異世界漂着
完璧に管理された都市・横浜の「死」から逃れ、あかねが辿り着いたのは、目に痛いほどの極彩色に満ちた異世界でした。
しかし、QAエンジニアとしての彼女の五感は、その美しさの裏に潜む「不快な現実」と「低解像度な違和感」を即座に感知します。
勇者として捧げられた聖剣。 歓喜に沸く騎士たちの無機質な瞳。
誰もが疑わない「救済」というシナリオに対し、彼女が放つ最初の拒絶(NEIN)とは。
肺に流れ込んできたのは、ひどく泥臭く、生々しい「酸素」の塊だった。
横浜の無機質なミントの香りなど微塵もしない。草木の腐敗臭と、湿った土の匂い。五感が、あの完璧なシミュレーターでは決して再現されなかった「不快な現実」に叩き起こされる。
視界が安定するまで、数秒を要した。
石造りの巨大な広場。円形に並ぶ数千人の住人たちが、祈るような姿勢で地面に跪いている。その中心、祭壇のような高台の上に、私は放り出されていた。
「……おお、ついに。ついに現れたか! 我らが救世の勇者よ!」
金糸の刺繍が施された豪華なローブを纏う老人が、狂信的な笑みを浮かべて私の手を取ろうとする。
その瞬間、私の視界の端から「それ」が浸食してきた。脳の深部、意識の裏側に、冷徹な**青い文字列**が直接流し込まれてきたのだ。
『認証(Auth)……失敗。一般個体によるアクセスは制限されています』
『現在の権限レベル:GUEST』
『推奨アクション:既存の「神話OS」に従い、三百年間の修行、または王家の血筋を証明してください』
(修行? 血筋? ……ふざけないで。そんなの、ただの不合理なプログラムじゃない)
迫りくる老人の手。跪く民衆。すべてが「決められたスクリプト」に従って動いているだけのパーツに見えてくる。私は吐き気を堪えて、老人の手を振り払った。
「勇者よ、恐れることはない。今こそ、千年の間、誰の手にも触れさせなかったあの聖剣を抜くのだ。あれこそが、この歪んだ天蓋を修復する唯一の鍵……」
王が指差した先には、岩に突き刺さった一本の剣があった。白銀の刀身に、青い文字が刻まれている。
だが、私の目には、その剣の周囲に走る「実行時エラー」の赤いノイズが見えていた。あれは聖剣じゃない。……ただの「読み取り専用ファイル」だ。
私は吸い寄せられるように、その岩の前に立った。
祭壇の下、一段低い場所には、武装した護衛たちが並んでいる。
身の丈ほどもある大剣を背負った、目つきの鋭い男。彼は私を、剥き出しの不信感で睨みつけている。その隣には、大きなフードを深く被った、小柄な女の子。彼女は私と目が合うと、怯えたように肩を震わせた。
私は聖剣の柄を握った。冷たい。鉄の感触ではない。それは、何千万人もの「祈り(という名の負荷)」に耐えかねて、処理落ちを起こしているデータの塊だった。
私は脳内の「検索バー」に、おじさんのあの文字列を叩き込んだ。
「――ログイン。IX-U-LOGIN:09-NEIN-ROOT」
『管理者(ROOT)権限:承認。NEIN-SYSTEMへ接続を開始します』
『対象(Object):聖剣カリバーン。設定を変更しますか?』
私の思考が、コンソール上のカーソルのように動く。
[Name: Caliburn] [Status: Locked] [Mass: 5000kg(Fixed)]……
この「5000kg(固定)」という設定こそが、この世界が強いている「伝説」の正体。私はその数値を強制的に上書き(Overwrite)した。
「……プロパティ:質量(Weight)を0.001にリライト」
カチリ、と脳内で何かが噛み合った。
私が指先に少しだけ力を込めると、数千年間、どの英雄も動かせなかった伝説は、まるで湿った砂から抜けるストローのように、呆気なく「ひゅるっ」と抜けた。
その瞬間、祭壇の背後に鎮座していた、山のような巨躯を持つ守護龍が咆哮を上げた。
だが、私の目には、その巨大な龍の全身に走る「過剰なポリゴン」と、維持コストを示す膨大な数値が見えていた。
「……リソースの無駄遣いね」
私は手にした聖剣の「管理者権限」を使い、直接コマンドを打ち込んだ。
「――ターゲット:守護龍。プロパティ:スケール(Scale)を0.01に強制縮小」
刹那、世界が悲鳴を上げた。
巨大な龍の体が、まるで紙屑を丸めるような嫌な音を立てて、物理的に「圧縮」されていく。骨が砕け、肉が収縮し、空間の整合性が取れずに周囲に紫色の火花が散る。デジタルな暴力。
「……ギャッ!?」
数秒前まで雲を突く巨体だった龍は、今や私の足元で、トカゲ程度の大きさに成り果てていた。あまりの急激なデバッグに、龍自身も痙攣しながら私を見上げている。
広場は、静寂に包まれた。驚きではない。「世界のルールが物理的に壊された」ことへの、本能的な恐怖。
王は腰を抜かし、護衛の男は大剣に手をかけながらも動けない。女の子は、私のことを「この世のものではない何か」を見る目で凝視していた。
私は、足元で丸まった「元・巨大龍」を見下ろし、冷淡に言い放った。
「……これで少しは、この世界の処理速度も改善されるんじゃない?」
いかがでしたでしょうか。
あかねが最初に感じたのは、異世界の神秘ではなく、むせ返るような「泥臭い酸素」の感触でした。 管理された清潔さよりも、不快であっても生々しい現実を選ぶ。この瞬間に、あかねの『実存』は動き始めます。
しかし、彼女の前に現れた「伝説の聖剣」は、あかねの目には単なる『修正プログラム』にしか見えませんでした。
美しいファンタジーの皮を剥ぎ取った先に、何が見えるのか。 次回、彼女が「聖剣の魔女」と呼ばれることになる決定的な瞬間を描きます。
引き続き、この「箱庭」の解体にお付き合いください。




