認識の障壁
逃亡の果て、古びた鐘楼に身を潜めたあかねたち。 そこで語られたのは、この世界の「神の慈悲」に隠された、あまりに矮小な真実でした。
「それは主の意志じゃない。……人間が、自分たちの都合で作り上げた枠組みよ」
あかねの指摘と、龍が告げる「視線の果て」。 ミューズが信じてきた信仰という名の背骨が、音を立てて軋み始めます。世界が「箱庭」に見えるのは、見ている側の器が小さすぎるからなのか――。
錆びついた鐘楼の最上部。隙間風が鳴らす不気味な笛の音が、夜の静寂を切り裂いていた。 あかねは冷たい石の床に腰を下ろし、遠くで松明を揺らして捜索を続ける王宮の灯りを見下ろしていた。あの光の輪の中にいる者たちにとって、自分は今や「世界を壊すバグ」に過ぎない。
隣で膝を抱えて震えるミューズの横顔に、月光が鋭く落ちている。彼女の手は、古びた記録書を千切れんばかりに握りしめていた。
「……ミューズ。この世界を『平穏なる箱庭』と呼ぶのは、誰の教え?」
あかねの問いは、静かだが鋭かった。ミューズは祈るように手を組み、吸い込まれそうな夜空を見上げた。
「……古の聖典の教えです。主が、混沌に疲れた人々のために『守られるべき静景』を与えてくださった……。この世界は、主の慈悲によって囲われた、完璧な均衡の園なのです。私たちはそこから出る必要も、疑う必要もありませんでした」
「完璧な、均衡……。でも、それって主の意志じゃなくて、**『人間がそうだと決めつけた形』**じゃないの?」
「……決めつけた、形……?」
あかねは立ち上がり、鐘楼の壁に刻まれた古い紋章を指先でなぞった。指先に伝わる石のざらつきさえ、横浜の無機質なセラミック壁に比べれば「本物」のように思える。だが、その裏側に潜む「意図」は同じだ。
「私が言いたいのは、神様が手を抜いたとか、そんなことじゃない。……ただ、人間がその『慈悲』を盾にして、自分たちが耐えられる分だけの矮小な枠組みを、勝手に作り上げたんじゃないかってこと。本来の真実や、主が描きたかったはずの世界は、もっと荒々しく、もっと自由で、もっと眩しいはずなのに……。あなたはそれを、自分たちの都合で『安寧』という名に書き換えて、固定してしまった」
あかねの言葉は、横浜で見てきた「感情調整ブース」と同じ構造を指摘していた。不快を排除し、理解できる範囲の「幸せ」だけを抽出して塗り固める行為。
ミューズは言葉を失った。彼女が今まで「神の思し召し」だと思っていた平穏が、実は自分たちが耐えられない「真実の光」から目を逸らすための覆いだったかもしれないという、初めての戦慄。
「……あかね様。それは……主への、あまりに恐ろしい不敬です。私たちが守ってきた歴史も、人々の祈りも、すべてが……嘘だと言うのですか?」
ミューズの声は涙に濡れていた。信仰は彼女の背骨そのものだ。それを折ることは、彼女の実存を否定することに等しい。
『くくく……。この娘が恐れているのは、神の不在ではない。人間が、神の光を「理解」という名の檻に閉じ込めたことだ』
肩の上の龍が、地の底から響くような深い声で鳴らした。それは、物理的な音を超えて、直接魂を揺さぶる震動だった。龍はゆっくりと翼を広げ、月光を遮るように鐘楼の空間を占拠する。
『この世界に過ちなどない。ただ、人の視界という「器」が、真理の光を零さぬほどに小さすぎるだけだ』
金色の瞳が、絶望するミューズを射貫く。
『お前たちが「壁」と呼ぶものは、主が引いた境界ではない。これ以上先を見れば心が壊れると畏れた人間が、自ら眼差しを伏せた**「視線の果て」**よ。……理が歪んで見えるのは、鏡そのものが曇っているからに他ならぬ。娘よ、お前が信じてきた「箱庭」とは、主が与えた楽園ではない。主の筆が描き出す混沌を拒んだ、お前たちの臆病さが築いた城壁よ』
龍の言葉は、ミューズの信仰を否定するのではなく、その信仰という名の「器」が、真の神秘を捉えるにはあまりに脆く、限定的であることを暴き出した。
「……私たちは、守られていたのではなく、自分の器の中に閉じこもっていただけなのですね」
ミューズは、もはや反論する力も残っていないようだった。 あかねは、夜空の先に広がる深い闇を見つめた。そこには、彼女が知る「予定調和の星空」ではない、もっと根源的な「何か」が、既成概念の枠組みの外で、今も激しく脈動しているような予感があった。
お読みいただきありがとうございます。
今回は、物理的なハッキングではなく「認識」へのハッキングです。 「神が世界を閉じ込めたのではなく、人間が真実の眩しさから逃げるために、自分たちで壁を作った」という逆転の発想。
ミューズにとっては、世界が崩壊するよりも恐ろしい「実存の否定」かもしれません。肩の上の龍が語る言葉は、この世界のシステムそのものを俯瞰する、残酷で高潔な真理です。
次回、この認識の揺らぎが、二人の魂を思わぬ形で「同期」させていくことになります。




