《榊原の十一郎の謎解き》 その一
はらはらと花押の吹雪が床に落ちる中で、「ほほう」と烏丸様が感嘆の息を吐く。
「証拠だけでなく、黒姫を江戸まで連れてきたのは、なるほど、町奉行上がりの拙者の前で仇討ちを認めさせ、許可を得るためか」
「さようにございます。どうか、仇討ちのご許可と、拙者による助力もお認めください」
烏丸様は、しかつめらしい顔のまま、横目で力原様を見た。
「だ、そうだが。どうだ、力原殿」
「儂の花押だけじゃ、儂の仕業とは限らんだろう。なあ、烏丸殿」
力原様もまた、烏丸様を横目で睨みつける。
「儂がやったと、思うか? 弱小大名と癒着し、御用金を吸い上げていたと?」
寒気がするほどの威圧を、しかし、烏丸様はものともしない。
「そうでもなければ、これほどの量の花押を、わざわざ娘に託す理由がなかろう。もとより、力原殿は勘定奉行上がり。御用金を吸い取る程度の帳簿改竄はお手の物だろう。各地に協力者もごまんとおる。そうであろう?」
「……では、仮に儂の仕業だとして、どうする気だ?」
「無論、力原殿の行いについては、上様にご報告いたす。今すぐにな。……ああ、仇討ちについては、儂は認めるつもりだぞ。存分になさるがよい、黒姫よ」
静かに。それでも、燃えるように。ふたりの大目付の間で、気迫と気迫、権力と権力がぶつかり合って、火花を散らす。
「急に謁見しては、上様に迷惑だろう。考え直してはいかがか。ほんの半刻ほど時間を置くとか、な」
「その少しの合間に、さて、なにを企んでおられるのかな、力原殿。心配ご無用だ、ちょうど、このあと謁見の予定だった。黒姫様、十一郎、それから隠密のあおばも。みな、共に参られよ」
急にこっちに話が来た。
「え……、せ、拙者もですか?」
「おまえが一番、この件について話せるだろう。護衛にもなる。力原殿、もしも我らに対し、まだ何かあると言うのであれば……」
烏丸様が、すっくと立ち上がり、力原様を見下ろした。
「……今度は裏工作など企まず、武士らしく、素直に真実を奏上してはいかがかな」
趨勢は決したと、言っていいだろう。
唇の端から血を流すほどに歯を噛みしめて、しかし、力原様は立ち上がらない。
「腕力馬鹿の、道理も知らん番方上がり風情が……」
地獄から響いてくるような声で、小太りの大目付は唸った。
「……あいわかった。武士らしく、沙汰を待つとしようじゃないか」
「では、これにて。参るぞ、皆の衆」
すたすた歩きだす烏丸様のあとを慌てて追って、座敷を出る。
……まさか、上様に謁見することになるとは。胃の痛さが加速する。
廊下を歩きながら、自分を振り返らずに、烏丸様は口を開いた。
「師範を通じて、わざわざ拙者に同席するよう差し向けたのも、すべて策だったのか。帰り際、道場に短時間寄るくらいならば、不思議はないからな」
「……はい。無礼な真似をいたしました」
力原様しかいない予定だった報告会に、同等の権力を持つ烏丸様を呼ぶのは、絶対に必要な手間だった。師範に無理を言ってでも呼ぶ必要があったのだ。
「無礼は構わん。だが、浅慮だ。拙者と力原殿の不仲が見せかけであったらどうした。裏でつながっておったら。拙者もまた、御用金を吸い上げる極悪人であれば、どうする気だったのだ。ここで貴様ら一網打尽であったぞ」
「あ、それはないとわかっておりました」
烏丸殿の足が止まり、しかつめらしい顔が振り返る。
「なぜだ。拙者もまた権力の座に居る者。後ろ暗いところがないわけではない。なぜそうも信用しているのだ、拙者を」
どうしよう、これ、言っていいのかな。共に歩くあおばと黒姫様をちらりと見て、しかし言わないわけにもいかず、言葉を選ぶ。
「……以前、道場にて手合わせをいたしましたとき、烏丸様は、遠慮なくかかってこいとおっしゃいました。とはいえ、親子ほども年が離れておりますし、拙者はほどほどの力で手合わせをしたのでございますが」
ようは、接待をしたのだけれども。
「烏丸様は、何度も何度も拙者を立ち合いに指名し、本気を出せ、やる気を出せと……、拙者も最後に本気を出して、結果、その……」
烏丸様は、あっさりとうなずいた。
「ああ、おぼえておる。接待を辞めた途端、拙者はあっという間に打ちのめされ、腰を痛めて公務に支障をきたすほどだった。恥じてはおらん、堂々と言えばよい」
「……では、堂々と言いますが。あの時、烏丸様は担架で運ばれながら、拙者を叱責するでもなく、讃えるでもなく、腰が治ったらまた手合わせ願うから、首を洗って待っておれ……、と申されたのです」
黒姫様が、あっけに取られた顔で烏丸様を見た。そんな負けず嫌いには見えないものな。
烏丸様は気まずそうに「武士が、負けっぱなしで終われるものか。当然、再戦するとも。勝つまでな」と告げた。
「拙者はその、家や親になにかされるのではないかと怯えていたのですが、まさか、正面から剣で再戦を宣言されるとは思っておりませんでした。そのとき、烏丸様は信用できるお方だなと、思ったのです」
「剣で判断したのか。……つくづく、勘定方の家に生まれた男とは思えんやつだ。番方に興味はないか。与力に空きを作ってやれるが」
「もったいないお言葉ですが、拙者には荷が重たく存じます」
あおばが小声で「御曹司、好機にございます」と言うが、優柔不断な自分に与力は勤まるまい。勤めるなら、もう少し気楽な役がいい。
「拙者からの誘いを断るか。……不思議と憎めん男だな、貴様は」
呆れたように言って、烏丸様はまた歩き出す。
「さて、十一郎よ。力原はああ言っていたが、大人しく待っていると思うか」
「大人しく待たれていては、あおばに毒を盛った者を斬れません」
「……おぬし、そんな顔もするのだな。ますます気に入った」
権力者に気に入られるのは恐ろしいが、自分にも譲れないものはあるのだ。




