十六話 居残っていると、雨が降りだし
窓を水滴が叩く。
勢いよく雨が降ってきた。
「うわぁ。今日俺、傘持ってきてねぇぞ」
机を挟んだ向かいに座る中里が言う。
今、教室には二人だけ。
「北山は持ってきてるか?」
「持ってきてるよ。折りたたみだけど」
私に抜かりはない。
「おい、帰りに入れてくれよ。途中まででいいからさ」
「イヤ。それより五時限目の数Bは何したっけ?」
私と中里が二人きりなんて状況にあるのは、全て机の上にある学級日誌のせいだ。
さっさと片付けて帰りたい。
「冷たいよなぁ、北山。はぁ、すぐに止んでくれるかな? 濡れて帰るのはイヤだしなぁ。繊細な俺はすぐ風邪引くんだよ」
「うるさい、ウザい。えーっと、ベクトルか。平面ベクトル……っと。特記事項は……掃除の時間、中里君がホウキを振り回して西川さんにぶつけた。汚れたホウキをぶつけられ、精神的に深く傷付いた彼女は泣いてしまった。……と」
「おいおい、そんなことまで書くのかよ? もう謝って許してもらったろ?」
窓の外を眺めていた中里が、慌てたようにこっちへ身を乗り出してくる。
近寄りすぎなので私はのけ反って距離を取る。
「女心を傷付けた罪はとんでもなく重いの。記録に残して未来永劫罪を背負わせてやる」
「ヒデェ……。ホント、北山は容赦なしだよな。先週も田上を容赦なく振っちまうし」
その言葉を聞いて、私はペンを止めた。
「田上君の話は中里君に関係なくない?」
「いやでも、俺が仲立ちしたんだしな。あいつ、泣きそうな顔してたぞ。見た目鬼瓦みたいだけど、意外に繊細な奴なんだよ」
「田上君には悪かったと思うけど、私だって深く傷付いたんだから」
「え、傷付いた? 告白されると傷付くのか?」
驚いた顔で私の顔を覗き込んでくる。
私はぷいと横を向く。
「その前。告白される前の段階で傷付いたの。誰かさんのせいで」
「告白される前って……」
ちらりと見ると、中里は腕組みをして考え込んでいる。
そのとぼけた姿を見ているだけでイライラしてきた。
「キミのせいだよ。中里君のせいで、私は深く傷付いたんだ」
「え? 俺? 俺なんかミスった?」
相変わらず身に覚えがない様子。当たり前だけど。
「盛大にミスったよ。ヘンに改まって声かけてきてさ。誰もいない校舎裏に連れていってさ。促してもなかなか用件言わないでさ」
「いやだって、よくよく考えたら恋の仲立ちなんてしたことなかったからよ。無駄に緊張しちまって……」
「だからって思わせぶりなことしないでよ! バカな勘違いしちゃったじゃない! 好きな人が向こうから告白してくれるんじゃないかって、バカな勘違い!」
中里に向かって叫んでしまった。叫ばずにはいられなかった。
「で、でかい声出すよ。え? 好きな人? え? 俺?」
「そうだよ! 好きな人に恋の仲立ちなんてされて、どれほど傷付いたか分かる?」
「悪かったよ……悪かった!」
立ち上がった中里が目一杯頭を下げてくる。
そうされて、ようやく私の頭は冷えてきた。
「いいよ、もう終わったことだし。私こそゴメン、いきなりこんなこと言われても困るだけだよね……」
それまでずっと、好きって気持ちを伝えずにいたのは私なんだ。
傷付けられたなんて言っても彼にとってはほとんど言いがかり。分かってる。
「いやでも、ホントに悪いことしたと思ってるよ。俺、どうしたらいい? 殴るか?」
「殴る? いや、そんなことしたら私の手が痛くなるじゃない。もういいんだよ。今はもう、キミのことなんて好きでもなんでもないんだから」
「あ、そうなんだ……」
「当たり前でしょ? あんなヒドいことされて、好きで居続けられるわけないよ」
「そうか、そうだよな……スマン!」
また頭を下げる。
「もういいってばさ。ほら、座りなよ」
「お、おう」
気まずそうに中里が席についた。
私こそ怒鳴ってしまって気まずいので、日誌の続きを書いて場を誤魔化す。
「でもさ、私もなんでキミなんかを好きだったんだろうね? 我ながらバカだったよ」
終わったことだと言いながら、ついつい愚痴をこぼしてしまう私。
「そう言うな。好きって気持ちは本物だったんだから、それは大切にしまっておけよ」
私が顔を上げると、中里は優しげな微笑みなんて見せてくる。
かえってイラってきた。
「言うもんだ。それって誰の受け売り?」
「姉ちゃんが読んでるファッション誌の人生相談」
「そんなの読んでるくせに、女心は微塵も理解してないんだ?」
どうしてもとげとげしい言い方になる。
私の中のわだかまりは、それほど深いものなのだ。
「悪かったよ。ホントに悪かった。俺は無神経だった」
「そのとおり、分かってればいいんだよ。さて、学級日誌は書き終わった。私が職員室まで持っていくからキミは先に帰っていいよ」
机の上を片付けて、私は立ち上がる。
「でも傘がなぁ……」
まだ雨は窓を濡らし続けていた。
空はどんよりとしていてすぐに晴れてくれそうもない。
「止むまで待ってれば? 止まない雨はないらしいし」
「ホント冷たいよなぁ、北山」
「でも、中里君と相合い傘なんて絶対にゴメンだから」
「まぁそうか。だよなぁ……」
憂鬱そうに空を眺め続ける中里。
「仕方ないなぁ。雨が止むまで相手したげるよ」
私はまた座り直す。
ホントはこいつ相手に慈悲を見せる義理なんてないんだけど。
「実は優しい奴だな、北山」
中里がぱぁっと明るい笑顔になる。
いつも騒がしいこいつは一人になるのを極端に嫌がった。
かつて好きだった男子のことなのでよく知っている。
「時々、思い付いたように優しくなるのが私なの」
「あ、そういや、中二の時にも助けてもらったよな。体育祭の時だ」
「……ああ、あったね。キミが突き指してお箸持てなくなったから、私がお手ずから食べさせてあげたんだ。あーん、てね」
正直、思い出したくない記憶だった。
あんなことをしたせいで私は……。
「あれは助かった。めちゃくちゃ恥ずかしかったけどな」
「目の前でぽろぽろ落とすから見てられなかったんだよね。でも、あれはホントに失敗だった」
「散々冷やかされたよなぁ」
「あれがきっかけで好きになっちゃったんだよ」
「あ、そうなんだ?」
「冷やかされてたら意識してしまって、気付いたら好きになっていた。我ながら単純だ」
今となってはつくづく悔やまれる。
「始まりはそんなもんかもなぁ」
「知ったふうな口を。とにかく恋って奴はやっかいで、あばたもえくぼ。ただひたすら騒がしいだけの男なのに、活発な少年かわいい! になっちゃうわけだ。ホント、どうかしてた」
「俺のこと、けなしてる?」
顔を歪めてしまう中里。
鈍感男でもそれくらいは察するようだ。
「けなしてるよ。ああ……どんどん悔しくなってきた。去年、中三の三学期にさ、ここの高校受ける子で集まって勉強会したよね?」
「したした。俺んちでな。五人くらいだっけ?」
「最初は六人だった。でもみんななんだかんだで抜けていって、最後は私とキミだけになったんだ。あの時のドキドキを返してくれ!」
私が手を出すと、中里は身を引いてしまう。
「返してくれって言われても……」
「あの時、私は危うく告白するところだったんだ。よりにもよってこんな奴に」
「こんな奴はヒドいな。でも、告白はしなくて正解だったぞ。あの頃の俺は心が荒んでたからな」
「受験で?」
「それもあるけど、当時の俺は山下さんが好きだったんだよ」
「ああ、女子高行ったよね」
「そうそう、同じ高校に行けなくなって、俺は心が荒んでた」
「よかった、そんなとこへ告白なんてしようものなら、先週以上のダメージを与えられてたね」
「先週のことは本当に悪かった」
座ったまま、深く頭を下げる中里。
「今さらそうされてもねぇ。ともあれ私は無事、中里君と同じ高校に入れたんだ。うれしかったなぁ」
「頑張った甲斐があったんだな」
「ん? いやいや、私が主に心配してたのはキミの方。成績かなりギリギリだったよね? せっかく志望校合わせても、私だけ通ったらバカみたいじゃない」
「ま、まぁそうか」
好きな人のことが信じられない苦悩に胃が痛くなったものだ。
「クラスは別れちゃったけど部活は一緒のところがいい。そう思ったのに、中里君は帰宅部。帰宅部なんかで青春を無駄にしたくなかったから、私は茶道部に入った」
「いや俺、バイトしてるから」
「コンビニだよね。何回も通ったものさ。ホントのとこ、私もそこでバイトするって選択肢があったんだよね」
二人並んでレジをする。
悪くない図だと、当時はあれこれ妄想した。
「そうすりゃよかったのに」
「でも、校則で禁止されてこそないけど、学校の方針としてバイトは非推奨でしょ? だからやめといた」
「真面目だね」
「真面目でしょ。なんていうんだろう? 恋心より、規律の方が優先するの、私の場合。だからだろうなぁ、キミの失恋につけ込んだりもできなかった」
「失恋? ああ、まぁちゃん先輩のこともご存じで」
「当然。去年の秋、文化祭の後に告白したんだよね。すごい無謀だ。あの人天使なのに」
一応人間ではあるのだが、捉えどころのない美人なので『地上に遊びにきた天使』と呼ばれている。
男女ともに人気が高い。
「まぁなぁ、今思えばただ憧れてただけだったのかもなぁ」
などと言い、遠くに視線をやる。
「実際そうだろうね。そこにつけ込む隙があったんだけど、結局は道義に反してるって思い留まった」
「その頃に告られてたらどうなってたろうなぁ。特にクリスマス前なんて周りの連中がどんどん彼女作っちまいやがってさ」
「ああ、寂しいから私程度の女でも手を打った、と」
「いやいや、そういう意味では……」
「そういう意味でしょうに。よかった、そんなんでオッケーされてもちっともうれしくないや。後になってヒドく傷付きそうだもんね、先週以上に」
「先週のことは本当に悪かった」
再び頭を下げる中里。
「今さらだよ。というよりも、クリスマス辺りの私は割とキミのことはどうでもよくなってたんだよね」
「え? 好きだったんだろ?」
「なんかこう、波があるんだよ、波が。あの頃は割と低調で、友だちとワイワイやる方が楽しかったの。実際、クリスマスは友だちで大騒ぎしてすごい楽しかったし」
「まぁ、なんとなく分かる」
「そのまま鎮まればよかったんだけど、二年になったら同じクラスになったでしょ? やっぱり私は中里君が! って乙女な気持ちになってたら、先週のあれですよ!」
「先週のことは本当に悪かった。申し訳ないです」
深く深く頭を下げる中里。
「もういいけどね。こうやって二人っきりで話してても全然ドキドキしないや」
「そうか……。もう終わった話なんだな」
「そう、終わった話。そうなんだよね、終わった話なんだ」
「ん?」
私はにっこり中里に笑顔を向ける。
「ホントはさ、もう好きでもなんでもないけど、手酷く傷付けられた恨みだけは残ってたんだ」
「あ、そうなんだ……」
「だから今日の日直は死にたいくらいイヤだった。でも、今ちょっと話しているうちに気が変わったかも。キミがさっき言った『好きって気持ちは本物だった』っていうの、確かにそのとおりだよ」
私は中里に向かって手を差し出す。
向こうは少し戸惑った顔。
「ありがとう、中里君。結局実らなかったけど、私を素敵な気持ちにさせてくれて」
「お、おう」
おそるおそるといったふうに伸ばしてきた中里の手をぎゅっと握り、ぶんぶん上下に振る。
さ、私の初恋、静かに私の胸の中で眠りな。
「雨止まないね。私の傘に入ってく? 途中までだけど」
「お、いいのか? 助かる!」
単純な中里がうれしそうに言ってくる。
この人懐っこい笑顔が私は大好きだった。
素直にそう思えるようになったのは、今日のこの雨のおかげ。
(「居残っていると、雨が降りだし」 おしまい)




