方舟
社屋を出ると、弱い雨が降っていた。セキュリティをかける。これでようやく帰れる。
隣の家の白壁が街頭でライトアップされていた。甲虫が何とか縋ろうとするが垂直な壁に取り付く島もない。ブンブン飛び回るだけだ。
梅雨が明けない。週間予報はズラリと雨マークが並ぶ。
アパート、202号室、夜。電気スタンドの明かりを点け、本を読んでいると、一匹の羽虫が飛んできた。この部屋に一匹のハエ、カですら珍客である。彼らが訪問したとしても一日も経たず消えてしまう。この部屋は彼らにとって棲みにくいと思われる。その中にあって、羽虫をかれこれ三晩は目にしている。手の甲に縋りついた羽虫を、思わず振り払った。
羽虫君が何かは特定できていない。体が小さすぎ、黒い点に翅があるようにしか見えない。コバエ、ハネアリ、カ、その他のいずれか。同一個体かどうかもわからぬ。三晩続けて別々の個体が現れている可能性もありうる。彼からすれば、ヒトなどというものは巨大すぎ、誰が誰か識別はできないだろう。相対的なものだ。それでもその巨体に縋りつき刺したり舐めたりするのだ。
ザア!ザザア!明け方とんでもない音で目が覚める。集中豪雨だ。天窓が少し開いていたようで、微量の水が顔にかかる。弱い雨→曇り→集中豪雨→また弱い雨、が連日繰り返された。昼だろうが明け方だろうがおかまいなしに。おかげでよく眠れないのだった。目が覚めたついでに炭酸水を飲む。寝苦しい夜のオアシス。トイレにいって、再び横になる。
とんでもない夢を見た。人気のない路地裏で私は放尿していた。し始めると急に人気が出始める。一人、また一人、ゾロゾロ人々が背後を通り過ぎていく。早く終えたいのに勢いは増すばかり。「ああ、これは間違いなく漏らしている」そう思って間もなく覚醒した。絶望の内に。思わず股間に手をやる。幸いにも濡れてはいなかった・・・
こう雨が続くと川が増水し、濁流が隆々とあらゆるものを飲み込んでいく。河川敷の畑やテニスコート、駐車場や公園、見慣れたものたちは全て水没し、辛うじて突き出た木々にシラサギの群れが止るという、異様な光景が繰り広げられる。古代文明の礎となった母なる大河は、定期的に氾濫し大地を肥沃にし、ヒトという種に大いなる恩恵をもたらした。当時もこんな光景がみられたに違いない。今も雨が降らないと「水不足」ということになる。だからといって昨今の降り方はやりすぎだと思う。
枕元に電気ポットがある。白湯、コーヒー、紅茶、カップ麺と、一年の7か月か8か月はお世話になっている。帰宅してまずポットに水を注ぐのが習慣である。しかし5か月か4か月は使わない。それが今に当たるわけだ。何日か前の水道水が入ったまま、枕元で置き物と化している。
弱い雨の夜。電気スタンドの明かりで本を読んでいると、カエルの合唱が聞こえた。繁殖行動には絶好の夜らしい。羽虫君が目の前を横切る。彼にとってこの部屋はシェルターのようなものだ。私が彼を叩き潰すようなことさえしなければ危険はない。もちろん叩き潰そうと試みたことはある。三度失敗した。彼はまだまだこの部屋に閉じこもる気らしい。
深夜、汗びっしょりで目が覚めた。熱帯夜だ。何日か前エアコンが壊れてしまった。とてつもなく寝苦しい。炭酸水はいまや命の水だ。ブシュッ!蓋を開け一気に半分まで飲む。すぐにも汗が噴き出た。目に止まった電気ポットに怒りが湧いてくる「お前はいらない!」すぐキッチンへ連行した。
「こんなもの捨ててやる!」三分の一ほど残っていた水道水をシンクに捨てようとしたら、ツルリと手が滑ってしまい、足元にポットを落とした。見事に逆さまになって。足元に水たまりができる。ポットを拾い上げる、さらにザバア!と水が溢れ、バケツをひっくり返したように辺り一面水浸しになった。残っていた水は、実は二分の一ほどもあった。私のオアシスは決壊してしたのだ。
何枚ものタオルで水をふき取る。さらに新聞紙を敷き詰める。そこまでやると馬鹿馬鹿しくなった。こんな夜中に何をやっているのか。何日も降り続いている雨から救ってくれたこの部屋が、ついに浸水してしまった。雨ではなくポットの水道水によって。ああ、神よ!
次の日。久しぶりで晴れ間が覗いた。梅雨の中休みといったところ。その夜から羽虫君は現れなくなった。彼がどこに飛び去ったかは分からない。ただ本能のままに、自らのユートピアへ赴いたまでだ。私独りを置き去りにして。
夕食後、冷蔵庫を開ける。あいにく炭酸水を切らしていた。買いに行こうと車に乗り込みエンジンをスタートさせる。ヘッドライトを点けゆっくり発進する。と、ライトめがけて無数の羽虫が集まってきた。夜のジャングルにいるみたいだ。照らされた羽虫たちは自ら白く光を放つようで、目の前が眩い光に覆いつくされる。「ユートピア」というものが本当にあるなら、きっと目も眩むような光に満ちているだろう。
夜のジャングルから部屋に戻る。二本の炭酸水を手にして。照明がいつもより明るく思えた。私にとってこの部屋こそが、探し続けていた「ユートピア」なのだから。




