダイニングのテーブルで一人っきり、昼ごはんを食べた。一口入れて三、四回噛んでから、僕は思い直して「いただきます」を言った。それから急いでカーテンを開けに行って、ごはんの続きを食べた。まるでフラッシュバックみたいに、胸のところのもやもやがまた始まった。昼の陽射しは朝とは比べものにならないくらい眩しかった。


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