第01話 帯刀家
時刻は十五時過ぎ。
西へと傾いた太陽と熱を持ったアスファルトからの挟撃で、今日の体感最高気温は今年一番の高さを記録している。
何もやる気が起きない程の茹だるような暑さの中、俺は偶々部活が中止になったのをこれ幸いと授業が終わると同時に家に直帰していた。
「ただいまー」
額に垂れる汗を袖で拭い、後ろ手に玄関の鍵を閉めながら、家の中に向かって声をあげる。
先祖代々一家の長男が受け継いできた我が家は、屋根裏も含めると三階建になる母屋、そしてその裏手には中庭を挟んで道場が一つ、という間取りをしている。
良く言えば古き良き日本家屋、悪く言えばオンボロ。
人によって評価は分かれるだろうけど、ただ一つ確かなのは無駄に広いってことだ。
お陰で玄関で少々声を張り上げても、誰の耳にも届いていない場合が時々ある。
加えて姉貴は大学生、親父はサラリーマン。そして母さんと爺ちゃんも買い物や散歩でこの時間は家にいないことが多く、返事が返ってくる可能性は限りなくゼロに近い。
「あらあら、おかえりなさい裕也。今日は早いのね。部活はどうしたの?」
それでも今日は珍しく返事が返ってきた。
ちょうど掃除をしている最中だったのか、廊下の奥に掃除機を抱えた母さんの姿が見える。
黒色のショートヘアに中高生かと見紛うほどの小柄な身体プラス童顔。いつも周りを安心させるかのような、ほんわかとした笑みを浮かべている。
我が母にして一家の最高権力者、帯刀加奈子。
白いワンピースと麦藁帽子を着せようものなら、まさに物語に出てくるお嬢様のような外見なのだが、決してその見た目に騙されてはいけない。
俺はそれを、文字通り生まれたときからの付き合いでよく学んでいる。
「顧問の先生が調子悪いからって中止になった。多分明日も休みだってさ」
「よかったわ。母さんてっきり裕也がサボったのかと思っちゃった」
「!?」
母さんの方に背を向け脱ぎ終えた靴を揃えていると、すぐ背後から声が聞こえた。
慌てて振り向くと一体いつの間に近づいたのか、掃除機を床に置き、俺の襟元を掴もうとする母さんの手が目の前に迫っている。
「ストォォップ! 大丈夫! 俺はサボりなんて真似はしないよ!? って言うか、今までだって一回も休んだことないだろ!?」
両手をあげて必死に無実をアピールすると、あらあらそれならいいんですよと呟いて、母さんは掃除機を抱えて台所の方へ引っ込んで行った。
その後姿が完全に見えなくなったのを確認し、とりあえず危機が去ったことにホッと胸を撫で下ろす。
その外見とは裏腹に、母さんは学生時代様々な格闘技で全国上位に入賞していたという恐ろしい経歴を持つ。今でも毎日の修行は欠かしておらず、テレビや漫画で見た技を抱き枕やサンドバック相手に試していることもある。
そんな光景を何度も目撃している俺と親父は、何か粗相をしてしまったら代わりに自分が練習台にさせられるのではないかと、戦々恐々とする毎日だ。
(親父が帰ってくるまで部屋に引きこもっておこう。そうすれば絡む相手は親父に移るはずだ)
俺は内心で親父を生贄に捧げながら、早足で二階にある自室に向かう。
自室。高校入学時に与えられた俺の城。
内側から鍵をかければ外部からの一切の接触を阻める正に鉄壁仕様のそのエリアは、高校二年生という多感なお年ごろの心身を守る、神聖な地だ。
身に沁みついた動作でいつものようにドアを開け、いつものように鍵を閉める。そしていつものようにベッドの上に鞄を放り投げ「痛っ!」、いつものように電気をつけ――。
(――今、何か声がしたような……)
いや、そんなはずはない。ここに誰かがいるはずがない。ここは俺の部屋、俺の城のはずだ。
(もしかして近所の野良猫でも迷い込んだ、とか?)
いや、分かっている。軽く現実逃避しかけたけれど、今のは間違いなく人の声だ。そしてその声の主の正体も、俺にははっきりと分かっている。
けれども、もしかしたら気のせいかもしれない。聞き間違いかもしれない。そんな一縷の望みにかけて、ゆっくりとベッドの方を振り向く。
そこには上半身を起こし、赤くなった鼻を擦っている姉貴の姿があった。
(最悪だ……)
「おかえり、裕也。随分早かったのね」
ニコリと笑みを浮かべる姉貴。
「あ、ああ……。ただいま」
危険だ。あの笑顔は決して上機嫌からくるものじゃない。とにかく謝らなくては。
「それにしてもあんた、愛しのお姉さまに向かって随分な仕打ちねえ」
ベッドから降りると、変わらぬ笑みを浮かべたままゆっくりと近づいてくる。
「せっかく講義もゼミもないからと惰眠を貪っていたら、まさかいきなり弟に宣戦布告されるとは、思ってもみなかったわ……」
「ま、待ってくれ! 俺が悪かった!」
帯刀晃奈。大学二年生。俺の三つ年上の姉。
その気の強さを伺わせる若干釣り目がちな目に、うなじにかかるポニーテール。余分な脂肪の一切ない完璧なスタイルに均整の取れた顔立ちという、自他共に認める非の打ち所のない超絶美人だ。
その容姿から交際を申し込まれること数知れず、俺も友人知人から紹介してくれと何度も頼まれた事がある。実際に当人がナンパされている場面も何度も目撃した。
しかし皆騙されてはいけない、と俺は声を大にして言いたい。
確かに外見はいいかもしれない。しかしその中身は皆の想像とは全く異なるのだ。
幼少時、爺ちゃんに武術の才能を見込まれてから今日に至るまで。その身体は一日たりとも休むことなく鍛えられ続け、その実力は母さんをも凌ぐ人間兵器として完成されている。
高校に入ってからは部活動が忙しくてサボり気味だが、長年同様の稽古を受けているはずの俺がこの年齢になっても本気で組み手して未だに足元にすら及ばない化け物なのだ。
そして化け物の様子を見る限り、どうやら謝罪を受けいれてくれる気はないようだ。
(諦めるな! ここで諦めたら確実にバッドエンドだ!)
生き延びるために、必死に脳細胞をフル回転させる。
(そもそも勝手に人の部屋で寝ているほうが悪いんじゃないか? そこを突いてお互い様だと言う形に持っていけば……。そうだ、それしかない!)
名案だ。これなら姉貴も黙らざるをえないだろう。いくら姉弟だからといって、もし逆のことをすれば姉貴は激怒するはずだ。
(いや、本当に何で俺の部屋にいるんだろう? まあ、それは後回しでいいか。とにかくこれで助かる!)
俺は自信を持って口を開いた。
「だ、大体、俺の布団で勝手に寝てるほうも悪いだろ。こんな時間から何やってんだ。そんなんだから彼氏も出来ないんだよ」
――その瞬間、部屋の中から音が消えた。
ピタリと足を止める姉貴。サッ、と青ざめる俺。階下からの掃除機の音が、やけに大きく聞こえる。
(やっちまった、やっちまった、やっちまった!)
勢いで余計なことまで口走ってしまった。
姉貴にこの手の冗談は通じない。昔同じようなことを言って、ボコボコにされたことがあるっていうのに、何故忘れてしまったんだ。
最早逃走以外に残された道はない。幸い姉貴はまだ動きを止めたままだ。
視線は決して姉貴から離さず、後ろ手で必死にドアノブを探る。
(畜生、鍵が上手く開かない!)
手が震え、上手く鍵が掴めない。焦る俺の心とは裏腹に、ノブはガチャガチャと音を鳴らすだけだ。
「うんうん、よぉーく分かった。裕也はあたしに鞄を投げつけただけじゃ飽き足らず、そういうこと言うわけだ」
再び前進を開始した姉貴が、もうすぐ近くにまで迫ってきている。
最後のチャンスだ。
何でもいい! 何か、何かを言わないと!
「違っ、待っ――」
待って、と言い終える前に零距離にまで接近する姉貴。
俺はドアを開けるのを諦め、とにかく姉貴から離れようと身を捩ったが、それより早くつま先を踏み潰される。
「いっ……!」
激痛。
反射的に屈みかける俺の下顎を、正確な飛び膝蹴りが真下から打ち抜く。
「がっ……!?」
跳ね上がる視界。
その先には、飛び膝蹴りの勢いのまま跳び上がり、宙で体を捻る姉貴の姿があった。
(人間技じゃねえ……)
ぶれる視界の中で、放たれた回し蹴りが迫ってくるのを、俺はただ見ていることしか出来なかった。
◇
「起きんか、裕也。晩飯の時間じゃ」
ピシピシと誰かに頬を叩かれ、目を覚ます。
窓の方に目を向けると、既に日が落ちている。どうやら結構な時間の間気絶していたらしい。
「ああ、爺ちゃんか……」
呆れた顔をして俺の顔を覗き込み、頬を叩き続けていたのは爺ちゃんだった。
帯刀斎蔵。帯刀家最年長。
真っ白に染まった髪と立派な髭がトレードマークの屈強な肉体の持ち主で、とても齢七十近いとは思えないほど元気なお爺ちゃんである。
武芸全般を修め、かつては家にある道場に溢れるほどの門下生がいたとよく豪語している。嘘か真かは分からないが、本人が強いのは事実だ。
そして姉貴に武の才能があると余計なことを見抜いて鍛え上げた張本人でもある。ちなみに俺は、ついで扱いで一緒に鍛えられた。
「起きたか。晃奈にも困ったものじゃのう。無闇に力を振るうなといつも言っておるのに。しかし裕也もいまだに勝てんか。稽古の内容は同じじゃし、性別と年齢を考えれば普通勝てるはずなんじゃが」
「姉貴が規格外なだけだ。同級生くらいにだったら誰にも負けねえよ」
ズキズキと痛む顎と左頬を摩りながら答える。
痣になってないだろうな? これ。
「ふむ、大丈夫そうじゃの。さて、いつまでも制服でおらんと、さっさと着替えて降りて来い。皆もう待っとるぞ」
そう告げると爺ちゃんは部屋を出て行った。
「あらあら進士さん、ご飯食べながらスマホを見るのは行儀が悪いって、前に言いましたよね?」
「ひっ? ごめん、ごめんよ加奈子さん! ちょっと新人の子からメッセージが来てたから……!」
私服に着替えて一階に降りると、リビングの方から声が聞こえる。どうやら親父も帰ってきているらしい。
「親父、おかえり」
「……ああ裕也! ただいま!」
空腹を刺激するいい匂いが漂っているリビングに入って一声かけると、慌ててスマホをポケットに突っ込みながら、親父が首だけをこっちに向ける。
帯刀進士。サラリーマン。
ピシリと整えられた七三わけの髪型に、人のよさそうな顔立ち。スラッとしたスタイルをしていてスーツ姿が実によく似合うんだけど、常に若干猫背気味なのがマイナスポイントだ。
母さんとはこの年になっても名前で呼び合う仲で、この夫婦が喧嘩しているのを見たことがない。と言うか、親父が怒っているのを見たことがない。ただし、上下関係は明確だが。
「ねえねえ裕也、このハンバーグ貰っていい?」
「よくねえよ!?」
席に着こうとすると、何一つ悪びれる様子もなく話しかけてくる姉貴。
思わずいつもの調子で返事をしてしまったが、どうやらさっきの件についての謝罪の気配はなさそうだ。
それどころか、自分のしたことを微塵も悪いと思っていないのかもしれない。確かに鞄ぶつけたのは俺も悪かったけどさ。
「進士さん、話は終わっていませんよ?」
「ごめんなさい! 絞まってる、それ絞まってるから!」
俺が唖然と姉貴を見つめる横では、母さんと親父がじゃれあっている。
親父から助けを求めるような視線が飛んできている気がするけれど、意図的に無視することにした。こっちを巻き込もうとしないでくれ。
「情けないのぅ、進士。帯刀家の男子たるものその程度で……。ところで裕也、ハンバーグ取られかけとるぞ」
「ちょっと待て姉貴コラァ!」
一人黙々と食事をしていた爺ちゃんに言われて、慌てて自分の皿に目を戻す。
そこには俺の大好物である母さんの手作りハンバーグが、しれっとした顔の姉貴の手によって切り分けられようとしていた。
「何不思議そうな顔してんだ! それ今日のメインだろうが!」
いつもと変わらぬ騒がしい食事風景。
これが我が家の日常。
こんな毎日が続くと思っていた。これが当たり前だと思っていた。
この日、いつものように眠りにつくまでは。
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