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始まりの粉雪

作者: 白波楓

 蓮と二人で一年暮らした、駅から徒歩約八分の十五階建てマンションの九階。九◯一号室。周辺にはスーパーや飲食店もいくつかあるし、南向きだし角部屋だし、夏には地元で開催される花火がちょうど大きく見える。端的に言うと、私はこの家での暮らしが気に入っている。三十歳の節目で、「これからもどうせ独りで生きていくのだから資産としてマンションでも買っておくか」と思い立って購入を決意した私の城に、蓮は突然転がり込んできた。決して大豪邸という訳ではない。けれども、お気に入りの家具に囲まれて蓮と二人で暮らすには充分な広さと間取りをしている。


「蓮、荷物それだけなの? 少なくない? リュックサックひとつってスナフキンじゃあるまいし」

 明日、夜が明けたら蓮はこの家を出て行く。その荷造りを終えた蓮の部屋へとあてがった室内を見渡して私はそう声を出していた。元々ミニマリスト気質なのか蓮は物をあまり持たなかった。だけれど、一年暮らしていればそれなりに所持品は増える訳で。それらを資源ゴミやら可燃ゴミやら粗大ゴミに出し切った蓮はリュックサックに入るだけのコンパクトな必要最低限のものだけを持って出て行くらしい。驚きを通り越して私は少し呆れてしまった。

「そうかな? 無いなら無いで何とかなるもんだよ」そう言って屈託のない笑みを浮かべる蓮は清々しい表情をしていて、それが少し私の心を痛めた。

 一年前、行きつけのバーでたまたま居合わせた蓮は、「帰る家がない」と子犬のように眉を垂らして言った。話を聞いてみると、住んでいたアパートが火事で全焼して途方に暮れているらしい。そんな漫画みたいな話ある? と、酔っていた私はケラケラと笑いながら本気にしていなかったし、今もあまり信じていない。

 けど、素性も知らない蓮に対して「じゃあ、部屋余ってるし私の家くる?」と突拍子のないことを言ったのは、何故か不思議と蓮の側に居心地の良さを感じたからかもしれない。それに対して「いいんですか?」って目をキラキラさせて答えた蓮の方も大概変な人間だ。

 そんな軽いノリで始まった歪な同居生活に、私は満足していた。蓮というのが本名かは知らない、名字も知らない、というか蓮のことを私はほぼ何も知らない。そんな男とよく一緒に暮らせたな、と自分でも驚くが、私たちの生活は案外うまくいっていたと思う。

 女性の社会進出を促す風潮に乗って順調に出世をしてきたが、まだまだ男性を主流とした会社で私は、ピンヒールの踵と心をすり減らしながら毎日闘っている。そんな私に蓮は温かくておいしい手料理を作ってくれた。お風呂を沸かしてくれるし掃除もしてくれた。あまり家事が得意でない私は、蓮のことを住み込みの家政婦さん、くらいに思うようにしていた。

 けれども、一緒に住んでいれば情というのも湧いてきた。それが恋愛感情なのか、ただの情なのか、見極め切れずに過ごしていた一ヶ月前、蓮は唐突に「そろそろ出て行くね」とちょっと外出するね、くらい気軽に言い放った。このままずっとこんな生活が続くとは思っていなかったけれど、あまりに突然の幕切れに「あ、うん。分かった」とやけにあっさりとした返事しか言えない自分を呪った。


 ドアの前に立ち、蓮との出会いから奇妙な同居生活を思い返していると、「紗英さん? どうかした?」と蓮に声を掛けられた。それに「ううん」と首を振って笑みを浮かべると、蓮が「紗英さん、コンビニ行こうよ。ちょっと遠いけどローソン。俺、何か甘いもの食べたくなっちゃった。後、お酒も買おう、最後の晩餐に」と言ってきた。連は甘党で、コンビニスイーツを好んでよく買っていた。最後、という言葉にやっぱり心がちくりと痛んだけれど、私はその痛みに気付かないように「いいよ」と返事をして、お財布と何か羽織る物を取りに自分の部屋へと戻った。


 蓮と歩く夜道。連の手と私の手は、触れそうで触れない距離感を保ったまま。きっとこれからも埋まることのないその距離が妙に切なくなって、涙が溢れてきそうになるのを少し上を向いてごまかす。

 東京の夜空では星なんて見つけられやしない。けれども、今日は満月なのか大きく丸い月が私たちを照らしている。

 この一年の蓮との日々を思い返す。私が残業でどんなに遅く帰っても、蓮は必ず起きていて「おかえり」と声を掛けてくれた。私がリビングで趣味の映画鑑賞をしていて、ありきたりな演出だと分かりつつも一番の感動シーンで思わず涙を流してしまうと、そっとティッシュを渡してくれた。休みの日でもパソコンに向かって仕事のプレゼン資料を作っていると、行き詰まったタイミングでホットミルクを作って持ってきてくれた。

 蓮は優しい。私はその優しさにすっかり慣れてしまっていた。だけど、この夜が明け、太陽が昇ってしまうと蓮は私の元を去ってしまう。それが、今になって猛烈に寂しい。

 そんなことを考えていると、ふと横を歩く蓮が落ち着いた声を出した。「俺にとって、紗英さんは太陽みたいな人かもしれないな。俺馬鹿だから詳しくは知らないんだけど、月って太陽がないと輝けないんでしょ? 俺は紗英さんがいないと輝けないから」

 蓮も私と同じように月を見上げていた。

「そんなこと言って。私から離れて行くのは蓮の方なのに」少しだけ恨めしい言い方になってしまった。

「ちゃんとしたいと思ったから」真剣な目をして蓮は私を見つめてくる。「俺さ、東京の下町にある和菓子屋の跡取りなんだ。今修行中の。だけど、親に敷かれたレールの上を歩いているだけでいいのか、って思うようになって、その思いがぶわーってこぼれて……逃げてきた。だから、初めて会った時に言った家が火事になったってのは嘘。ごめん」

「やっぱり嘘だったか」

「え、気付いてたの?」

「そんな漫画みたいな、とは思ったよね」

「そっかぁ」恥ずかしそうに連は口元を手で隠す。「でもさ、紗英さんと暮らしていくうちに、このままじゃ駄目だ。ちゃんとしなくちゃって徐々に思うようになった。紗英さんと対等に歩いて行きたいって。毎日頑張る紗英さんを見て、俺もまた頑張る気力をもらった。だから、この間実家帰って土下座したよ。『もう一度修行させてください』ってね。すげぇ怒鳴られて怒られたけど、何とか許してもらえた。俺、もう一度頑張りたい。めちゃくちゃ頑張って一人前の和菓子職人になるからさ、だからその時まで待っていて欲しい」

 何を? とは聞かなかった。その代わりに初めて蓮の手を握ったら、温かな手のひらで決意を込めたようにぎゅっと握り返してくれた。今はそれがいい。それでいい。

「待ってるよ」

 その一言で蓮は嬉しそうに微笑み「ねぇ、ローソンまで走ろうよ」と私の手を取りながら駆け出したそうに足を出す。

「嫌よ。こんな年になってまでかけっこなんて」

「ちぇ」

 そう言ってゆっくり歩き出した私達を祝福するかのように粉雪が舞いだした。


(了)

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