《黒鉄庵の姫君》 その四
座敷で出迎えてくれた芥川三茶様は、なるほど、いかにも苦労人といった風体の老人だ。
白髪交じりの頭髪に、深いしわが刻まれながらも微笑を湛えた相貌は、一見して真面目で温和な印象を受ける。
「江戸からはるばる、ようこそいらした、榊原十一郎謎時殿。儂が来栖家家老、芥川三茶です。調査のお勤め、よろしくお願い申し上げます」
加えて、自分のような若輩者も座敷に上げて、丁寧に礼をしてくださる。力原野心様の遣いだから……、というだけではないだろう。
小四郎が「いじめるなよ」と言った理由が、なんとなくわかった。たぶん、見た目だけでなく、性根から真面目な人なのだ。自分とは違って。
「ええ、まあ、がんばります。……ほどほどに」
背後に控えたあおばが「御曹司」と小さな声で叱責してくるが、そう言われてもなぁ。
「早速、下手人探しを始めていただきたいところでしたが、もう夜も遅い。その名通りの謎解きの御業、開帳していただくのは明日以降ということで、よろしいですかな」
その名通りの謎解きの御業、ときたか。漬物石を両肩に載せられたような気分だ。
「ええ、異論ありません。明日どころか、明後日からでも良いくらいですが……」
あおばに背中を突かれた。痛い。
「……もちろん、明日から張り切って捜査にあたらせていただきます。そうだ、どこか、宿など紹介していただけませんか」
芥川様は、あおばの暴挙には気づいていない様子で「ふうむ」と唸った。
「宿ですか。大目付殿の遣いにふさわしい宿となると、なかなか……」
「ああ、拙者達は旅籠でも、宿茶屋でも。寝る隙間があれば、それで構いません」
また、あおばが背中を強く突いた。痛いって。突くだけでなく、ついに言葉も出てきた。
「失礼ながら、御曹司。大目付様の命にて参った以上、旅籠などに泊まれば、力原様の面目にも関わります。本陣を開けていただくのがよいかと存じます」
ぎょっとする。本陣だって? そんなの、父上だって泊まれないぞ。幕府要職や高官だけが泊まれる高級宿だ、興味がないわけではないが……。
「あおば、拙者達はあくまで遣いで、本人ではないよ。それに拙者、いきなりそんな贅沢をしたら、居心地が悪くて眠れる気がしない」
「ですが……、いえ、差し出口を申しました。ご無礼をお許しください、芥川様」
自分が本気で嫌がっていると見て取ったのか、あおばが頭を下げる。芥川様は気にしていない様子で、微笑して顎をさすった。
「仲がよろしいのですな、謎時殿と、あおばさんは。大変けっこう」
「まあ、竹馬の友ですから。そういうわけで、安宿でも結構です」
芥川様は「いやいや」と手を振った。
「さすがに、力原殿本人ではないとしても、その遣いを安宿に泊めさせるわけには。ちなみに、いつごろまで滞在の御予定で?」
ええと、命を受けてから三週間後に報告をする予定で、移動に七日かかったので、帰りも七日かかるとして……。
「本日含めて、長くて三日ほどかと」
「御曹司、京に寄る願望はお忘れくださいませ」
「……本日含めて、最長で六日ですね。六日目の朝に来栖を発たなければなりません」
「六日ですか。ふうむ。本陣はお嫌なのですな? よろしい、では儂の家の離れに滞在するのがよいかと。見ての通り、恵まれた国とは言い難く、歓待はむずかしいですが……」
「いえ、先ほども言いましたが、贅沢は肌に合わないもので。寝床があれば、それだけでありがたいです」
「ならば、せめて布団は良いものを出させましょう。それと……」
芥川様は、少し気まずそうに、こほんと咳を打った。
「実は、ほかにも……、その、少し事情のあるお方が、本邸に滞在しておりましてな」
「事情のあるお方……ですか?」
ええ、と芥川様がうなずく。
「黒葛家の、唯一の生き残りである、黒姫様をお預かりしているのです。黒勝様が亡くなられた日、黒姫様は当家に滞在しておられたので、亡くなられて以降も引き続き我が家にてお世話を。なにせ、親族もおられないお方ですから」
故人の置き土産を律儀に守っているのか。なるほど、相当な苦労人らしいな、と思った。
翌朝、自分達はさっそく仕事にかか……らず、離れの土間でゆっくりと飯を作っていた。
「あおば。見ろよ、この鴨肉の赤の深さを。きっとうまいぞ」
「控えめに申しあげますが、御曹司は武士の風上にも置けない愚物でございます。大名殺害の調査という、立派なお勤めがあるにも関わらず、まずは料理から、などと……」
愚物は言い過ぎだろう、愚物は。実際、張り切って棒手振りから鴨肉やら野草やら納豆やらを籠いっぱいに買ってしまったので、否定しきれないが。
木桶を両端に二つぶらさげた天秤棒を担ぎ、家々を回って食材やらなにやらを売る棒手振りは、江戸と同様、来栖にもいた。数は少なかったが、山河に囲まれた土地だけあって、食い物は美味そうだ。米は芥川屋敷に勤める女房達が、炊いたものを分けてくれた。
「そう言うなよ。芥川様からは、離れのかまどは好きに使ってよいと許可を得ているし、あおばだって、拙者の料理は嫌いじゃないだろう。どちらにせよ、辛く苦しい仕事の前に、少しくらい楽しみを探したっていいじゃないか。野草も、どれもうまそうだ」
旅先で、その土地のもので、料理をする。これはとても面白い試みじゃないかと思うのだが、あおばは冷たい顔でわざとらしく溜息を吐いた。
「野草を食すならば、上杉鷹山様に倣って『為せば成る』としていただきたいものでございますが。お勤めも『為さねば成らぬ』のでございますゆえに」
この女隠密の諫言は、たまに難しくて困る。ええと、上杉鷹山って誰だっけ。
「せめて、御曹司がお勤めを得るまでは、おそばで……、と思っておりましたが、やつがれももう二十を過ぎ、立派な行き遅れでございます。どうしたものでございましょうか」
「どこにも行けなくなったら、拙者が嫁に貰ってやるよ」
「御冗談を。旗本の御曹司が、やつがれのような身元の分からぬ忍びを嫁にするなど。妾でも難しいでしょう。笑えもしません」
「愛想笑いくらいは、してくれてもいいんじゃないかと思うけどな」
料理に取り掛かろうと視線を上げると、誰かと目が合った。土間に開いた窓から、黒髪の童女がこちらを覗いていた。ちょっとびっくりする。
「『かてもの』じゃ、たわけ」
その童女は、自分の顔を睨みつけ、いきなり罵倒してきた。か、かてもの?
「米沢の大名、上杉鷹山は飢饉に備え、保存食や食える野草について、書物に纏めさせた。その書物の名が『かてもの』じゃ。その鷹山は『為せば成る、為さねば成らぬ、何事も、成らぬは人の為さぬなりけり』という短歌を詠んでおる」
ほ、ほう。つらつらと淀みなく、解説が続く。
「つまり、そこの女は『行動せんとなにも変わらん、だから行動せよ』と申しておるのじゃ。そんなことも知らんのか、あほたわけ」
つらつらと、流れでまた罵倒された。
あおばが、窓に向かって丁寧に頭を下げた。
「お初にお目にかかります、黒姫様。お詳しいのでございますね。こちらのあほたわけは、榊原十一郎謎時様と言いまして」
「江戸から来た者どもの名に興味はない」
挨拶を遮って、童女がずんずんと――あるいは、とてとてと歩いて土間に入ってきた。真っ黒い着物に、子供に巻くにしては太く分厚く黒い帯。あおばは黒姫様と呼んだが、そうか、芥川様がおっしゃっていた、黒葛黒勝の娘か。黒葛家唯一の生き残り……。
齢七か八か、という程度の幼さに見える。利発そうな顔で、実際、学があるようだ。黒姫様は、自分とあおばを交互にじぃっと睨みつけ、「昼行燈っぽい男は、行燈男じゃな。根暗っぽい女は、根暗女じゃ」と失礼なあだ名をつけた。なにしに来たんだろう、この娘。
「……黒姫様も、鴨肉、食いますか?」
と、ひとまず善意で聞いてみたのだが、童女はより一層強く自分を睨んだ。
「わたくしに毒を盛る気か。いらん、そんなもの。ふん」
黒姫様が、食材の入った籠を蹴り倒し、「あ、こら……」と制止する間もなく、土間から駆けて出て行ってしまった。怒らせてしまったらしい。あおばがむっとした顔になる。
「黒葛家の姫様とはいえ、無礼な態度でございます。追いかけて捕らえてまいりましょうか。やつがれの忍びの技、久々にお見せするのもやぶさかではございません」
「そんなことに忍びの技を使うんじゃないよ」
鴨肉を拾い上げる。土を落としてきれいに洗えば、問題なく食える。
「子供のしたことだ。気にしちゃいない。あおば、常備薬を持ってきているんだろう? 拙者が腹を下したり、毒を盛られたりしたとき用のを」
腹を下したことも、毒を盛られたこともないので、いわゆる杞憂の薬だが、少し土が付いたくらいで童女に怒るほど、大人げなくはないつもりだ。
「……御曹司がそうおっしゃるなら、やつがれも我慢いたしましょう。一度目は」
二度目も我慢してくれ。意外と大人げないんだよな、あおばは。
ともあれ、朝餉だ。鴨肉は叩き、しょうがと合わせてつみれにした。野草をぶつ切りにして七輪で炙ったものと共に、酒、醤油で煮込む。濃い味の鴨煮だが、腹いっぱい食っておきたい朝餉にはちょうどよい。
江戸の民はみな、朝は米、味噌汁、漬物があれば十分だというが、自分はもう少し凝ったものが好みだ。味噌汁の代わりに鴨の煮物と、棒手振りから買った納豆も付ければ、ご機嫌な朝餉になる。
すまし顔なのでわかりづらいが、黒姫様が食材を蹴ってから悪かった、あおばの機嫌も直った。朝餉に美味いもの食って良かっただろ?