同期する魂と、証言者の覚悟
3-2 同期する魂と、証言者の覚悟
月が雲に隠れ、鐘楼の中は濃密な影に支配された。 あかねは、膝を抱えたまま動かなくなったミューズの傍らに立ち、空中に浮遊する龍をじっと見つめた。その金色の瞳は、暗闇の中で自ら発光しているかのように怪しく輝いている。
「……龍。あんたの言うことが本当だとしたら、私たちが『世界』だと思っているものは、ただの厚化粧ってこと?」
あかねの声は、冷徹な刃のように静かだった。龍は、長い尾を優雅にくねらせ、あかねの顔のすぐそばまでその首を寄せた。
『くくく……。主よ、お前の内側に渦巻く、奇妙な記憶の断片が見えるぞ。……「しすてむ」、といったか。理を数え上げ、網の目のように縛り上げるその思考……。お前の言葉を借りるなら、この世界は確かに、あまりに巨大な「しすてむ」の残骸に過ぎぬ』
龍の低い声が、あかねの脳内に直接響く。それは耳で聴く音ではなく、彼女自身の思考をなぞるような、侵食する響きだった。あかねは自分の脳が「ハック」されているような不快感と、それ以上に、この超越者と深く繋がっているという奇妙な高揚感に包まれる。
『お前の頭の中にある言葉をさらに借りれば……ここにあるのは、人間が「神秘」と名付け、「禁忌」と呼んで遠ざけた「かくりくいき」という場所なのだろう。秩序という名の器に収まりきらず、零れ落ちた真実を封じ込めるためのな』
「……かくり、くいき?」
ミューズは、その聞き慣れない響きを、唇の上でそっとなぞるように繰り返した。
「隔離、された、場所。……主の光が届かぬのではなく、私たちが光を遮り、そこに『不都合な真実』を閉じ込めたというのですか? あかね様。あなたのいた場所では、そうやって……見たくないものを、無機質な言葉で切り捨て、遠ざけてきたのですか?」
ミューズの問いには、現代人にはない「言葉の奥にある情念」を読み取る鋭さがあった。彼女にとって、あかねの放つ「しすてむ」や「かくりくいき」という言葉は、この世界の「神聖さ」という皮を剥ぎ取り、剥き出しの「残酷な構造」を突きつける劇薬だった。だが、彼女はその毒を、自らの知性で飲み込もうとしていた。
「そうよ。呼び名はどうあれ、そこには、まだデバッグ……ううん、誰の手にも汚されていない混沌がある。おじさんは、そこに『出口』があると言ったわ。横浜の街ではそれを『ゴミ』として処理していたけれど、この世界ではそれを『神域』として隠している。やり方は違っても、本質は同じよ」
ミューズはゆっくりと立ち上がった。その手はまだ震えていたが、彼女を支えていたのは、もはや神への信仰ではなかった。彼女は、自分の胸元に下げた一族の徴――銀の天秤を強く握りしめた。
「……私は、記録者です」
その言葉には、これまであかねが聞いてきた「役職としての自己紹介」とは一線を画す、重い響きがあった。
「私たちの歴史は、主が描いた美しい筋書きを書き写すだけの、ただの清書でした。けれど、あかね様。もしあなたがこの『箱庭』の壁を突き崩し、見たこともない真実を連れてくるというのなら……私は、それを世界で唯一の『証言』として記さねばならない。それが、この地に生きる文明の、新しい産声になると信じて」
ミューズは、空中に浮かぶ龍を真っ直ぐに見据えた。それは、本来であれば対話すら許されぬ「神の代弁者」に対する、対等な宣言だった。彼女の中で、信仰は「使命」へと昇華されていた。たとえその使命が、いつか自分を焼き尽くすことになっても。
『くくく……。面白い。人間という器のなかに、これほどまでに強固な「業」が潜んでいたとはな。……娘よ、お前が記すのは「希望」ではない。主の慈悲を拒んだ者が辿り着く、無価値な絶望の記録かもしれぬぞ。……それでもお前は、自らをその証言の糧とするか?』
龍の金色の瞳が、品定めするようにミューズを射抜く。それは未来の悲劇を予見しているかのような、残酷な慈しみを含んだ眼差しだった。
「ええ。記録者の命は、真実が記された瞬間に完結するものです。私は、あなたたちが行く道の果てを見届けるために、ここに在ります」
あかねは、ミューズの横顔に「横浜」では決して見ることのなかった、自己の消失さえ厭わぬ強い意志を見た。それは、誰かに守られるための無垢なヒロインではなく、己の使命という呪いに殉じようとする「表現者」の顔だった。
「……勝手なこと言っちゃって。でも、いいわ。私の『拒絶(NEIN)』を最後まで書き記せるのは、あなたしかいないみたいだから」
あかねがそう呟いた瞬間、龍がわずかに目を細めた。その一瞬、あかねの脳内に、龍の「本来ならあり得ない慈悲」のような感情が流れ込んできた。それは、いつかこの少女が命を賭して真実を掴んだとき、龍がその「場所(時間)」を永遠に固定し、収集してしまう未来を暗示しているかのようだった。
「――いたぞ! 上だ、鐘楼に魔女がいるぞ!」
階下から響く追手の怒号が、二人の決意を物理的な現実へと引き戻した。
3-3 境界線の消失
鐘楼の最下層から響いていた怒号が、すぐ足元の階段まで迫っていた。鉄靴が石段を叩く不吉なリズムが、密閉された空間で増幅され、あかねの鼓膜を圧迫する。
「――逃がすな! 聖剣を奪い、バルガス団長を狂わせた魔女は上だ! 記録者もろとも捕らえよ。聖剣の正義を汚した大罪、死を以て償わせるのだ!」
叫んでいるのは、近衛騎士隊長レオンハルトだった。かつてあかねが召喚された際、最初に跪き「救世の主よ」と涙した男だ。その瞳に宿っていた純粋な感動は、今や「異物を排除せよ」という冷酷なシステム命令へと完璧に上書きされている。
「……あかね様、もう」
ミューズが震える手で記録帳を胸に抱いた。あかねは、彼女の腰に手を回し、鐘楼の狭い窓枠に足をかけた。
「レオンハルト、あんたの『正義』もお腹いっぱいよ。……龍、少し黙らせて」
『くくく……。主よ、承知した。……跪け、矮小なる「台本」の守護者どもよ』
龍がゆっくりと、しかし圧倒的な威圧感を持ってその翼を広げた。 それは物理的な咆哮ではない。龍が短く鳴いた瞬間、鐘楼を囲む夜空の色が「反転した黄金色」に染まり、騎士たちの意識に「自分たちが作り物である」という事実を物理的な重圧として叩きつけた。
「ぐ、ぁあああ!? なんだ……この、頭の中に直接流れ込んでくる……『意味』の奔流は!」
レオンハルトたちの鎧が、メキメキと音を立てて歪む。龍の放つ「理の圧」は、彼らの存在を定義している世界のルールを直接揺さぶっていた。騎士たちは剣を握る力すら失い、その場に崩れ落ちる。
その隙に、あかねは跳んだ。空中で彼女が右手を振り抜くと、網膜に赤いノイズが走り、空間がガラスのようにひび割れた。
「――ログイン! IX-U:OVERWRITE-NEIN!!」
あかねとミューズの体は、重力を無視するように闇の空を滑り、そのまま王都の境界線――「禁忌の森」へと吸い込まれていった。
着地したそこは、色彩を失った「未定義」の森だった。ミューズは激しく肩で息をしながらも、真っ先に懐から使い込まれた革表紙の記録帳を取り出した。彼女はあかねと出会い、バルガス団長が絶叫を上げて崩れ落ちたあの時から、この物語を「第一の頁」として綴り始めていたのだ。
「……記録、しなければならないのです。これは私の日記ではありません。この世界の『偽りの安寧』が終わったという、ただ一つの証言なのです」
ミューズは、もはや折れんばかりの羽根ペンを走らせた。 後に**『第IX U:九番目の証言』**として、文明の灰の中から掘り起こされることになる英雄譚の、これが真の序章であったことを、今はまだ、誰も知らない。
『くくく……。娘よ、せいぜいその「器」に真実を溜め込むがいい』
龍は満足そうに目を細めた。いつか彼女が命を賭してこの記録を完成させた時、その一瞬を魔法で「永遠」にセーブしてやる未来を、既に視ているかのように。
「……行きましょう。私たちの足跡が、この世界の新しい地図になる」
あかねの右手に宿る「NEIN」の光が、暗闇を青白く照らし出していた。




